5.エピソードと雑感
バス:通常5毛だがきれいなバスや快速等だと1元、郊外へ向かう中距離だと距離によって値段が異なる。停留所名は車掌さんが連呼するか、自動音声。ワンマンバスもある。自動音声の「右へ曲がります、ご注意ください」の中文バージョンもあった。車掌は女性か学生風で大人しい人も多いが、中には混んでいる中を分け入ってお金を徴収して回り、払わないなら降りろ、とけんか腰でまくしたてる強者おばさんもいた。よくあれだけ元気が続くよ、と感心し、回りの人もその声を聞くたびに苦笑していた。
香山から乗ったミニバスは一悶着あった。満員になるまで出発しようとせず、早く乗った人たちが「一体いつになったら出るんだ!」「ニー不走、我メン走」と騒ぐ。
やむなく数席残して出たものの、運転手夫婦は呼び込みを続け、歩いている人を詰め込みやっと満席になって出発。隣のカップルの女の子は「4塊貴了(4元は高いよ)」と男の子に文句を言っていた。出発も遅れたしバスにすればよかったのに、ということらしい。途中降りる人のいた白石橋で停まらなかったりもあり、ミニバスは客が減ると途中で運行を打ち切る等悪いうわさも多いが、せいぜい詰め込んで19人、一人当たり2元か4元だから、採算ぎりぎりだろうし打ち切る気持もわからないでもない。社会主義時代と違って(今もそのはず?)自力で生きてゆかねばならなくなったので、皆必死、そんな気がした。
中関村へのバスは大混雑で、袋が破けてウイグルのパンが落ちてしまった。すると一人のおばさんが「誰のパン?」、そして「袋子不好、別着急(袋がちゃちなのよ、今直してあげるから)」と穴のあいたビニール袋を縛ってくれる。どこまで行くんだ、中関村か、(席が空くと)ここに座れ、カメラはちゃんとしまえ、と世話好き。そして隣のおじさんと一緒になって「日本人?長得一様」とまた言われてしまった。中関村は次だからね、と一つ手前で降りてゆき、中関村に着くと別のおばさんがここだよと教えてくれた。
電話
市中にあるお店の公用電話は便利だ。脇の機械に秒数と料金が表示されて支払いも心配ない(市内なら数毛程度)。公衆電話ボックスはカード式が多く、カードがないとかけられない。コイン式もあるが、コインを入れる前に番号を押してから、自動音声の指示に従って金額を投入する仕組みで、それがわかるまで戸惑った(受話器を耳に当てると自動音声で説明しているのだが、それを知らず受話器を取ってすぐにお金を入れると戻ってきてしまい、最初故障かと思った)。
北京の風景:鳥自慢のおじさん達
三不粘
同和居飯荘の三不粘はかつて有吉佐和子のエッセイで読み、一度食べてみたかった。彼女が訪中したのは文革中だが、古い伝統の珍味が残っていたと喜んでいた。三不粘があるか尋ねると、女性従業員が「どうしてここがわかった、移転したのに」と喜ぶ。もう一つの銘菓銀糸は今日はないが、三不粘はある、これは天皇も気に入ってわざわざ空輸して取り寄せた、頤和園のお店で出しているのもここの三不粘だ、等々話してくれる。
一人用のコンパクトメニューはないので、牛肉炒めと白菜炒めを頼む。食後に胡同を歩いた話などをすると、「えー、胡同?珍しくない?でももう今残ってないでしょ。中は古いままだけど外側はみんなきれいにしちゃって。十数年前なら胡同も残っていたけど、外国人は自由に歩けなかった。今は”随便走”だけど、古い街は”没有了”」と彼女達。三不粘はカスタード系のお菓子、押さえた甘さでこれはお勧め。量が多いので、食べきれずに包んでもらう。冷めると多少固くなるが味は良い。最後に一緒に記念撮影すると彼女達も「今天挺好了(今日はほんとうにいい日だったわ)」と喜んでくれ、帰りぎわに見送ってくれた。
オーバーブッキング
帰りの空港でのこと。11月1日新空港に移動したばかりのためか、いろいろトラブルも多いようで、チェックインのときUAの端末が固まってしまった。その直前に私の番になったとき、「座席がないと出る、オーバーブッキングかも」と言っていたので焦る。しかし隣のUAの端末で券をゲットした人がおり、「あそこ動いてるみたい」と言うと係官はさっそくそちらへ移って(一瞬席をはずしたその端末担当の女性が戻ってきて何か言っていたが)発券してくれた。乗ってみてわかったが、ファーストクラスだった(つまり格安チケット客を押し込んでくれたわけだ)。
その後飛行機に乗り込んで離陸を待っているとき、先ほどの係官が来て「これはあなたの行李票か」と聞く。私は預けていないので多分前の女性のだ、と言うと「一緒に探してくれるか」と言う。探しつつ「流暢な中文を喋っていた長髪の日本女性だった」と言うと「お!」と思い出した様子ですぐに見つけだし、確かに彼女の行李票だった。帰り際、彼は「どうもありがとうございました」と日本語で言って降りていった。あの端末トラブルの中で渡し忘れたチケットをわざわざ探して届けに来るなんて、ちゃんと仕事に責任感を持ってるな、今の中国人は本当によく働くようになった、と思う。
日本に戻ってきたとき、空港職員その他に年配者が多いことに気が付いた。そういえば中国のきれいな新職場は若い人ばかりだ。中国のあの年代の人たちはどこで働いているのか、新しい今風の職場では使えないとみなされているのではないか、と気になった。
北京の風景:鳥自慢のおじさん、朝の公園にて
中国と少数民族の距離と、中国と日本の距離
大学時代、クラブの先輩に中国人がいてよく下宿に遊びに行った。モンゴルや満州族と日本が攻め入った場合の違いについて話したとき、彼女は考え込みつつ「日本人にはわかりにくいかもしれないけれど、モンゴルや満州は同じ範疇に感じるんだよね。でも日本、て全然別な気がする」ウイグルなど西域については「顔立ちは違うけどまだ近い。XXさんには悪いけど(とクラブの在日韓国系の人の名をあげ)、中国人ははっきり言って朝鮮やベトナムは属国、て思っている。でも日本、て正直ヨーロッパと同じくらい遠い。あまり関連なかったでしょ」よく中国を同文同種と呼び親近感を持つ日本人がいるが、この話を聞いたときに、友達の多いAさんにとってのBさんと、友達の少ないBさんにとってのAさんの関係と似たものを感じた。確かにチベットや西域の王に嫁いだ中国皇帝の娘や後宮女性、また中国の後宮に入る少数民族や高麗人がいても、天皇に嫁いだ中国人、中国の後宮に入った日本人の話は(最後の清朝皇帝の弟のケースを除いて)聞かない。
一方台湾の留学生は、「台湾の公立の小学校では徐福伝説を習うよ、徐福と二千人の子供達が日本へ行って日本人になった。だから私たち兄弟ね」と言った。当時徐福伝説そのものを知らなかった私は、(台湾は好きなのだが)思わず学校で勝手にそう教えて兄弟だなんて、ちょっと待ってよという気がした。この話を北京の留学生にしたところ、「中国人と日本人は兄弟なんかじゃない。全然別。学校でもそんなこと習わない」と言われた。 それが今回ごく普通の人がルーツは同じで兄弟だった、と言うのを聞いて、非常に不思議な気がした。何かのかたちでそうした情報が入っているのだろうが、単に知識としてなのか、政治的に何かあるのか、とつい穿ってしまう。
北京の風景:瑠璃廠にて、日がな一日雑談に興じる、昔懐かしい人民服姿の老人たち
人民共和国は遠くになりにけり
北京は実に十数年ぶりだった。前回来たときは自由旅行が解禁になったばかり、「地球の歩き方」中国編の初版が出た頃で、北京上海ですら友誼商店以外の店で物を買うとまだまだ無言の人だかりに囲まれる時代だった。さらにそれ以前、団体旅行しか不可の頃の中国経験もある。
そのイメージからすると、今回の北京は隔世の感だった。モヒカンもいれば、ピアス男(ただしプラスチック製)、茶髪男もいる。厚底靴の少女もいる。日本同様地下鉄車内でいちゃつくカップルも見た。街中の広告タレントも、どこか鈴木保奈美、どこか葉月里緒菜、かつてのマッチ、裕次郎、といった顔立ちが多い(総じて男のほうがダサイ)。ファッションセンスも東京と大差なく、容姿もぐっとレベルアップ、北京のいけてる少年少女の写真を撮って、女性誌恒例の東京VS大阪ならぬ東京VS北京のファッションウォーズをやってもいいのではないか、と思えるくらいだ。一方いわゆる人民服(中山服)姿の人々もまだ見かけた。上海(1996)は少なく夏だったせいもあると思うが、基本的に首都はどの国でもおのぼりさんが多い気がする。人民服姿は朝の公園やターミナル駅周辺、特に鳥自慢の老人たちや北京南駅で多く見かけた。王府井や東単、西四などはすっかりきれいになり、おしゃれなブティックも出現、ホテルの最高級は日本のそれと変わらない。一方友誼商店へ行くと閑古鳥が鳴き、かつて中華書局発行中文課本の北京紹介編で「ここが天安門、あそこが各国大使館、あれが北京飯店」とあった老舗の北京飯店も、地球の歩き方最新版に「これで5つ星?」と書かれる凋落ぶり。北京飯店や友誼商店のレベルが下がった、というより相対的に他がよくなったのだろう。市場経済の厳しさを感じる。
最後の晩はリッチに崑崙飯店に泊まったが、その前の通りを夜歩いていると、草で編んだバッタや蝶ちょ、カエルを手にした人民服姿の老人がいた。前を行く若い中国人カップルに差し出したが、女の子がイヤー、という感じで避けるようにして逃げた。私もいったん通り過ぎたが、気になって引き返し、とぼとぼと歩いている老人に値段を聞いた。小さいのは5元、大きい蝶だけ10元、4つで25元という。お金を見るが細かいのがなかったので、50元でいいよ、おつりもいい、と言うと、いったんポケットをさぐったあと気をつけの姿勢をして、真謝謝ni阿、と言った。ホテルに戻ってもその声が残って重い気分になった。
文化大革命の余波のまだあった頃、よくラジオで労働者、農民、兵士、と言っていたが、結局何も変わらなかったんじゃないか、という気がした。結局都市生活のほうがお金になる。おそらく出稼ぎ農民らしい日焼けした彼は、5元10元ひねり出すのにとても苦労している(この価格が妥当かはさておく)。ちょっとした、パソコンが使えるかどうか、そうした細かいことの違いでしかないのだが、でもそれらが複合的に積み重なると彼らと都市生活者の間には大きな賃金格差が出てしまう。しかしかつての中国も、今より平等で泥棒も少なかったのだろうが、何となく皆不機嫌だったのも確かだ。店員はやる気なく、外国人が来ると人だかりができるが、目だけ異様にぎらぎら光らせたまま無言だった。話かけるとそっぽを向いたり逃げるように去っていった。ホテル、公安、駅、どこも自然な笑顔が少なく警戒心があった。今は路上で道行く人に話かけても警戒心なく答えてくれ、銭湯、バスの中、食堂で相席になった人も普通にどんどん語り、この人達こんなにおしゃべりだったのか、と改めて思った。町中でも皆元気にワーワー喋っており、これが本来の姿だったのだな、と痛感する。
草で編まれた虫やカエルはなかなか精巧なもので、眼には赤い毛糸が編み込まれていた。どういう思いで一匹一匹編み、最後に毛糸の眼を通したのだろう。
革命とはもしかしたら、数百年に一度の、ひずみが大きくなりすぎたときに一旦既得権益者をゼロに引きずりおろし巻土重来を期するための、壮大なリセット作業なのかもしれない。そしてそこから再び優勝劣敗が始まる(それは多分にもとから不平等で恣意的な優勝劣敗なのだが)。そして結局元に戻って行くのだ。
北京の風景:現在の民家の壁、スローガンの代わりに防犯注意など
(完)
胡同: 胡同
1980年個人旅行不可の時代: 旅行写真
1980年代個人旅行解禁の頃: 旅行写真
1970年代文化大革命の頃の音楽: 音楽館
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