桜並木
慶州では桜並木をよく見かけた。仏国寺へ行く道沿いにも桜が植林されている。日本のイメージと重なり、嫌ではないのかと思うのだが、知人に「これ、桜ですよね」と聞くとそうだと言う。「日本の花ですよね」と念を押すとそうだ、と言う。満開の頃になると大勢観光客が桜を見に来るのだという。そういえば、KBSのラジオでも、韓国でも桜前線を発表しているという話をしていた。知人自身も桜は好きだと言う。韓国の花はムグンファ(槿)ですよね、と言うと、「ムグンファだけど、私の考えではあれはよくないよ」と知人。どうやらもともと、韓国人も桜を好きなのではないか、と思った。気候も同じで韓国にも自生しているだろうし、日本人が先に桜は日本の花と言ったのでそういうことになりはしたが。
ところで慶州在住の知人いわく「日本人ばかりですよ、仏国寺に来るのは」、自分たちは正月には地元のお寺に行くと言っていた。
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いちごのハウス。3月末ちょうど収穫時期で、
ソウルでも小型トラックでよく売られていた |
3月末の韓国は黄砂がひどかった。ソウルも一日中くもりのようなどんよりした天気だったが、曇っているのではなく黄砂のせいだという。慶州でも同様で、知人の話では毎年3日から一週間くらいこうなる、中国から重金属を含み体に悪い、気管支をやられる、と言っていた。農産物への被害も大きいらしい。
ところで黄砂と直接関わりはないが、別の文脈で「韓国と中国の関係はいま、どうなんですか」と聞くと、「良くもない、悪くもない。ずっとそんな感じですよ」とゆっくり言った。
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慶州の町並 |
韓国の知人たちとの会話
慶州在住の知人の友人たちといろいろ話す機会があった。皆第二次世界大戦当時小学生だった。解放当時、10歳で兄貴を頼って来日し山口県で解放を迎えた人、慶州で張山ハルオという名で迎えた人などさまざまだ。みな「特攻隊仲間だ」という同郷の友人らで、冗談を言ったりお互いの日本語を「日本語だめ、下手!」と大声でからかいあったり、何だか日本の古い世代(旧制中学あたり)の友人関係を見ているような濃さと温かみがあった。
お酒が入ってくると、日本語で話しているというのもあるが、紀元2000年の歌(日本の皇紀2000年祭のときの歌らしい)を歌ったり、何とか南十字星という歌、上野駅から九段へ行く歌(おそらく両方とも軍歌だろう)をいい声で歌う。くったくなく歌うので、「そういう歌、嫌じゃないですか?」と聞くと、「嫌じゃないですよ」と言う。皆結構日本語がうまいので、ときどき日本人と会う機会のある人をのぞき他の人もよく忘れないですね、と言うと、毎朝日本語で電話しあっているという。「日本語は嫌じゃないですか」と聞くと「嫌じゃない。使わないと忘れるから」。彼らから「韓国をどう思うか」と聞かれたので、反日感情の強い国だと思う、それが日本語使ったり軍歌を歌うので驚いた、と言い、「日本は嫌いじゃないんですか」と聞くと、「家族の中に日本にひどい目にあった人がいる人達は、そりゃ嫌っていますよ。日本を嫌っている人は本当に嫌っている。私ももし、家族にそういう人がいたら大嫌いですよ。それはあなたもわかるでしょ?でも私達はそういうのがなかったから、もう年寄りだし、懐かしいのもありますよ」という。
朝鮮戦争では慶州は戦場になったのかきくと、なった、と言う。そのとき逃げたのですかと聞くと、詳しい話はせずに「あの戦争で日本はいっぱい物売って復興した」と言った。その話はよく聞いているので「そうですね、そう習いました」と言うと満足したように「あのおかげで日本が早く復興することができた」とうなづく。そして
「隣でしょ。私も20人親戚が日本にいますよ。人も物も行き来あるしね、いつまでも言っているより、うまくやってゆけるようになったほうが良いと思いますよ。大体、日本人はもともと韓国人ですよ。ペッチェが滅びたときやいろいろなときに渡って、韓国から渡っていった人が半分以上ですよ。日本人の半分は韓国人なんじゃないか?」(確かに20人というのはすごい。その割合で大勢の韓国人に日本在住の親族がいるとなると、かなりの関係の濃さになる。大体、日本にいる在日の8、9割は南出身で、総連系も出身地ではなく当時の選択で国籍を北にした人達がほとんどだという)
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城東市場 |
ところで知人とは家に泊めていただいた以来のつきあいだが、知人いわく、今の日本の若い人で泊めたあとに手紙をくれる人はほとんどいない、だから逆にお礼の手紙をくれる人は”日本人的な人だと思っている”と言った。この場合の”日本人的”に、知人は良いイメージを、おそらく古き良き日本を見ているようだった。ちょうど私が1980年代の素朴な韓国を懐かしむように。
知人は「日本の経済状態悪いですね。世界2位でしょ、どうしましたか、おかしいですねえ」と言った。内心溜飲を下げているという感じよりも、心底「どうしてしまったのか」という感じだった。
私は日本が良くなったのは彼らと同じ世代の日本人の頑張りによるもので、でもその世代はそちらに頑張り過ぎて子育てに失敗した、子供の教育を人やシステムまかせにした、女の子はそれでも育つが男の子は父親が関わらないと駄目になる気がする、そのせいでエネルギーが落ちてきた、今元気なのは女だけ、と言うと、彼らは「韓国も女が強い。離婚が多いですよ。みんな10年くらいすると別れる」と言う。「韓国でも30代でも娘、というのが増えている。でもいろいろ男とくっついていいとこだけ食べて、娘じゃないよ、そういう悪い女が多い」「今はよくてもね、年取ると一人だよ、誰もいない、寂しいよ」「そういう女どうし集まって住む、というのも皆年寄りだから力ないよ」
ところで、このハラボジ(といっても皆若く見える)たちの何人かには愛人がいる。ウルサンにいる人、プサンにいる人、と町は違う。結構こういうことはあるようで、また街中の温泉マークのモーテルの多さ(もちろん、普通の旅館もあるのだが、連れ込み宿も多い)に、もともと韓国の文化にこういう面があったから、キーセン観光だのがさかんになったのではないかと感じた。これは日本のゲイシャやタイやフィリピンの売春観光も同様で、もともとそういうものが存在するところに外国人も入って行く。そこに経済較差が存在する場合に、NGOが問題にするような事態になってくる。
慶州にも外国人労働者は来ていた。ホテルのウェートレスもフィリピーナで、知人の話では5年ほど前にタイだのベトナムだのから大勢来たという。
全州の高速バスターミナルでは、小さい子供連れの韓国人男性とフィリピーナの夫婦を見かけた。
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慶州の古墳 |
ある老人の話
慶州で生まれ育ったが、一時期大邱に十年いた。子供達はソウルに二人、慶州に一人娘が嫁いでいる。第二次世界大戦、朝鮮戦争、大きい戦争はみんな見てきた。
終戦(解放)のときは13歳だったか。小学校を出るとき、校長先生が「航空学校に進みなさい」と言った。「そうして教育受けて、特攻隊に入りなさい。そういう教育を受けなさい」と。それを彼はどう思ったのだろうか。
彼はいきなり、「春が来た春が来た、どこに来た、山に来た里に来た、野にも来た」と歌った。こうして日本人と話して、日本にいるみたいね、とも言った。
「人間は生きていろいろあって死ぬ、死ねば一握りの土になりますよ」
慶州中央市場そばで雑穀を売っている店があった。黍と高黍、豆類は中国産と書いてある。粟とソバは慶州産とある。
このページは2002年春の韓国旅行に関するページです
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