ミャンマー旅行記(2000年)

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2月22日(火) 

バンコク

 8時40分にホテルを出て9時5分にはミンガラドン空港に到着。空港税は10ドル。

ビザの日付がなぜか2月21日までになっていてそのことを指摘されたが、別にお金等は要求せずただ書き換えてくれた。

  同行の人とミャンマーの印象について少し話すが、みな
「ビルマの人は大人しいね。日本人と比べても大人しい」
と言っていた。

 10時半、ヤンゴン離陸。

ドイツ人団体やビルマ華僑の団体(ロンジー姿でそろいの漢字の鞄を持っていた)で満席。隣のインド人はタイ入国に際して輸出入会社の住所を書いていた。

 11時半到着、12時過ぎに空港に出ると、アジア学院の日本人卒業生S氏が迎えに来てくれていた。

バンで彼がタイ人の奥さんと共同経営しているNGOに向かう。窓から見る景色は、きれいなビル、高速道路、新車、と日本と変わらなく見えた。

 1時半、経営している幼稚園の隣にある、地方の保母さんのための研修施設に宿泊させてもらう。奥さんお手製のタイ風そうめんで昼食。シュタイナー方式を採用しているので、アルコールランプのようなランプをともしている。

 3時、ユーコさんと近くのモノレール駅まで歩く。街には折からの選挙でポスターが溢れ返っていた(日本と似た感じだが、女性候補者が多い)。

モノレールは10バーツ、National Stadiumで下り、サイアムを見たり東急に入る。

外国ブランドも多くボディショップも入っていた。12年前のバンコク、サイアム周辺と大違いだ。

街の様子を見ながら、ホアラムポーン駅まで歩く(ユーコさんは暑さが苦手で大変そうだったが、結局つきあわせてしまったというか、つきあってくれた。ごめんね、ありがとう)。



町中にはATMが多く、ユーコさんはアメックスのATMで随時引き出していたし、カードを持たない私も東急となりの農民銀行で、銀行の営業時間以降も外為両替をやっていたので、便利だった。暑い国なのに、靴を履いた人が目につくのにも驚いた(それだけ身なりが”きちんと”してきている)。

ちょうど学生の下校時間で、高校生は髪型等日本の高校生と変わりなく、セブンイレブンにたまって買い食いしたりしている様子もまったく同じ、かなり色白の子も多い。表情や仕草などにも、いかにも親に大切に(甘やかされて)育った様子がありありと出ていた。

 かつて宿をとったホアラムポーン周辺の中華街も再開発が進み、どこがどこだかよくわからなくなっていた。 何となくがっかりしつつ、ケンタッキーで小休止。
(右写真は棺おけ屋)

 チャイナタウンめざして歩き、ワット・トライミットに入ろうとしたが5時までで入れず、近くの小さい地元ワットを見てからタクタクで宿まで戻る。車が多いので高架を飛ばすときは、車と接触したら、と少々怖かった。

 7時、近くのタイ料理屋で夕食。

S氏は典型的全共闘世代で、例の1980年代初めに始まったカンボジア難民救援以来タイにおり、今回のアジア学院の先生ともその頃からの知り合いで考え方もあい、親しいようだった。先生はその当時国連の救援活動でタイにいた。

S氏はアジア学院卒業後、バングラデシュに一年、某NGOから派遣されて行ったが、1年アジア学院にいた程度じゃまったく役に立たずぼーっとしていた、でもそれがいい糧になった、という。

アジア学院で学んだことは、あとから
「ああ、あれはこういうことだったのか」
とわかる面がある、と言い、先生も
「それを学んで帰るやつと、誤解して帰るやつとがいる」
と笑っていた。その後タイへ来て某NGOを離れ、タイ人と結婚して財団を設立、もともと専門であり興味もあった障害児教育、シュタイナー教育を行うべく、保育園を始めた。

さらに奥さんの実家の土地を借りて農業も始めており、日本の有機農業青年らとともに運営しておもに養鶏を行っている。
「夢はこうしていつかはだんだん叶うもんだな」
と言っていた。

タイでは外国人でも財団をわりと設立しやすい、休眠状態のものも多くその利用がどうこう、と話していた。

タイで活動している日本のNGOについては、いくつか名をあげポリシーがない、場当たりだ、と批判していた。

また、若者に経験を積ませると海外に送り込んで十年以上になる、でも育っていないでしょ、XXさんやOOさんぐらいで、特に難民救援型は好きでない、難民は何もできない人たちだから助ける、と結局見下している、立場が対等でない、それに気づかずにあれこれ言うおこがましさが好きになれない、と言っていた。

先生は、難民は生き残った人たちだから逞しい、学ぶべき点が沢山ある、東北タイの農村については娘の身売り等で家にテレビがある等の批判があるが、フィリピンやタイの農村が大変なのは、消費社会がすぐそこまで押し寄せてきており、目の前の物があってコマーシャルもどんどん流れる、その中で貧しい、そこが大変なんだ、ミャンマーやインド、バングラデシュは物理的に目の前に物がない、だから誘発されない、と語っていた。

S氏は芸術家よりは職人になりたい、芸術家は自分の名前を残し知ってもらうために活動するが、職人は違う、名前にこだわらずに仕事をするから、と言っていた。

 私もかつてNGOに勤めていたことがあり、知っている名前が会話に次々と出てきて、妙に懐かしかった。

バンコクのモノレール

 2月23日(水)

 6時半にチェックイン、空港で朝食。

機内はほぼ満席、8時40分に離陸、日本時間4時に成田到着。



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Last updated:07/02/03 .  First uploaded:01/12/03 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.