3.1.アラハバード農業大学(現サムヒギンボトム農工科学大学)エクステンション
アラハバード駅構内には、おしゃれなデリがある。ボストンバッグをひきずったインド人家族も食べているので、入ってみた。
先に支払い、レシートを渡して受け取るシステムで、日本のファストフード店のような今風制服姿の若者たちが働いている。ミニターリーとラッシーを頼んだが、店内は冷房もきき、おいしかった(そういえばシッキムではまったく冷房は必要なかった)。
駅の外に出ると、「アラハバード・アグリカルチャー・インスティチュート?」とリキシャやタクシー、オートリキシャが寄ってくる。タクシー200Rs、オート70Rs、リキシャ50Rs、どれにする?と言う。
学校のスタッフから聞いた相場も大体そんなものだったので、ふっかける人はいない。通常は40Rsくらいだけど荷物にもよるし、絶対50Rsでないとだめ、と曲げない人もいる、とのこと。結局40Rsのリキシャにしたが、大変そうだったので50Rs払った。
この駅で降りる日本人はたいてい、”アラハバード・アグリカルチャー・インスティチュート”に行く人なので、リキシャもそう声をかけてくる。
シッキムも普段は乞食を見かけなかったが(ガントクのゴンパにいたアーリア系の乞食のみ)、アラハバードでも見かけなかった。地方の街は大体、こういう感じなのかもしれない。
アラハバード農業大学(現サムヒギンボトム農工科学大学)継続教育学部(以下エクステンション)は、40年前、元アジア学院教師だった牧野一穂先生が宣教師としてインドに来て、アラハバード大学構内にエクステンションの形で作った、農村リーダーを養成するための学校で、正規の大学教育履修コースとは異なる。
学生は7月から4月15日までの約1年間ここで勉強し、教育システムは、ほぼ栃木にあるアジア学院と同じだが、学年末に1週間試験があるので、行った時はちょうどみな図書館などで勉強している最中だった。
女性は家庭の事情で長期に家をあけることが難しいため、農村女性のための3週間の短期研修コースも、年に何回か開いている。以前訪問した人は、短期研修の農村女性らがいると、彼女らはパワフルだし、賑やかだよ、と言っていた。
牧野先生の奥さんがここにいた数年前までは、近所の働く子供たちのための夜学もやっていた(牧野夫妻はヒンディー語がぺらぺら)。現在、奥さんはデリーでストリートチルドレンのための施設を作ろうと奔走している。
エクステンション校は、アラハバード農業大学構内の奥、大学女子寮の斜め向かいにある。二つの棟の片方はスタッフオフィスと教室と住居、もう片方は男子寮と集会所、図書室、食堂になっている。女子学生は、向かいの大学女子寮に入っている。
現在牧野先生は引退し、やはりアジア学院の元教師、後任の三浦先生の手助けをしている。
会計など事務を担当する若い日本人スタッフが一人と、学生生活の面倒を見るスタッフとしてオーストラリア人夫婦が在住し、JAICAF(国際農林業協力・交流協会)から食品加工の担当で短期に来ている女性もいた。農場や農村を回るスタッフはすべてインド人。
このあたりは3月あたりから徐々に暑くなりはじめ、4月から暑季、6月が一番暑く40何度にもなる一方、1月2月は1度になることもある。6月は暑すぎるので、職員も含め学校は休みになる。
若い日本人スタッフに構内を案内してもらう。アジア学院は海外に出られる、ちょっといい人が来ているが、ここはさらに草の根だ、と彼女。
デリーの日本企業の奥さんたちのボランティアグループが、ときどき有機野菜を買いに来るそうで、古い校舎の一部に、パイロットファームで作った有機野菜販売コーナーを作る計画があるという。
アラハバード大学(現サムヒギンボトム農工科学大学)はインドで5番目に古い農業大学で、創立者は欧米からの宣教師。古い学校のため、卒業生に政府役人になった人も多く、それでインドでも結構有名だという。
昨年インドの大学格付け機関による格付け監査があり、あちこち看板だのを整備していたそうだ。今の学長が急に学生を増やし始め、寮が追いつかない状態、またあちこちに新しい建物を建てて学部を作っている。
畑は、農大の畑も含めかなり広い。途中、土手の上を走る高速道路が横切るが、その向こうにも畑が広がっている。
この時期は麦が植わっていた。ただ、スタッフの話では、大学の学生はあまり農場に出ているのを見たことがない、世話係のスタッフがほとんどの作業をこなしているとのこと。
エクステンションコースの畑は大学の農場の一画にあり、新校長が日本から持ってきた白菜だの、トマト、玉ねぎ、カリフラワー、芽キャベツ、牛蒡、ホウレンソウなどが植えられている。
白菜やホウレンソウなど、寒くなくてもできるのかと思うが、白菜なんかはよくできたそうだ。
養鶏もやっており、地元種とブロイラーをかけあわせた種類で、ブロイラーのように特殊な配合飼料をあまり必要としないため安上がりだが、成長するのに3ヶ月かかる。うさぎもいるが、皆あまり食べないので、どんどん増えている。
個々の学生用の区画もあり、エクステンションの学生は結構熱心に実習に出ている。ただ、乾季も終わり暑季に入る今がちょうどいろいろなものの収穫時で、この後いったん畑は休みになる。
大学のデイリーへ行ってみる。学生らはかなりの人が携帯を持っており、ここ数年で急速に普及したという。スタッフが来たときは、まだ大きな重そうな機種だったのが、小型が出て一気に広まった、日本人より頻繁に見ている人もいる、メールは英語がほとんどだが、ヒンディーのも見た、文字数多いので打つのが大変そう、という。
デイリーには大学の牧場で絞った牛乳や、アイスクリーム、ヨーグルトなどを売っており、学生も大勢来ていた。暑いので、牛乳がおいしい。暑さと乾燥で水分がどんどんうばわれるので、水分は十分補給してください、と言われた。
ところで、大きい蜂に似た虫に刺された。透き通ったようなレモン色の虫で、オーストラリア人の奥さんが、これはwaspで(ススメバチ、でも日本のスズメバチに比べると小型で、色も毒々しくない。あまり痛みもなく、虻かな、と思ったくらい)、とても危険だ、と塗り薬を貸してくれた。彼女の息子さんがこれに刺され、私の腕の刺されたあとにできたのと同じ紅いリングが体中に出て、6週間病院でスキンケアを受け、ステロイドも使った、日本にwaspはいるか?何かアレルギーはないか?と心配してくれた。
翌日も気にかけてくれ、腫れていないから大丈夫だろう、でも keep watch、何かあったらインドにいる間に見てもらったほうがいい、インドの虫だから必ずインドで見てもらうように、と言っていた。(その後多少痒かったが、何もなかった)
夕食のとき、先生方やスタッフの人たちから、いろいろ話しを聞かせてもらう。
牧野先生は、奥さんともども大のインド好きで、奥さんはインドに行かれるから自分と結婚したんだ、と言う。高校の頃から憧れていた、戦後象を送ってくれたでしょ、あれ以来だ、と言っていた。
現在の校長先生は学校の運営以外に、以前から手がけてきたシムラやミゾラムのプロジェクトも続けており、非常に忙しい。ミゾラムには現地女性と結婚した日本人がおり、その人のNGOを仲介にしているとの話だった。
先生はベンガルで3年間活動していたことがあるため、ベンガリは得意だが、ヒンディーはできなかった。それで若いスタッフの子と一緒に、ムスリーで数ヶ月ヒンディー語の特訓を受けた。スタッフの子は今はかなり流暢で、研修生とも自由に会話をしている。
また、アジア学院のときの同期で、現在大分の立命館アジア太平洋大学の職員になっている人がいるのだが、彼が学長と一緒に、アラハバード農大に3回ほど学生のリクルートに来たそうだ。インド人は優秀で、政府の奨学金がもらえるという。
あるインド駐在日本企業に勤めるインド人は、マイクロソフトに月百万で引き抜くと言われ、やめられたくなかった日本人は二百万払うことにした、という話に、それはインド人特有の賃上げじゃないの、と喧々諤々。
またコルカタは州政府が共産党政権で、三菱が撤退するときは組合が強いから5年分の給料を払うことになった、それでも撤退したほうがいいと判断したから三菱は撤退した、との話。ガントクからペリンへのジープで一緒になったベンガル一家の「Mitsubishi is a nice company」は意味はそれか?と内心思う。
「東京三菱も撤退したでしょ」「東京銀行と三菱とではポリシーが違う」「全部そこへゆくのか」とまた喧々諤々。
シッキムはネパール人やベンガル人が入り込んできて、選挙で王制なんていらないや、ということになった。前王妃には息子がいたが亡くなり、後妻がアメリカ人、弟がいたが政争がいやでお坊さんになってしまい、いずれにせよ断絶した。
ブータンにもネパール人が大量に入り込み、強制的に追い出した(この問題は、かつて週刊だった頃のFar Eastern Economic Review誌でも特集していたことがある。国連では、ブータンのやり方はネパール人の人権を無視していると問題になっている、とのことだった)。そして国の服としてブータンの衣装を着るよう強制して、外国人が入り込みにくいようにしている。ネパール人は人口が増え、それで入り込むのだという。ネパールでもマオイストが騒いで王制が揺らいでいる。
ムスリーのそばにはウッドストックというところがあり、そこにインターナショナルスクールがある。牧野先生の子供たちもここを出て国連職員になったりしているが、ブータンの王族も来ている。いつもは髪を染めたりちりちりパーマなのが、帰国するときには髪を剃って民族服を着てきちっとする。
王女の一人が近くの店で勝手に物をとって問題になった、あれは御付きが悪い、彼女はずっとそうしてきたので買うということを知らない、学校へ出すならちゃんと社会性をつけてあげないと、と言っていた。
インドの有機野菜の話になり、農村では今でも有機栽培だと言えるが、都市に輸出される野菜は、かつての日本と同じで、大量に農薬を使っている段階だという。
消費者も知識がなくてよくないのだが、カリフラワーをパラチオンに浸すと漂白されて真っ白になる、また硫酸何とか(失念)に浸すと青くなるのもあり、それをきれいで良いと思って買っている、それで農家も使う。
インドでも都市の子供にはアトピーが出ているという。農村ではアトピーは見かけない。そういうこともあり、デリーの日本人たちも、わざわざ買いにくるらしい。
朝食やお昼は、研修生と一緒に学生食堂で食べた。炒めご飯や、スージー(麦の粉を甘く油炒めしたようなもの)で、研修生は両方を混ぜて食べている。
エクステンションの研修生は今年は11人で、ダージリンから2名、グジャラートから3名、オリッサから2名など。グジャラート州はもともとビハール州の一部だったが、仲が悪く独立州となった。
東北インドからの学生がいるときは、彼らはヒンディー語ができないため、英語で授業をする。今年はいないので、ヒンディー語で授業をしている。東北インドの学生も、ヒンディー語をまったく学んでいないわけではないのだが、日本人英語と同じ、普段使っていないから使えないとのこと。
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