1.5.西シッキム:ペリン
ペリンなど西シッキム方面行きの乗り合いジープスタンドは、鹿公園そばの高台、ナムロンにある。周辺はホテルの建設ラッシュで、ベンガル人観光客が大勢歩いていた。
前日にペリンまでの予約乗車券を買い、当日朝、指定された6時45分に行くと、大勢客が来ており、ジープを割り振られる。ベンガル人一家7人(子供一人は膝の上)、地元の女性、ブチェア族の男と子供が相客になった。
席決めのとき、ベンガル人一家がワアワア騒ぎ、ブチェアおやじは私を見て "Bengalis are terrible" と言って笑った。チベット人か、と聞かれ、日本人はシッキミーズと一緒だ、隣の地元の女性と同じに見える、シッキム、ジャパン、same と調子がいい。
やっと席が決まって出発。ブチェアおやじは車が発車すると何やらごにょごにょお経を唱えた。
ベンガル人は夫婦と幼児一人、妹夫婦、幼い妹とかなり年配に見える姉の一族。中心夫婦の男性が財布を握り、家長になっている感じだ。
彼はかつてコルカタで三菱で働いていた、という。今はガバメント・オフィス勤めだが、三菱はいい会社だ、日本人は仕事が好きでgoshipがない、と言っていた(後にアラハバード在住のインド事情に詳しいNGOスタッフから、この三菱関連の話として、5年分の給料を払って撤退した話を聞いた)。
ちょうど期末試験も終わったので家族旅行に来たそうで、これまでも、ウッタルプラデシュのマナリ、シムラなどあちこちを家族で旅行している。
彼らはかなり色が白く、若い学生の妹は日本人と同じくらいの白さで、年配の姉が彼女と私の肌を比べ、same color と言った。姉は高齢独身に見え、ハイカーストではないかと感じた。
奥さんが携帯を持っていて、ときどきどこかにかけていた。
ジープの中で英語を解するのは、ベンガル家長とブチェアおやじと私の3人、そして一家の中学生くらいの息子もまあわかる感じだった。話の内容は家長がベンガリに訳して家族に伝える。私を除く他の人たちの会話にはヒンディーを使っている、と言っていた。でもドライバーと子供はわかっていない感じだった。地元女性とブチェアおやじとドライバーは地元の言葉を使っていた。
シッキムだけで11の国語がある、全インドでは so many、日本はいくつあるかと聞くので、一つだ、でもアイヌ語がある、日本語化をすすめほとんど話せなくなったと言うと、ブチェアおやじが「それはいいことだ」と言う。でもアイデンティティーを壊すことになるので、復活の動きもあると言うと、なんか微妙になったのでこの話題はやめに。
ブチェアおやじはよくしゃべる男で、私がペリンで見たいゴンパの名前をあげると、あれこれベンガル一家に解説し始める。ラバングラの先に来ると、あそこに見えるのがタシディン・ゴンパ(ここは英語)、そしてヒンディーでどうこうとまた説明する。ベンガル一家はアチャ、アチャと聞いている。
ベンガル人たちがベンガリで何かワアワア言うと、ブチェアおやじが英語で bengali は何とか language だと言った。何とかが聞き取れず、年配のお姉さんが聞き返し、何かまた微妙な感じに。
しばらくしておやじは彼らのベンガリの単語をまねし、これはどういう意味か、と英語で聞いた。そして I want to study Bengali と言った。
ベンガル人たちは、そういえば今日はホーリーだと言い出し(3/25)、26日では?と聞くと、ベンガリ少年が、今日だ、今日の2時にスタートする、コルカタは今頃大騒ぎだろうなあ、等々言う。
道はガントクからシンタムへ下る。シンタムから南シッキム郡に入り、川を越えラバングラまで登り道。
ラバングラがほぼ頂上で、景色のよいところとして有名な村でもあり、休憩どころになっていた。近くの店でベンガル一家はチャイを飲んだり一休み。ブチェアおやじに、五色の旗について聞くと、彼は「Lung-dar」だと言った。108のgyadar(ギャダル)prayが書かれているとのこと(旗は、聞く人によって呼び名が違う)。
ラバングラから山の中腹をしばらく行った後(ここから見える山並みの頂上にタシディン・ゴンパが見える)、また下り、Rangit 川の橋を渡るとレッグシップ。
ここから西シッキム郡に入り、警察のチェックポイントがあるが、許可証を見せる必要はない。通常の許可証では、西シッキムはペマヤンツェとその周辺まで入れる。
南シッキムや西シッキムの棚田には、これまでに見かけた麦やトウモロコシ以外に、カリフラワーが植わっていることが多く、遠目にも青々としていた。
途中、道端の出店でおやじと地元女性がカリフラワーを大量に買い込んだ。
このガントク−ペリン線も、かなり土砂崩れしていた。雨季もここを往復するのか聞くと、毎日一往復だ、そうひどい道じゃない、と言う。でも落石して、車がよけて通る箇所もあったのだが・・・。
ラバングラから見た対岸に、かなりひどい土砂崩れ箇所があり、ひどいな、おそらく下の家屋も残っている以外はすべて流されたのではないか、でもあそこは通らないだろう、と思っていると、結局回り回ってそこも通った。
レッグシップからは登りになり、ゲイジンを通り、さらに登ってペリンに11時半到着(ペリンは標高約2000m)。
ベンガル一家はホテル・スノウビューに予約をとっているという。ベンガル人は雪が好きだ、とブチェアおやじ、一家は yes、yesと笑っていた。
ペマヤンツエ・ゴンパ
まずはロンプラによればシッキムで最も重要な寺、というペマヤンツエ・ゴンパをめざす。歩いて行ける、というので、リュックをしょって歩く。結局ペリンはすべてバックパック姿で歩き、なんだか四国を遍路歩きしているのと同じ気分だ。
来た道を戻る感じで歩いてゆくと、ゴンパのような建物が見えたのでわき道から登るとホテルで、ゴンパはその先だった。
ペマヤンツエ・ゴンパは1705年建立(ロンプラ旧版による。2005年版には建立年は載っておらず、シッキムインフォでは17世紀に建てられたとなっている)のニンマ派の寺で、シッキムで最も古い寺の一つ。ここは拝観料5Rsを払うと、鍵をあけて中を見せてくれる。
チベット系の参拝客が多く来ており、彼らは大きなマニ車をぬかづいてから回したり、外から拝んでおり、お金を払って中に入ることはしない。
1階のよく見る大広間と祭壇を見て出ると、上に上がった?上も見られるよ、とお坊さんに言われて登る。
二階の半分は位の高いお坊さんの部屋、もう半分は書庫。
三階には、中央にパドマサンババ(グル・リンポチェ)の天上宮殿という七層の山の形をした、木彫のオブジェがあり、仏陀や菩薩などの細かい装飾で覆われている。周囲の壁には歓喜仏などチベット密教絵画が描かれ、かなり異様な雰囲気だった。
なんかすごいところへ来た感じで、あまり気持ちよくないので(自分の知る仏教文化とは明らかに異なるし)、そそくさ戻る。下にいるお坊さんたちの話では、三階は何とかparadiseを表わしているそうだが、仏教の知識がないので、聞いてもよくわからない。
ラブデンツェ
シッキムの二番目の首都だったラブデンツェへ向かうおうと、下の車道に出ると、ゴンパで一緒になった女の子二人から、記念に一緒に写真を撮らないかと頼まれた。そこで写真を撮りつつ話す。
一人は中国人や日本人の色白の人くらい色の白い完全なモンゴロイドで、もう一人は非常に美人の、これまた完全なアーリアン。二人は友だちだと言うので、どうやって知り合ったのか聞くと、二人ともムンバイの学校に通っているという。
モンゴロイドはシッキムの人で名はピング、グジャラート出身の友人ソニアにシッキムを案内しているところだ、との話。今晩はペリンに宿をとっているとのこと。
別れ際、あなたに会えてよかった、という挨拶をしてくれたので、こちらこそ、と答える。この挨拶はなかなか使えると思った。
ラブデンツェへの道は、さらにゲイジン方向へ下る。結構歩くので、結局ゲイジンまであと6キロの地点まで戻ることになる。やっと門があり、そこから池のほとりを回って、林の中の石畳の道をゆく。
ここもかなり距離があり(シッキムインフォサイトによれば、門から宮殿跡まで2キロ)、あちこちに「Fatigue? あと何メートル」、「Do not get tired、あと何メートル」と書かれた看板が立つ。
ベンガル人家族や地元系だか学生旅行だかのカップルがぷらぷら歩いているので、寂しい感じはない(ただしホーリーと学期末休みの旅行シーズンと重なったため、人が多かったのかもしれない)。
また、暑季になると、かなり暑そうな道でもある(林とはいえ、後半は潅木で日当たりが良い)。
やがて木々の間からラブデンツェが姿を現した。トゥムロンのような完全に朽ち果て、藪と化した廃墟を予想していたので、またピングも ruin だけど nice place だという言い方をしていたので、まあそんな程度かな、と思っていたが、思いのほか大きく要塞のようでみごたえがある。
ラブデンツェは17世紀後半にシッキムの第二代国王が建設した二番目の首都で、18世紀後半にネパール人の侵入を避けるため、トゥムロンに遷都した(シッキムインフォの西シッキムページには、1814年に遷都との記述)。
赤レンガ造りでかなり頑丈なお城、現在復旧工事を進め整備しており、入り口を工事したりおばさんたちが草花を植えたりしていた。
要塞の先は断崖絶壁で谷へ向かって落ち込む。丘の上に立つ廃墟はなかなか凄みのある光景だ。
若者グループがギターをつま弾いていたり、ベンガル人家族連れ、モンゴル系のカップルなど、みな三々五々楽しんでいる。
建築物の下には休憩所兼みやげ物店を整備中、すでにオープンしており、ベンガル人観光客がいた。
サンガ・チェリン
ペリンのゼロポイントから、ホテル街へ下らず、ガントクからの道をまっすぐ進んだ小山の上に、やはりシッキムで最も古い寺の一つ、サンガ・チェリンがある。ここへ至る道がすごかった。
途中までは車も通れる道でらくらく歩けたが、その先が、おそらくかつては徒歩の登山道だったのを、車が通れる道に工事中で、急斜面の瓦礫の中を行くことに。
道路の先端は段差が激しく、そこから人が上へ移動するのは無理で、脇から工事の人達の歩く道が、草木のない滑りやすいむき出しの斜面についていた。
作業員も歩いているので、登り降りできないわけではないのだが、かなりの急斜面と大荷物のため、バランスを崩し下までまっさかさまになっては、と荷物は置いてゆくことにした。
一瞬、荷物を置いても大丈夫かな、と思うが、斜面のあちこちにしゃがんで、石を砕いたりトントンやっている人も大勢おり(インド本土だったら逆に危なそうだが)、勘でここは置いても大丈夫な気がした(まあ、いざなくなっても最低限の旅行はできるよう、貴重品とコンタクト、眼鏡だけショルダーに入れた)。
崩れやすい土砂の斜面は、最初はこわかったが、斜度そのものは日本の急な山道と変わらない。老婆に見える作業員も、水を持った少女も、この急な斜面を歩いている。
道路工事区間が終わると、杉林で、日本の山の中のようだ。車の通れる道で、逆から車が入れるのか、先ほどの箇所はもともと車道が土砂崩れでもしたのか?
杉林から一登りした頂上が、サンガチェリン。
サンガチェリンはペマヤンツェと同じ Lhatsun Chenpo によって1697年に建てられたニンマ派の古刹(シッキムインフォによる。ロンプラではダブディ・ゴンパについてシッキムで二番目に古い寺、ということになっているため、1701年以降に建立、ということになる)。
道が酷かったから無人かとも思ったが、ちょうど読経の最中だった。トレッキング姿の白人男性も2人いる。
できれば今日中にタシディンまで行きたかったので、すばやく参拝をすませて来た道を戻る。例の工事現場を、滑らないよう気をつけつつ下りる。荷物も無事、そのまま置かれていた。
サリー姿の初老のベンガル人女性が二人、登ってくるのに会うが、私が荷物を置いたあたりであきらめ、引き返していった。下には、元から登るつもりのないらしい、一族の老若男女が、引き返すようすを笑って見ながら、待っている。
街中へ戻る途中、今度は修行僧めいたいでたちの、日に焼け、ごま塩頭で白い三角髭を垂らした白人男性がゴンパをめざして歩くのに会う。彼は葉を背負った地元男性に会釈したが、老人は警戒した固い表情のままだった。
ゼロポイントに戻り、ユクサム、タシディン行きのジープについて尋ねると、今日はもうない、明朝になるという。
ゲイジン行きのジープを待つ先客がいたので、少しでも距離を稼いでおこうと、ゲイジンに出ることにする。ゲイジンは西シッキムの郡庁で宿も多い。ジープはすぐに来た。
ゼロポイント付近でもジープの窓からも、顔やシャツをピンクや緑に染めた男を見かける。そうか、今日はホーリー、ゲイジンでも頭からシャツにかけてピンクに染まった人や、顔を真っ黒にした人が歩いている。
ホーリー
ホーリーはヒンドゥー教の最も激しいお祭りで、一般にこの期間、外国人が旅行で移動するのは危険だと言われる。2005年は3月25日夜からスタートし、28日までとのことだったが、都市のほうが激しく田舎はさほどでもない(時期は月の満ち欠けで決まるため、年によって異なる)。
訪問予定のアラハバードのNGOの人も、いちおう事務所は25日から3日間休みにするが、アラハバードでは26日までだと言っていた。ただ、ホーリーではカーストも関係ない無礼講になるため、麻薬や酒などで興奮した人々が、動くものに水、色の粉、時には石なども投げつけることもあるので、27日までは動かないほうがよい、と忠告された。
インド旅行の掲示板などでも、この時期はコルカタやデリーを避け、田舎へ引っ込む、という話を見かける。特にベナレスはとても危険で、外国人には毒の入った色水をかけたり、傷害事件になることもあるという。
ロンリープラネットでも、近年ラジャスターンで問題が報告されているので、女性はこの時期一人で外に出ないほうがよい、とある。
ペリンから一緒にジープに乗ったアーリア系の男性は、途中で降りるとき、細かい持ち合わせがなかった。運転手も細かいお釣がない。
こういうことは今までもたまにあり、車内の誰かが崩していたが、このときは誰も崩せなかった。するとアーリアンは50Rsでいい、仕方ない、と渡して降りていった。
お釣がないトラブルは以前からあるが、わざとではない場合も多いようで、地元民もこうした場合は釣銭なしで支払っている様子だった(公共施設でお釣がない、というのは、明らかに職員の怠慢か小型詐欺だと思うが)。
運転手は私がタシディンかユクサムまで行きたいと聞き、ゲイジンに着くと、ジープスタンドであちこちのジープに聞いてみてくれた。
しかし、シリグリやガントク行きは沢山あるがユクサム方面は見つからない。
ここよりもレッグシップのほうが、ガントクからユクサムへゆくジープも通るから、見つかる可能性が高いという。このジープはガントクへ戻るところなので、そこまで乗せてもらうことにする。
レッグシップまでは他に乗客がなく、運転手が "Do you know Lepcha?" と話しかけてきた。彼はレプチャ族、レプチャは中国人や日本人と一緒だ、と言う(根拠は不明、チベット人とは違う、と言いたい感じだった)。
ブチェア族はチベットから来た primitive な人々だ、他に最近になってネパール系、タモン、スパが入ってきた。一番人口が多いのはスパ、次がたぶんブチェアで、レプチャは三番目。タモンは元々ダージリンにいた人々だそうだ。
それぞれの部族が村単位で別々に住んでいるのか混住しているのか聞くと、色々混住している、一つの村に誰かしら何々族を見つけられる、でもレプチャはジャングルには住まない、街中に住んでいる、という。
王家は何族なのか尋ねると、ブチェア、ならば、ほかの民族はインドに併合されて良かったと思っているのかと聞くと、一呼吸おいて、そうとも言えない、と言った。
シッキムの旗と聞いた例の傘マークの三色旗は、今のシッキムの与党の旗だよ、シッキムそのものの旗ではない、という。
レッグシップに到着。固定客がいるようで、やあやあ、という感じで警察官が乗ってきた。ジープで週末にガントクへ戻るという。運転手はレッグシップのジープスタンドにいる運転手らに聞いてくれ、ここよりもうちょっと先のほうが見つかると思う、とユクサム-ペリン線とペリン-ガントク線の分岐点になるY字路まで行った。
ここでも、顔なじみらしい乗客がばらばらと乗った。こちらは下車する。
時間はすでに4時半。斜面上の家では女の子が水を入れた鍋を運んでいた。そろそろ夕食の支度らしい。45分頃、鍬をかついだ一団が降りてくる。完全に帰宅ムードだ。
ジープは上りも下りも一向に来ないし、6時過ぎまで明るいとはいえ、だんだん心細くなってくる。
タシディンまでは12キロ、3時間で歩けないことはないが、言葉のわからない外国で、いくらシッキムでインド他地域よりは治安がよさげとはいえ、暗くなってから1時間半歩くような事は避けたい。
5時まで待ってこなければレッグシップに戻り(レッグシップまでは2キロほど)泊まろう、小さい町だったから宿が見つからない場合はゲイジンへ行こう、レッグシップからならゲイジンへのジープやタクシーもなんとかなるはず、と決める。
5時になったので、レッグシップ方向へ歩き始めた。するとちょうどそこへ、ジープのフロンドガラス下にユクサム・タシディンと書かれたボードを掲げたジープが来た。
乗っているのはオールモンゴル系。ドライバーも隣の子もまだ十代の少年の感じで、ヒンディー系ポップスをガンガンかけている。ただし、乗客には年配者もいる。
今日中、暗くならないうちにユクサムまで着かなきゃ、といった感じで、とにかく猛スピードで飛ばす飛ばす。少年はハンドルにしがみついて運転しており、カミカゼ運転だ。途中折れた竹が道を塞いでいる箇所があったが、急ハンドルで端を通り抜け、皆右へ左へと大きく揺れる。
タシディンに到着すると、とにかく先を急ぐようでチャッチャと対応しサーっと行ってしまった。事故らなかっただけでもラッキーかも。
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