シッキム旅行記(2005年)
 

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 1.6.西シッキム:タシディン、ユクサム

 タシディンは Rangit 川と Ratong 川 (Rangeet と Rathong と表記されることもある) にはさまれた尾根沿いの小さな村で、道の両側は大きく谷へ向かって落ち込んでいる。
 ブチェア族の家族経営のところに宿をとり、客はほかにいなかった。週末に実家に戻ってきた、という11歳の女の子が英語を話せた。
 彼女はシッキムで二番目によい私立の学校に通っている、という。月曜の朝学校へ行き、寮で生活し、金曜の夕方に実家に戻る生活。4人兄弟で上の子は近くの公立に行っているというから、彼女は頭がよいのだろう。一家の自慢の子供のようだった。

 ブチェア族の言葉は、相槌が dui dui と聞こえるなど、ときどき中国語のように聞こえることがある。それで中国語がわかるのかと思い中国語を使うと、きょとんとする。
 ただ、私立の学生の少女は中国語を少し知っている、近所に中国人がおり(シッキムの人が”中国人”と言うとき、中国から来たチベット人を指す場合もある)少し教わったと言っていた。

 一家はユクサム行きのジープは午前中はない、午後2時か3 時頃来る、それより遅い時間も普通は来ない、という。できれば明日ユクサムを見て、ダージリンあたりに泊まり、あさって午前中にはニュージャルパイグリ駅に着いて切符を買いたいが、無理か。
 ただ、今日も、ルムテクからの帰りも、通常の時間帯とは異なるはぐれジープがいたので(ルムテクでは乗り合いタクシー)、ひょっとして明日もいるかもしれない。
 また、ユクサムまでは20キロ弱なので、午前中に歩き出せば歩けない距離でもない。ただ帰りのジープがなく、ユクサム泊まりになる可能性もある。せっかくなので、シッキム最初の首都だったというユクサムを見ておきたく、いざとなったら列車は二等でもいいか、と腹を決める。

 夜は、部屋の窓から対岸に迫る山中に、村の灯りが点々と見え、なかなか幻想的。
 それが11時になると一斉にパッとあかりが消えた。まるでバン、とヒューズが飛んだようだった。こちらの部屋の灯りは点く。タシディンは関係ないのか、自家発電かわからないが、対岸は計画停電のようだった。
 翌朝5時半ころ起きると、対岸の村の灯りは点いていた。

タシディン・ゴンパ
 6時半、タシディン・ゴンパへの道を登る。ゴンパは、タシディン村を貫通する尾根の、西の端の小山の上にある。その先は谷へ落ち込み、タシディン全体が岬の突端のような地形になっている。

 村人の朝は早く、外に出ると人々が既に仕事を始めてた。
 途中までは村の家の間を通るのどかな道だが、その後急な上りになり、距離もある。
 途中、寺へ上る老人と一緒になった。ゴンパ周辺はブチェア族の村で、対岸の山の中腹にはレプチャ族がいるという。タシディンはブチェアの村かと聞くと、いや、いろいろいる、と言っていた。彼もユクサム行きは2時から4時までに通る、それ以外は来ない、と言っていた。

 タシディン・ゴンパはペマヤンツェに次いで重要なニンマ派のゴンパとのことで、1716年頃建てられた。地元の人が、三々五々、お参りに来ている。
 お寺の裏に回ると、蝋燭をともすお堂があり、先の老人が、数人の若い僧侶とともに灯りをともして回っているところだった。

 その先には、一目見ただけですべての罪を洗い流すほど神聖だという Thongwa チョルテン(および、おそらく高僧のお墓)の並ぶ一帯があり、そのまわりは五色のルンカ・ロープで張り巡らされていた。
 その様子がなんだか陰陽師の”結界”を思わせる。

 老人が奥を一周できるというので、回ってみる。裏のほうにも、ルンカやダルチョで”結界”の張られている区域があちこちにあり、ゴンパの先の畑の隅にも、赤のダルチョだけが立ち並ぶ一画があった。なんとなく、”結界”の中に足を踏み入れるのは躊躇される雰囲気だ。


tashi-4.jpg

 朝食後、途中でジープが来たら乗ることにして、ユクサムへ向かう幹線道を歩き出す。メインの道は一本なので、迷うことはない。
 ちなみにタシディンはトレッキングでも人気があり、欧米系の人が歩きによく来るところでもある。

 タシディン村を貫通する尾根の東は、さらに高い山脈に続いている。そのふもとあたりに、アリーア系インド人の集落があり、大人も子供も、みなホーリーで赤や黒に染まっていた。
 その後は右手に山を背負い、左手に谷の道をゆく。谷へ落ち込む途中にわずかな畑と農家が点在する。車はほとんど通らない。西シッキムでも軍用車両は見かけなかった。

 だいぶ上ったとき、車の音がした。下のほうを見ると、ジープが停まり、人が乗り降りしている。また動き出したのが見え、これは乗り合いジープだな、としばらく待つ。果たしてユクサム行きのジープだった。

 村々でしょっちゅう乗り降りがあり、乗らずに話すだけの村人もいて、帰りに何時頃通過するか時間を聞いているようだった。

 途中、白人女性トレッカーが二人、ユクサムからタシディンへ向けて歩いて降りてくるのに出会う。二人とホーリーにあったらしく、頭からTシャツにかけ、一人は真っ黒、もう一人はピンクに染まり、黒くされたほうは半泣きだった。
 シッキムでも外国人にかけることがあるのか、しかもガントク、ペリンに比べたらここは田舎なのに、と驚く。
 一方、こちらも今朝、ヒンドゥー教徒の村をうろつき回り、たしかに色水の水鉄砲をかかえた子供がちょろちょろしていたが、かけられなかった。モンゴル系なので地元民と思われたのだろうか(地元民にかけると、あとあと問題ありそうではある)。


 ユクサムに12時頃到着。ユクサムは、土地の狭い尾根町タイプと異なり、山の中腹に開けた台地の上にある村。高いビルは見当たらず、のどかな田舎だ。
 ジープスタンドの手前にホテルが数件並び、欧米人がテラスで本を読んでいる。ベンガル人観光客はさほど多くない。

 ユクサムはシッキム王国発祥の地で、3人のチベット人高僧から初代国王が推戴されたという、ノルブガンがある。

シッキムの歴史
 シッキムの歴史は、まず13世紀にレプチャ族がアッサムやミャンマーから移住してきたことに始まる。彼らは精霊信仰の民だった。
 15世紀になると、チベット人(ブチェア族)が移住してきた。チベットではダライ・ラマを頂点とするゲルグ派が力を握りつつあり、他の宗派が宗教間抗争を避け、移住を開始したのだ。
 1642年、ニンマ派の3人のチベット人高僧が、Phuntsog Namgyal をユクサムでシッキム国王に推戴する。チベット人の移住が進むにつれ、レプチャ族は奥地に移動することになる。

 当初のシッキム王国は、東ネパール、北はチベットの Chumbi バレー、西はブータンの Ha バレー、南はダージリン、カリンポンを含むインド平原とテライ丘陵の交わるところまでだった。
 17世紀前半、ブータンとの連戦でチベットとインドを結ぶ重要な交易地点だったカリンポンなどを失う。さらに1780年以降、ネパールからグルカ人の侵入が始まる。彼らはまず、中国に入ろうとして阻まれ、方向を変えてシッキムに入り、さらに南に進んでイギリスの東インド会社と衝突する。
 1817年にグルカ人たちは東インド会社と条約を結び、ネパール国境が確定し、占領したシッキム王国の領土もイギリスに割譲した。イギリスはそのほとんどをシッキムに戻し、ネパール、チベット、ブータンの間の緩衝国とする。

 その後イギリスは、ダージリンをリゾート地として活用しようと、年間使用料を払う代わりに割譲してほしいとシッキムに申し入れるが、当時シッキムを属国視していたチベットが介入して反対し、緊張が高まった。
 1849年、二人のイギリス人がシッキム領内で拘束されたことに端を発っし、現在のシッキム州境からインド平原にいたる地域がイギリスに併合される。さらに1861年には、イギリスによるシッキムの保護領化が宣言された。
 チベットはこれを違法だとして、1886年、シッキムに侵攻したが、イギリス軍に打ち負かされ、1888年には逆にラサにまで討伐軍に侵入された。
 イギリスはシッキムの開発が急務だとして、労働力としてネパールからの移民を進め、多くの土地で稲作とカルダモン栽培が行われるようになった。この移民政策は、シッキム国王によって1960年代に禁止されるまで続いた。

 インド独立後、イギリスとの条約はインドとの間に引き継がれるが、王制よりも民主的な政体を望む声も大きくなりつつあり、インド政府もそうした動きを支えた。
 最後の国王となった Palden Thondup Namgyal は人望がなく、変化を求める声に抵抗し続けた。
 1975年の国民投票で、97%がインドへの併合に賛成し、インドの一州となった。中国は当然、シッキムをインドの一部として認めることを拒否している。
        (参考:1995年版ロンリープラネット)

 ユクサムも観光開発を行っている最中らしく、町の入り口付近に大きな門を建て、工事中のところがあった。最初そこがノルブガンかと思い、行ってみるが、単に新しいゴンパを建築中だった。門からゴンパへの参道は高い杉並木で、日本のお寺のような雰囲気。

 ダブディ・ゴンパへの登り道の手前にも、真新しいゴンパがあり、ジープスタンドからもよく見え、目立つ。行ってみると、ここもまだ建設中で、中には入れなかった。

ノルブガン
 ノルブガンは、ジープスタンドから左手の高台へ向かう、村中の道を登った途中にある。なんとなく飛鳥を思わせるひなびた田園風景のところだ。
 途中、「子供に物をあげないでください。ベッガーにするだけです」と書かれた英語の看板が立っていた。ちなみにユクサムは、近くにケチェオパリ湖があり、ペリン−湖−ユクサムと結ぶトレッキング道としても有名。

 ノルブガンは、日本の山里の社を思わす風情で、高い鎮守の杜に覆われた境内に、小さい社(マニ車に囲まれた社殿)と、3人の高僧によって王位を授けられた、初代国王の石の王座が今も残る。欧米系の観光客が来ていた。

ダブディ・ゴンパ
 ダブディ・ゴンパは1701年建立という、古いゴンパ(ロンプラでは、ここがシッキムで最も古い寺、ということになっている)。メインストリートから見て、ノルブガンと逆側の小山の頂上にある。ここも山脈の突端にあたる。
 このゴンパへの道も急な坂道で、途中牛飼いの老人がカランカラン鐘をならしながら歩く牛を追って降りてきた。また、周囲の林の中から、人の話声や歌声が聞こえ、がさがさする。何かと思うと、老若男女が枝や葉っぱを切って頭に乗せて運んでいる様子が、木々の間からすけて見える。こちらは暢気に旅行だが、みなお仕事中。

 小一時間ほど歩いて、頂上のゴンパへ。ロンプラ情報では今は無人でお祭りのときだけ人がいる、とあったが、行くとちょうどお坊さんや小僧さんたちのお昼どきだった。袈裟も干されており、しばらくここに住んでいる様子だった。お祭りの前後の時期か、それとも現在は青空寺ではなくなったのだろうか。

 ゴンパは外見も中も、1701年建立というだけあって古めかしい。中には3人のチベット人高僧の彫像がある。
 また来訪者の記入ノートがあり、めくると3月になってからも日本人がちらほら来ていた。古くて良かったでしたみたいなことが日本語で書かれており、へえ、こんなところまで結構やってくる人がいるんだ、と感心。
 境内には、お坊さん以外にも、地元のカップルや、お参りに来る人などがちらほらいた。


 2時半頃、下のジープスタンドに戻る。近くのお店の人たちは、ゲイジンやジョレサン方面へ向かうジープはもうないという。
 雨も降り始め、今日はここに泊まり、明日ここからニュージャルパイグリに行くか、と思案していると、ちょうどペリン行きのジープが来た。タシディン経由だろうからゲイジンで降りようと考え、乗せてもらう。
 しかし話を聞くと、リンビ経由でゲイジンは通らないという。それでも、ユクサムからだとシリグリへ行くにはジョレサンで乗り換えなければならないが、ペリンからなら直行バスがある。交通の便はペリンのほうがはるかによいので、ペリンまで乗せてもらうことにした。

 同乗者はコルカタの学生たちで、彼らのチャータージープだったようだ。今考えると、これだけはぐれジープに出会えたのは、ちょうどベンガル人たちの旅行シーズンと重なったおかげの感が強くする。他の閑散期にシッキムを旅行した場合、地元の人たちの話からも、これだけ頻繁にはぐれジープに出会えるとは、ちょっと思えない。通常は1日1往復で午前なら午前、午後なら午後と時間帯もほぼ決まっているのではないかと思う。あと、金曜や土日だったというのも、平日とは異なる時間帯に走るジープが多かった一因の気がする。

 学生は全部で9名、まあ英語ができるのは1名で、あとは単語の感じ。流行歌のカセットをかけていて、クックリークワックス、と男性歌手が歌うコミックソングのような曲が流れると、学生たちもつぶれたがちょうのような声で一緒に”クックリークワックス”と歌い、手拍子を打ち、とにかく陽気だ。
 この曲には女性のつぶれた声でガアガア、というがちょうの鳴き声が入る。調子がいいこともあり印象に残ったが、この日の晩、食堂で韓国人バックパッカーと話していると、食堂のテレビに女性コメディアンが出てきて、つぶれた声でガアガア、と言っていた。ちょうど流行っている曲だったらしい。

 学生らは橋にさしかかると、「あ、橋だ橋だ、写真撮ろう!」という感じで、運転手や私にも「一緒に一緒に」と陽気に誘う。
 さらに行くとジープが何台か停まっており、先に進めなくなった。3台前のジープが故障したそうで、タイヤをはずし修理している。
 来た道を少し戻ったところに、みやげ物屋が出ていて階段が見える。私は修理の様子を見ていたが、学生らがやってきて、あそこに滝があるよ、と教えてくれる。リンビの滝は有名らしい(でもこれまでシッキムで見かけた滝や、入り口の様子から、日本の山中の滝とさして変わらないのでは、と思う)。

 3,40分してやっと修理が終わった。この道では確かに壊れる車も出るだろう。でもJAFは来ないし、自力しか頼るところがない。

 しばらく順調に進んだが、また車が停まって渋滞している。最初に壊れたジープは脇にのいており、二台目を何やら皆でいじっている。20分ほどして二台目の修理が終わり、一台目に乗っていた人たちをあちこち分乗させようと、運転手たちが割り振りはじめた。一台目の車の運転手だったモンゴロイドの少年だけ残り、出発してゆく他の運転手たちに手をあげて挨拶していた。彼はこれから、自宅か友だちの家まで歩いて帰るしかないだろう。

 5時を回った頃、ペリン到着。学生らは宿を予約しており、運転手は彼らの宿を探すことになった(ベンガル人の旅行スタイルは、高度成長期の日本人の家族旅行や学生、社内旅行に似ている気がした。一斉に同じ時期に旅行し、人も多く、予約しないと安心できない感じ)。

 こちらは、まだゲイジンあたりへ出るジープがあれば乗ることにして、ゼロポイントでちょっと待ってみる。霧が濃くなってきた。5時半まで待ってだめならペリンに泊まることに決め、しばらく待つが車は来ない。
 霧はいよいよ濃くなり、数メートル先も判別不明になってきた。これではドライブそのものが危険な感じ。今日はペリン泊まりと決め、近くのツーリストオフィスの人に、朝のシリグリ行きバスについて尋ねると、7時にもうちょっと下から出るが、6時半にここでピックアップする、という。

 霧の中、ジープを待ちながら、リュックを背負った白人の一人旅行の女の子が、まず手前のホテルに入り、しばらくして出てきて、次に隣の階段を降り、出てこなかったようすを見ていた。ということは、そこは部屋があるということだ。
 ジープをあきらめ、私もそのホテルへの階段を下りた。

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チャータージープに同乗させてくれたベンガル人学生たち

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Last updated:07/01/22 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.