綿(棉)

このページは日本綿に関する内容です。
 日本綿は雨の多い東アジアの土壌にあった綿で、下向きに実をつける。インド綿や米綿は上向きに実をつける。品質としてはインド綿などのほうがよいとされる。インド綿は繊維が長く、日本綿は短い。

「綿」:糸として使用するワタについて使用する漢字
「棉」:種のついた状態のワタに使用する漢字

 茨城の農家の老人から、戦時中、物不足に陥ったとき、ここらではみな綿の種をまいて収穫し、当時既に使われなくなっていた機織機を納屋から引っ張り出して布を織り、着物に仕立てた、という話を聞いたことがある。この話がずっと心の片隅に引っかかっていた。

 今年、長年続けてきた茨城の畑をいったん終了することとなったので、興味があったものの、時間がなく実行できないでいた里山や林業の活動に参加してみることにした。幸い、面積は小さいが畑も借りることもできたため、気になっていた綿を栽培してみた。

 綿はアルカリ土壌でないと育たないため栽培が難しいと聞く。しかし山土の土壌があっていたのか、初めてにも関わらず、思いのほかよく穫れた(後述)。
 気をよくして、手紡ぎや手織りの講習にも参加してみた。意外と自力でいろいろとやれる。織機なども、買うとなると高いが、簡単なものでよいなら自作だって可能だ。
 生活の基本的な部分を自力でやれることは、なかなか楽しく、生きる力が涌いてくる。

以上活東庵掲載  公開日:2009.12.13


綿の栽培方法

一般的な綿の栽培方法(千葉南部で聞いた内容)

土地 日当たりと水はけのよいところがよい。できればアルカリ土壌。

種まき 4月末から5月半ば。昔は5月8日(八十八夜)だった。
    綿はアルカリ土壌を好むので、必ず消石灰をまく必要がある。ホウレンソウと同じ。
    1反20kg、1週間前までにまく。

    綿の種は繊維がついているため、絡まって蒔きにくい。大量に蒔く場合は直前に水でしめらせ、灰や砂をまぶすとバラバラになり蒔きやすくなる(灰はカリなので根を強くする)。
    種の高さ0.5cmX3の浅い溝をつけてたねを蒔く。
    土のかけ方がポイントで、厚すぎると芽が出ず、薄すぎると乾燥する。乾燥は絶対によくない。

畝間 畝間は、管理機が入るよう70cm。80cmだと光が入り雑草が生える。

肥料 肥料には鶏糞を使用している。牛糞は窒素のみ、鶏糞は窒素とカリを含む。

除草 10日で芽が出るので、生え始めたら立ち鎌で土寄せを兼ねて除草。立ち鎌で3回やったあとは土寄せ機で除草土寄せを行う。さいごは大根の土寄せぐらいにする。

間引き こぶしくらいの間隔に間引く。茎の細いもの、低いもの、高すぎるものは間引く。高すぎると他を圧迫するため。平均して育つようにする。厚蒔きのまま茎が細いと、実がついたときにしなってしまう。
 間引きの時期は、葉が互いにふれあうようになった時。

摘芯 7月、背丈が伸びすぎた場合は、腰丈程度で摘芯する。背が低いほうが実がよくつく。背が低いからと、肥料をやりすぎないこと。
 綿は風に弱く、1m以上になると倒れやすくなる。台風が来ると必ず倒される。

収穫 実がはじけたら収穫。ただしはじけてすぐは未熟なため、一週間後にとる。11月、12月初めまで収穫が続く。

収量 1反で100kgといわれるが、7畝の畑では40〜50キロ収穫だった(年によって差がある)。

 3年以上たったものは発芽しない。できるだけ前年の種がよい。

北限 山形、新潟

棉の量の目安
 1カセ=200m=綿15g=1スピンドルX3または3.5本
 シャツ(長袖)1枚=30カセ   マフラー=4カセ
 棉の重さ:種入りの場合、綿の繊維は3割
 15gX30X10/3=1.5kg(必要とする棉の量)
 参考:敷布団=綿6キロ  かけ布団=綿4キロ  織物1反=綿5〜700g

 よくはじけていない未熟な実は良質の綿にはならないので、詰め物にはよいが、紡ぎには使用できない。

 日本綿についてより詳しく知りたい場合は鴨川和棉農園で学ぶことができます。


種まきのようす





綿の栽培結果

東京西部2箇所で栽培した内容(2009年)

土地A: 南に建物のある日当たり悪い土地。昼間は当たる。湿気も多い。
     以前畑だったが20年以上耕作していない。

     6月27日種まき
     10月に花が咲き、11月実が付いたがはじけなかった

土地B: 山土に落ち葉の堆肥をまぜ、直前まで2年ほど耕作していた土地。
     東に丘があるがその他日当たりは良好。風通しもよい。

     6月13日種まき
     9月3日 1.5mを越えてきたので芯を摘む。花が咲いている
     9月以降11月頃まで 黄色い花がさかんに咲く。背丈の伸びたものの摘芯をする
     10月 綿の実がつくと茎がしなって倒れてきたため、支柱を立てた
     11月12月 はじけた棉の実を収穫。次々に花が咲いては実がつき、はじける。
     収穫が遅れると地面に落ちてしまう。出来は非常によい。

土地Aは小面積だったので消石灰を入れた。土地Bにも種まき時にばらばらまいたが、ほとんど関係ないと蒔き方と量だったと思われる。おそらく土地Bはアルカリか酸性でもごく弱いと思われる。一方、土地Aはブルーベリーがよく根付いたことから、強酸性と思われる。

結論:土壌によっては消石灰なしでも栽培可能。しかし日本でそういう土地はあまりないかもしれない。

   綿は少しでも日当たりが悪いと育たない。完全に開けた土地でないとだめだった。湿気にも弱い。土地はそう肥沃でなくても大丈夫。

   摘芯が遅れ、1.5mで止めたが実は十分ついた。ただ実がつきはじめると、しなって倒れてきた。広い範囲で栽培する場合、すべてに支柱をたてるわけにはいかないので、やはり高さを押さえるためにも芯止めする必要がある。


8月8日 9月19日 綿の花

日本における綿の歴史

『新・木綿以前のこと』(永原慶三著、中公新書)に詳しい。

 日本で綿の栽培が始まるのは、江戸時代になってからである。それまで、服や縄には麻(苧麻)が使われていた。麻は、畑での生産性も低く繊維も取り出しにくい。収穫してすぐに繊維を取り出す処理を行う必要があった。また、織るにも時間がかかる。妻の1日の大半は、家族の着物作りに費やされていた。

 江戸時代に大々的に綿の栽培が開始されると、飛躍的に生産性があがる。たった5畝で一家6人の一年分の反物に必要な綿が得られ、収穫した綿から糸を紡ぐのも簡単、染色も容易で鮮明、織りもたやすい。さらに、収穫してすぐに処理する必要のある麻と異なり、綿の場合は繊維そのものなのでそのまま置いておけるし、軽くて運搬も容易だった。

 麻の時代(中世)は各家庭で栽培、紡ぎ、織りを行って反物にしており、余剰生産はほとんどなく、よって商品として流通する布もわずかだった。
 しかし、綿の時代になると、家庭で消費する以上の生産が可能になる。また収穫した綿を輸送して集めることができるので、工程ごとに専門化した処理が可能になる。このため、技術を蓄積して質の高い処理を行えるようにもなる。

 こうして質の高い製品が、商品として大量に流通するようになった。女性達も家族の反物作りに要する時間が大幅に短縮され、夫婦で畑に出られるようになった。これにより集約的農業が発達、換金作物もさかんに栽培され、商品として流通してゆくようになり、産業が発展した。

 やがて明治維新となり、欧米から産業革命を経た先進技術が入っていた。産業革命といえば、ケイの飛び杼が有名なように、繊維産業の自動化が端緒となっている。当時最先端の自動織機が日本にも導入された。これらの機械は、繊維の長いインド綿用であり、繊維の短い和棉は扱えなかった。産業界から綿の自由化が叫ばれ始め、それを阻止しようとする綿農家との間で攻防が続いた。ついに明治29年(1896)、綿の輸入が自由化される。これにより、わずか2年で日本の綿作は壊滅した。

 以上、『新・木綿以前のこと』から簡単にまとめてみたが、このように、綿が近代社会の出現に果たした経済的な役割は非常に大きい。

 綿の歴史は、経済活動がまださかんでない中世以前の社会と、分業と専門化が始まり余剰製品が商品化され、さかんに売買される近代社会の成立過程をよく示している。



里山の畑 右奥が綿






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