2月16日(水)
パテインのプロジェクト
朝食はモヒンガー。冷や麦のような細麺に野菜等の具がのっている軽い汁ソバで、家庭によってスープの味が違うそうだ。
ここでも、前の道を弁当筒を下げた通勤人が三々五々歩いていた。
7時半頃宿を出て、昨日の丘陵地帯を戻る。
フェリー乗り場の近くには田圃が広がっていた。
一行の稲作農家の老人が
「直播きだな。田植え苗の20日くらいの大きさだが、直播きだからもっと経っているだろう。日本の三分の一の収穫だな。直播きは分株しないから」
と一目見て言った。
シャカウィー氏は、これは夏米で4月末に収穫だ、と言った。
ミャンマーの農村では、稲藁が家よりも高く積み上げられている光景をよく目にする。また2メートルくらい上の木の股や枝に積み上げていることも多いが、これは牛避けのためだそうだ。
稲藁は牛の飼料にする。田圃の肥料には人糞を利用している。
フェリー待ちのトラックの正面に、日本の榊のような常緑樹の枝が差してあった。交通安全のためで、仏教の信仰だ、とカレンの人たちは言っていた。しかしそれ以上のことは彼らもよく知らず、わからなかった。
9時のフェリーでパテインに戻り、10時頃コタビュー神学校到着。
卒業生のアンドルー・チャンプー氏とこの地区のミャンマーバプテスト連盟総主事Erville
Porway氏、そして同じ当地区MBCの理事が迎えに来てくれていた。理事は日本に1年ほど留学したことがあるそうで、かなり流暢に日本語を話した。
総主事の話では、ここのMBCには248の教会があり、5万人のメンバーがいる。この施設では、宗教教育、クリニックの運営(ビルマ族の患者も来る)、女性用の訓練校(カレン族織を教える)、農村開発(植林、稲作中心)、学生センター(農村の子どもが政府の学校に通うための寮で9カ所あり、クリスチャンに限らず入れる)の運営を行っている。収入は外国からの援助に頼っているが、魚、豚、牛からも収入を得ている。
次にアンドルー氏が話す。彼はカレン族の支族サゴカレンのバプテスト連盟に属する牧師で、数マイル先のノット村に住む。
連盟の80%は農民で、連盟の事務、農協活動を行うかたわら有機農法を行っている。EM菌やボカシを使用しており、ボカシはアジア学院でも学んだが、現在ボカシは政府でも奨励している。
アジア学院の研修後、一番大変だったのは気候の違いと、機械がないことだった。稲藁も鍬込んだり飼料にしている。
昨日は舟がなくなり、7マイル歩いてここへ来たという。
1反あたりの収量を聞いた米農家の人は、日本の四分の一くらいだと言っていた。
神学校向かいのクリニックを見学。運営はヤンゴンのMBCからの援助と患者の治療代とでまかなっている。手術台もあったが、ここで手術を受けるのは(日本人的には)かなり勇気がいる気がした。
神学校の隣は政府の高校。神学校そのものもかなり大きく、大勢学生がいた。小学校の講堂のように大きな教会の礼拝堂があり、日曜には満員になるほど集まるという。
礼拝堂にはビルマ文字を借用したカレン語の垂れ幕が掛かっていた。聖書もビルマ文字使用のカレン語のものを使っている。
カレン織の訓練センターを見学。現在訓練コースは休みで、6月から新学期が始まるが、仕事として織っている人たちがいた。
カレン織りは赤、黒、白(男性用に多い)または赤、青、白の縞模様が特徴で、1日でロンジーを4枚仕上げる。
ミャンマーの少数民族は136種族、カレン、ラフ、シャンも皆ロンジーを身につける(と聞いて、ふとタイや中国側の同じXX族は何を着ているのだろう、と疑問に思った)。ヂャムー氏は、ラフは黒が好きだと言っていた。
ここの製品はパテインのマーケットに卸している。
カレン料理の昼食。豚や鳥の煮込みと、野菜、ご飯、魚を塩辛のように漬けたンガピも出た。Aさんの話では、ンガピはビルマ族もよく食べているという。たいていデザートにバナナ、西瓜、マンゴーが出ていたが、ここでも同じ。
帰りがけにアンドルー氏がハーラワーケーキという餅米、砂糖、椰子油で作ったお菓子を皆におみやげにくれた。ミャンマーによくあるお菓子だそうで、ゆべしに似た歯ごたえと味で、そう大甘でないので食べやすい。
一路ヤンゴンへ。田圃に脱穀場があり、3本足の櫓を立てて横木を組み、その上にふるいを置いて揺らして選別していた。パテイン近くでは二期作だが、ヤンゴンに近づくにつれピーナツが多くなる。
遠くにときどき建っている赤白の鉄塔はテレビ用で、衛星を通じて流していると言っていた*9。
田を焼いたあとがあちこちにあり、総主事さんは除草のため、ソーラピー氏は病気の予防と毒蛇退治だ、と言っていた。
夕方、S子さんとユーコさんとヤンゴン市内を散策(詳しくはこちら*B)。夕食はホテルそばのミャンマー中華料理店Swelレストラン。外食ではここが一番おいしいという人が多かった。
カヤ州からわざわざ出てきた、鶴川学院(アジア学院の前身)時代の卒業生、エディー・ルー氏が来ていた。白い長髪の老人で、元気に村のことをしゃべっていた。
ヂャムー氏の話では、ミャンマーでは一般に、5月に田起こし、6月田植え、10〜11月収穫の雨季作と、12月田起こし、3〜4月収穫の夏作とある。雨季作は政府に強制的に売却する割り当てがあるが、夏作は売らなくてもよい。夏作は潅漑で行う。半分近くが強制売却となり、1エーカーあたり4バッグ(1バッグの量はわからない)である。
土地は豊かだという。米は1エーカー(約4反)で一回70竹篭とれる。土地の値段は1エーカー2.5ラック(25万)チャットくらい、土地の売買には政府の証明書がいる。*8
普通、市場で米は1袋250チャットするが、公務員は10袋まで100チャットで買える。大きい袋で1カ月一家が食べられる。米は平地では足りているが、山では足りず、サツマイモ、トウモロコシ、タケノコを混ぜて食べている。
また、ホテルのそばにSAKURA病院があるが、高くて一般の人は行かれない、医者にはカレン族が多い、と言っていた。
ヂャムー氏はパテインに同行してくれた後、シャン州のワ族*10のところへ出張に行く予定で、このパテイン旅行でお別れだ。
ワ族と聞いて、以前まだ文革の余波の残っていた頃、北京放送で流れていた革命歌を思い出した。当時中国国内の少数民族が毛沢東主席や中国共産党をたたえる歌がよく流れており、ウイグル族の「偉大な北京」、チベット族の「輝く北京」、モンゴル族の「毛主席にお会いした草原の紅衛兵」、ミャオ族「苗族の故郷北京に連なる」、トン族「北京に届けようこの歌を」、ハミ族「ハミ族人民は心から毛主席を慕う」等々の曲とともに、「ワ族人民は新しい歌歌う」という曲があった。みな、曲はその民族に古くから伝わる民謡を借用して、歌詞だけその当時風に歌った替え歌だった。
パテインの田圃
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