コヒマは危ないので基本的にホテルの外に出ないでください、と言われていた。しかし6時に起きてロビーにゆくと、研修生のジャミール氏が座っている。街を見に外に出てもいいかきいてみると、OKというので外に出てみた。
コヒマは標高1500mの山の上にある天上の街。インパールとはまったく雰囲気が異なる。インパールは田舎っぽくても一応完全に近代の街だが、コヒマはなにかもっと土俗的で人々も古い精神を宿している感がある。危険、というのとは違うが、何かあったときの反応の仕方が慣れた近代社会と異なりそうで、そういう意味での緊張を覚えた。
インド系の街とはまったく異なり、そうした一画も見かけなかった。現在のナガ人は洋服を着て都会や先進国とそう変わらない感じだが、それでも裏道を歩いていると、いまだ奥深いところに太古の精神が息づいている感じがある。それはたとえば、関西の繁華街でいきなり土俗的なお宮を見かけたり、東北の雪に埋もれた神社で巨大な人形等のモニュメントを見たときに感じる感覚に似ている。普段は眠っている心の古層に触れてくるところがあった。
街は全体に灰色と茶色の建物、淡い黄土色の土など、くすんだ色に覆われている。裏道に入ると、尾道や漁村のように狭い急斜面に家がびっしり立て込んだ、巨大な坂の街。
人しか通れない入り組んだ坂道が不規則に上下左右に曲がりくねって伸びる。家は大抵平屋の切妻か入母屋のトタン屋根、たまに二階が乗っている。ただし坂なので二階か一階か地階か判別しがたい構造の家も多い。それだけ斜面が急なのだ。壁もトタンが多く、竹を編んだ筵や、たまにレンガ造り。斜面は石組みで抑えている。標高1500mというだけあって、屋根の向こうに山並みが連なり、街は尾根ぞいに向かいの山上へと広がっていく。この後研修生のプロジェクトを回った際わかったが、家がびっしり立ち並ぶ
地域、各戸が狭い家庭菜園規模の畑を備え木も数本植わっている地域等いろいろある。
7歳くらいの女の子が、動物の丸焼きを2体、トーンと共同井戸脇に放り投げた(写真右)。見るとこんがり焼かれた毛のむしられた犬。韓国、広東でも食べるので驚きはしないが、(アジア学院でもナガの研修生が野良猫をつかまえてお昼に猫カレーを作ったことがある)大きさも形も日本犬に似てなかなかリアル。後で研修生から聞いた話では、韓国のポシンタン同様病気の時に食べると体が暖まるそうで、犬の肉は高いという。ホテルの下のほうに市場があり、のぞいてみる。野菜、魚が売られ、内蔵を取り除いた豚をまるごと肩にかついだ人が行き交う。売り手にアーリア系の顔立ちの人もいるが、ほとんどはモンゴル系。街行く人々もそうだ。コヒマの人々の足が細くてきれいなのは、毎日坂を上り下りしているからだろうか。
早朝は冷え込みカーディガンをはおって散歩したが、人々の服装もセーターやナガのショールをきっちり巻いた人から半袖姿の人までさまざま。この後各地を見学したときは、一行は皆長袖でさらに背広やジャケットを着込む人も多かった。ただし、日中日差しが強いと結構暑い。
コヒマ市内
朝食の後7時半に研修生のプロジェクト訪問に出発。まずアトゥーさんの Hope Evangerical Centerを訪問。彼女の職業は先生だが、お父さんの福音派(バプテスト)の教会の仕事を個人的に手伝い、このセンターを作った。ナガランドの20代の若者には仕事がないため、やることがなく麻薬に手を出したり地下組織に入ってしまう問題がある、これをキリスト教で救おうとしている、と言う。
福音派らしく若者らがギターを片手に歌って歓迎してくれた。福音派の教会は、日本でもポピュラー音楽を使ったノリのいい賛美歌で布教活動を行っている。新宿のビルの地下にある福音派の教会を訪ねたときは、アメリカのロックバンドが入っていて、パンクロック風も含めた若者がフロアにぎっしり集まっていた。個人的には音楽でハイになる独特の雰囲気にいまいち違和感があるが、カトリックやプロテスタント教会に比べて、若者の出席が多い感じはある。ナガランドの福音派はそこまで過激でないが、やはりポピュラー音楽を通じて若者に働きかけようとしていた。しかし失業、麻薬と日本より悪い状況にある若者達をなんとか引きつけ押しとどめようとする試みは、おそらく効果の見えにくい”大海の一滴”のような作業だろう。
Hope Evangerical Centerの少女たち
センターは斜面に立つトタンと木造の家屋で、車道と水平の部屋が教会、その下の脇の小道からも出入りできる部屋が家内工場になっている。ここで失業した若者の自立を助けるため、彼らと農産加工を行い販売している。グズベリー(ナガランドやマニプールのあちこちに自生)から石鹸やシャンプーを、ハーブ(コムリナ・コムリス)から何にでも効くというお茶を、その他堆肥やジャム類などを作っていた。石鹸1個30ルピー、堆肥1袋120ルピーという。農家のおじいさん達は、現地の収入から考えて「あの堆肥は高いんじゃないか」と言っていた。「あれ鋤き込んで野菜作ってたんじゃ農家はペイしないぞ」。またアルバトリックという、焼き畑後地に植えれば窒素を固定し5年で森に戻す、という木の苗も売っていた。同室の牧師は、「お父さんは地元の人達から尊敬されているらしい、そういう人から”これは効く”と言われると村人は信用して買うんでしょうね」と言った。ハーブ類は栽培しているのか尋ねると、村人が森で集めてくるものを購入していると言っていた。
次に元イギリス軍の病院だったナガホスピタルに寄って、車椅子を贈る。ナガホスピタルは、古い洋画に出できそうな木造の趣のある病院で、丘の上に立ち見晴らしがよい。病院の前で車椅子の乗り方を説明したり贈呈式を行っていると、その辺を歩いていた人達も集まってきて人垣ができる。
10時過ぎ、ケソレゾ氏のクリニックへ回る。彼は二度目のアジア学院での研修時に指圧を学び、さらにシンガポールでも学んで格安で村人に治療をほどこしている。1日に20人くらい見ており、州政府からも表彰されたと言っていた。このように日本で指圧や針治療を学んで村人にほどこしている研修生は他にもおり、新たにナガランドから来日する研修生の中にもやりたがる人がいる。ただし長期的に学べる人以外は、学院としては研修の斡旋を断っている。
この時外に出ると、バスから少し離れたところに警察のジープが止まっていた。近づいて警察かと尋ねると、そうだと答え握手してきた。護衛だと言ってこの後もずっとついて回ったが、やはりかつて中国で、団体旅行しか許されずお目付役付きで移動した頃と同じ雰囲気を感じてしまう。
次はティソ氏(写真右)の個人農園。彼は公務員だが、傾斜地で2反ほど畑もやっている。特に学校で学んだことを地元に還元するタイプの農園ではないが、栽培作物等興味深かった。元指導員と畑を見て回ると、からし菜、人参、しょうが、里芋、ウリ類を段畑で作っている。日本の農家の家庭用の畑でもよく見かける里芋だが、ナガランドの里芋も日本のものとほぼ同じ、茎が半分紅いタイプ。人参は高く売れるのでゆくゆくは主力作物にしたいという。小屋には牛がいて、ジャージー種と地元種の掛け合わせだと言っていた。このタイプの牛は他でもよく見かけ、セナパティ〜マオゲート間の途中で休憩した村の小屋にもいた。乳牛として飼っており、ホルスタインよりも強いため、このあたりで飼育されている。大抵小屋の隅にナベがあり、米糠を煮たものが入っていた。麦を混ぜてあることもあり、飼料にしている。
元指導員は畑の土を見て「ひどい土だなあこれは。インドの土は悪いねえ、カチンカチンじゃないかこりゃ。雨が降るとこれガチガチに固まるぞ。ラテライト、てのは話には聞いていたけれど、ひどいねえ」、また畑の間に木が植わっているのを見て「今はこうして木を残す、ちゅうのが流行のやり方でね。土壌浸食を防ぐんだな。でもこっちの雨の降りかたは日本の比じゃないすごい土砂降りだっていうし、これだけじゃ雨降るとみんな流れちまうぞ。カバークロップ、てクローバーとか植えて根をはらせて抑えて、豆科の植物植えて窒素固定してやっていかないと」。農大の先生もあれでは足りないと言い、インドでは普通土壌浸食を抑えるためには、畝幅があるときは木を植え、ないときは草を植えて土を抑えると言っていた。
ここでいったん、研修生達が景色のいいところに案内してくれるというので、アンガミ(Angami)ナガの住む一帯にある丘へ向かった。途中、アトゥーさんの教える学校や彼女の実家の前をバスで通過した。実家のある地区は、塀で囲まれ緑の木立のあるお屋敷街で、広い庭つきの立派な家が多い。彼女の実家もその一つ。コヒマにも高級住宅街があり、お嬢様もいるのだ。
アンガミの村に入るには首が2ついります、と研修生が冗談に言う。道が狭いのでバスを降りて丘の上へ向かって歩くが、日本の山村集落、特に急傾斜地の集落によく似ていた。道の山側には石垣の上に家が並び、谷側は足下に屋根を見下ろすかたちになって見晴らしがよい。あるいは石垣の間を細い坂道が垂直に登ってゆく。
この辺りの家は、ホテル周辺の町並よりも、屋根の高さが一段が低い感じで、各戸に小さい畑や庭が備わり鄙びた感じだ。壁に赤白ペイントをほどこした家も多い。ところどころに、屋根に斧の飾りを付けた体育館のように巨大な家があり、こうした屋根飾りのある家は金持ちの証しだという。ただ、そうした巨大家の屋根は見た限りすべてトタンだった。もとは竹か草葺きだったのだろうが、40年前に中根千枝女史が訪ねたときは、すでにコヒマは第二次大戦でいったん全焼した後で、その後復興されたトタン葺きの家しかなかったという。
丘の上でアンガミナガの正装姿の少女が2人、どぶろくと塩豆をふるまってくれる。丘の上からはコヒマをある程度一望できた。コヒマはアジア一大きい”村”だそうで、人口は1992年の数字では10万くらい。現在の数字は研修生に聞いても20万等いろいろではっきりしない。しかし10万単位の人口がいてなぜ”村
(Villedge)”を名乗るのか?よくわからない。一方J&Kのレーは、見た感じコヒマよりはるかに規模の小さい町だがレー市である。