東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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3.ナガランド州


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3.2 コヒマ

11月14日(金)

 コヒマは危ないので基本的にホテルの外に出ないでください、と言われていた。しかし6時に起きてロビーにゆくと、研修生のジャミール氏が座っている。街を見に外に出てもいいかきいてみると、OKというので外に出てみた。

 コヒマは標高1500mの山の上にある天上の街。インパールとはまったく雰囲気が異なる。インパールは田舎っぽくても一応完全に近代の街だが、コヒマはなにかもっと土俗的で人々も古い精神を宿している感がある。危険、というのとは違うが、何かあったときの反応の仕方が慣れた近代社会と異なりそうで、そういう意味での緊張を覚えた。

 インド系の街とはまったく異なり、そうした一画も見かけなかった。現在のナガ人は洋服を着て都会や先進国とそう変わらない感じだが、それでも裏道を歩いていると、いまだ奥深いところに太古の精神が息づいている感じがある。それはたとえば、関西の繁華街でいきなり土俗的なお宮を見かけたり、東北の雪に埋もれた神社で巨大な人形等のモニュメントを見たときに感じる感覚に似ている。普段は眠っている心の古層に触れてくるところがあった。

 街は全体に灰色と茶色の建物、淡い黄土色の土など、くすんだ色に覆われている。裏道に入ると、尾道や漁村のように狭い急斜面に家がびっしり立て込んだ、巨大な坂の街。

 人しか通れない入り組んだ坂道が不規則に上下左右に曲がりくねって伸びる。家は大抵平屋の切妻か入母屋のトタン屋根、たまに二階が乗っている。ただし坂なので二階か一階か地階か判別しがたい構造の家も多い。それだけ斜面が急なのだ。壁もトタンが多く、竹を編んだ筵や、たまにレンガ造り。斜面は石組みで抑えている。標高1500mというだけあって、屋根の向こうに山並みが連なり、街は尾根ぞいに向かいの山上へと広がっていく。この後研修生のプロジェクトを回った際わかったが、家がびっしり立ち並ぶ
地域、各戸が狭い家庭菜園規模の畑を備え木も数本植わっている地域等いろいろある。

 7歳くらいの女の子が、動物の丸焼きを2体、トーンと共同井戸脇に放り投げた(写真右)。見るとこんがり焼かれた毛のむしられた犬。韓国、広東でも食べるので驚きはしないが、(アジア学院でもナガの研修生が野良猫をつかまえてお昼に猫カレーを作ったことがある)大きさも形も日本犬に似てなかなかリアル。後で研修生から聞いた話では、韓国のポシンタン同様病気の時に食べると体が暖まるそうで、犬の肉は高いという。ホテルの下のほうに市場があり、のぞいてみる。野菜、魚が売られ、内蔵を取り除いた豚をまるごと肩にかついだ人が行き交う。売り手にアーリア系の顔立ちの人もいるが、ほとんどはモンゴル系。街行く人々もそうだ。コヒマの人々の足が細くてきれいなのは、毎日坂を上り下りしているからだろうか。

 早朝は冷え込みカーディガンをはおって散歩したが、人々の服装もセーターやナガのショールをきっちり巻いた人から半袖姿の人までさまざま。この後各地を見学したときは、一行は皆長袖でさらに背広やジャケットを着込む人も多かった。ただし、日中日差しが強いと結構暑い。


コヒマ市内

 朝食の後7時半に研修生のプロジェクト訪問に出発。まずアトゥーさんの Hope Evangerical Centerを訪問。彼女の職業は先生だが、お父さんの福音派(バプテスト)の教会の仕事を個人的に手伝い、このセンターを作った。ナガランドの20代の若者には仕事がないため、やることがなく麻薬に手を出したり地下組織に入ってしまう問題がある、これをキリスト教で救おうとしている、と言う。

 福音派らしく若者らがギターを片手に歌って歓迎してくれた。福音派の教会は、日本でもポピュラー音楽を使ったノリのいい賛美歌で布教活動を行っている。新宿のビルの地下にある福音派の教会を訪ねたときは、アメリカのロックバンドが入っていて、パンクロック風も含めた若者がフロアにぎっしり集まっていた。個人的には音楽でハイになる独特の雰囲気にいまいち違和感があるが、カトリックやプロテスタント教会に比べて、若者の出席が多い感じはある。ナガランドの福音派はそこまで過激でないが、やはりポピュラー音楽を通じて若者に働きかけようとしていた。しかし失業、麻薬と日本より悪い状況にある若者達をなんとか引きつけ押しとどめようとする試みは、おそらく効果の見えにくい”大海の一滴”のような作業だろう。

Hope Evangerical Centerの少女たち

 センターは斜面に立つトタンと木造の家屋で、車道と水平の部屋が教会、その下の脇の小道からも出入りできる部屋が家内工場になっている。ここで失業した若者の自立を助けるため、彼らと農産加工を行い販売している。グズベリー(ナガランドやマニプールのあちこちに自生)から石鹸やシャンプーを、ハーブ(コムリナ・コムリス)から何にでも効くというお茶を、その他堆肥やジャム類などを作っていた。石鹸1個30ルピー、堆肥1袋120ルピーという。農家のおじいさん達は、現地の収入から考えて「あの堆肥は高いんじゃないか」と言っていた。「あれ鋤き込んで野菜作ってたんじゃ農家はペイしないぞ」。またアルバトリックという、焼き畑後地に植えれば窒素を固定し5年で森に戻す、という木の苗も売っていた。同室の牧師は、「お父さんは地元の人達から尊敬されているらしい、そういう人から”これは効く”と言われると村人は信用して買うんでしょうね」と言った。ハーブ類は栽培しているのか尋ねると、村人が森で集めてくるものを購入していると言っていた。

 次に元イギリス軍の病院だったナガホスピタルに寄って、車椅子を贈る。ナガホスピタルは、古い洋画に出できそうな木造の趣のある病院で、丘の上に立ち見晴らしがよい。病院の前で車椅子の乗り方を説明したり贈呈式を行っていると、その辺を歩いていた人達も集まってきて人垣ができる。

 10時過ぎ、ケソレゾ氏のクリニックへ回る。彼は二度目のアジア学院での研修時に指圧を学び、さらにシンガポールでも学んで格安で村人に治療をほどこしている。1日に20人くらい見ており、州政府からも表彰されたと言っていた。このように日本で指圧や針治療を学んで村人にほどこしている研修生は他にもおり、新たにナガランドから来日する研修生の中にもやりたがる人がいる。ただし長期的に学べる人以外は、学院としては研修の斡旋を断っている。

 この時外に出ると、バスから少し離れたところに警察のジープが止まっていた。近づいて警察かと尋ねると、そうだと答え握手してきた。護衛だと言ってこの後もずっとついて回ったが、やはりかつて中国で、団体旅行しか許されずお目付役付きで移動した頃と同じ雰囲気を感じてしまう。

 次はティソ氏(写真右)の個人農園。彼は公務員だが、傾斜地で2反ほど畑もやっている。特に学校で学んだことを地元に還元するタイプの農園ではないが、栽培作物等興味深かった。元指導員と畑を見て回ると、からし菜、人参、しょうが、里芋、ウリ類を段畑で作っている。日本の農家の家庭用の畑でもよく見かける里芋だが、ナガランドの里芋も日本のものとほぼ同じ、茎が半分紅いタイプ。人参は高く売れるのでゆくゆくは主力作物にしたいという。小屋には牛がいて、ジャージー種と地元種の掛け合わせだと言っていた。このタイプの牛は他でもよく見かけ、セナパティ〜マオゲート間の途中で休憩した村の小屋にもいた。乳牛として飼っており、ホルスタインよりも強いため、このあたりで飼育されている。大抵小屋の隅にナベがあり、米糠を煮たものが入っていた。麦を混ぜてあることもあり、飼料にしている。

 元指導員は畑の土を見て「ひどい土だなあこれは。インドの土は悪いねえ、カチンカチンじゃないかこりゃ。雨が降るとこれガチガチに固まるぞ。ラテライト、てのは話には聞いていたけれど、ひどいねえ」、また畑の間に木が植わっているのを見て「今はこうして木を残す、ちゅうのが流行のやり方でね。土壌浸食を防ぐんだな。でもこっちの雨の降りかたは日本の比じゃないすごい土砂降りだっていうし、これだけじゃ雨降るとみんな流れちまうぞ。カバークロップ、てクローバーとか植えて根をはらせて抑えて、豆科の植物植えて窒素固定してやっていかないと」。農大の先生もあれでは足りないと言い、インドでは普通土壌浸食を抑えるためには、畝幅があるときは木を植え、ないときは草を植えて土を抑えると言っていた。

 ここでいったん、研修生達が景色のいいところに案内してくれるというので、アンガミ(Angami)ナガの住む一帯にある丘へ向かった。途中、アトゥーさんの教える学校や彼女の実家の前をバスで通過した。実家のある地区は、塀で囲まれ緑の木立のあるお屋敷街で、広い庭つきの立派な家が多い。彼女の実家もその一つ。コヒマにも高級住宅街があり、お嬢様もいるのだ。

 アンガミの村に入るには首が2ついります、と研修生が冗談に言う。道が狭いのでバスを降りて丘の上へ向かって歩くが、日本の山村集落、特に急傾斜地の集落によく似ていた。道の山側には石垣の上に家が並び、谷側は足下に屋根を見下ろすかたちになって見晴らしがよい。あるいは石垣の間を細い坂道が垂直に登ってゆく。

 この辺りの家は、ホテル周辺の町並よりも、屋根の高さが一段が低い感じで、各戸に小さい畑や庭が備わり鄙びた感じだ。壁に赤白ペイントをほどこした家も多い。ところどころに、屋根に斧の飾りを付けた体育館のように巨大な家があり、こうした屋根飾りのある家は金持ちの証しだという。ただ、そうした巨大家の屋根は見た限りすべてトタンだった。もとは竹か草葺きだったのだろうが、40年前に中根千枝女史が訪ねたときは、すでにコヒマは第二次大戦でいったん全焼した後で、その後復興されたトタン葺きの家しかなかったという。

 丘の上でアンガミナガの正装姿の少女が2人、どぶろくと塩豆をふるまってくれる。丘の上からはコヒマをある程度一望できた。コヒマはアジア一大きい”村”だそうで、人口は1992年の数字では10万くらい。現在の数字は研修生に聞いても20万等いろいろではっきりしない。しかし10万単位の人口がいてなぜ”村 (Villedge)”を名乗るのか?よくわからない。一方J&Kのレーは、見た感じコヒマよりはるかに規模の小さい町だがレー市である。

 

丘からコヒマをのぞむ

 1時過ぎにキレさんのお宅へ。レンガ造りに白いしっくいの立派な家で、庭と菜園がある。お手洗いを借りるため中に入ったが、中は神戸の異人館のような作りの木造、窓に面した板張り廊下の山側に部屋が並び、なかなかしゃれている。

 彼女はキッチンプロジェクトとして家庭の主婦にもできるような菜園造り、花卉園芸や養豚の指導を行っている。豚は2カ月で1200ルピー、親豚だと7000〜9000ルピーで売れる、と言っていた。 この後クレオ氏が自分のプロジェクトについて発表する。彼のプロジェクトはビルマ国境近くにあり、遠くて行かれなかったのだ。ナガランドでは、コヒマの北シミニョへのプロジェクト見学の予定もあったのだが、これもカットになり、コヒマを離れる許可が出なかったようだ、と研修生が言っていた。クレオ氏は村の食品加工プロジェクトで作った、グズベリーとレモンの2種類の蜂蜜入りジュースを、試飲用に持参していた。

  この他缶詰等も作っている。またナガ人は牛肉をよく食べるため、畜産にも力を入れている。乳牛は小屋で1、2頭飼育することが多いが、肉牛は田圃に放牧するため病気や怪我をしやすく、ワクチンが必要なので配っている。対象は90ケ村、州から借りた車で回っているという。

 この後キレさん宅の庭で、研修生達の用意してくれた食事で昼食。メニューは大体同じだがお米がおいしい。一行の女性陣がよく「研修生のところでいただくお米はおいしいけれども、ホテルのご飯はまずいわね」と言っているので、そのことについて聞いてみると、研修生の家庭で食べるご飯は地元米だが、ホテルのライスはアッサムから長粒種を輸入(import)している、そのせいではないか、という。インド人客が多く彼らの好みが長粒種なので、わざわざ取り寄せているらしい。日本の米不足時のタイ米騒ぎといい、食、特に味覚は本当に保守的だ。しかしこうしたことは、理屈で解決できる事柄でもないのだが。

 この日10人近い研修生が同行して回ってくれ、食事も一緒だったのでベーニョや他の皆に色々質問してみる。コヒマは家が建て込んでいる区域も多いが、下水はどうなっているのか尋ねると、確かに大変な問題で、大小便は庭に穴を掘って埋めている、また4、5軒で共同便所を使用していることも多いという。一応下水のあるところもあるが、よくないとの話。

 上水については、コヒマの西のほうにさらに高い山があり、そこから水が来るので水には困らないと言っていた。ナガランドに入る際、コヒマは水が悪いのでペットボトルの用意をするように言われたが、地元の人の話では山の水だからいい水だという。野菜や米、肉は州内で自給できるが、玉子と魚はできないので他地域より輸入している。
(写真は、キレさん宅近くでみかけた老人)

 学校について聞いてみると、ベーニョは学校の数は多い、公立校も悪くない、私立校と公立校とで競争になっていると言っていた。

 またインパールからの道でビハール人を見かけた話をすると、ビハール、UP(ウッタルプラデシュ)、ベンガルなどから貧しい人々が大勢ナガランドに入ってきている、という。コヒマでも道行く人のほとんどはモンゴル系だが、時折インド系の顔を見かける。数年前 Far Eastern Economic Review でも、徐々にインド化するナガランドの特集記事が載っていた。ナガ族の共通語はナガミーというらしいが、事実上通用していないようで、英語が共通語だと言っていた。研修生同士でも部族が違うと英語で話している。カルカッタのナガランド観光局に務める研修生も、共通語は英語だと言っていた。

 コヒマには桜が多い。それで元青年協力隊員がこの桜を利用して豚のソーセージ等薫製を作るといいのではないか、と提案したが、はたしてこの夜のパーティーでネザレ氏が桜で薫製にしたソーセージを持ってきた。キレさんの家には、トマトツリーというプルーンのような形の黄色やオレンジ色の実のなる木があった。食べると確かにトマトの味がする。農家の人達は「ナス科の葉だな。いろいろ面白い植物が世の中にはあるんだな」と感心して見ていた。この低木はコヒマに多いようで、その後もあちこちで見かけた。

コヒマの子供たち1

 昼食後、市場見学に行く。市場は旧市街にあり、アーケード下の露店用スペースとその奥の店舗用スペースとで構成されている。薄暗いアーケードの下では行商人だか農民だかが大勢、野菜、肉類から例のタニシ、蜂や蜂の子などの食料品を売っている。しかしここの蜂はスズメ蜂のように巨大で、日本のようにかわいくない。店舗部分には衣料品店や時計屋、カメラ屋などが入っていて、一昔前のひなびた商店街を彷彿とさせる。

 3時半まで自由というので、本屋を探しに自由に街を歩き回ろうと行きかけると、研修生らに止められた。何かコヒマに来てからどこかピリピリした感じがあり、研修生たちも何かを非常に恐れていた。自由に歩き回ろうとすると止められ、その理由として「時間がない」と「危険だ」の2つをよく言われたた。何が危険なのかと聞くと、泥棒がいっぱいいるよ、と言う。しかしスリや泥棒くらいならデリーやカルカッタにもいっぱいいる、むしろあっちのほうが危ないくらいだ、でも自由に歩ける、と言うと "Our country is like a communist country."  それには long story がある、と一人が思い余ったように言った。察して欲しいという感じが伝わり、それ以上の言及は避けた。

コヒマの子供たち2

 旧コヒマの繁華街を警察や研修生らの目の届く範囲で見て回り、競技場に行く。現在このスタジアムでは、キリスト教布教125年祭(1997年)の準備が進められており、その一環として巨大なナガ族の家を建設中だった。天井まで6mくらい、屋根の棟までだと10数mはあり、長さも3〜40mはあろうかというもの、柱は竹で組まれ、壁も竹を編んだ筵、屋根も竹か笹系の葉で葺かれている。ベーニョは以前この競技場のそばで Japan Naga Hotel を経営していた。共同経営だったが管理がうまくゆかなくなり、相棒とトラブルになってコヒマを退いた、共同出資金も返してもらっていない、こういう話が多いんだ、とこぼしていた。

 この後戦没者慰霊墓地へ行く。この墓地はあの有名なコヒマの三叉路にある。三叉路高地をめぐってイギリス軍とウクルルから入った烈師団との間で激戦がかわされ、ついに日本軍はこれ以上先へ進めず敗退した。糧食も武器の補給もまったくない中奮闘を続け、何度も補給を要請してもまともに応えなかった上部の計画の杜撰さに怒った師団長が、これ以上死傷者を出すのは無駄だ、と上部の命令のないまま撤退を決めたのである。今ではこの師団長の判断は正しかった、ひどい作戦の中でベストを尽くした勇敢な人だったという評価がなされているようだ。それでも烈師団は1万1500名の戦死者を出したし、弓師団1万2500名、祭師団1万2300名という。インパール作戦は計画そのものが無謀で、さらに不必要だったという意見も本で読んだ。もとの計画では、コヒマからディマプール、さらにアッサムへと進軍する予定だったという。

 三叉路の上に広がる丘の上に、英軍の墓地と記念碑がある。日本側のものはない、というので「じゃあ下で三叉路の写真でも撮ろうかな」というと、従軍経験者らに「英軍だけと言っても日本軍と戦ったんだから、ちゃんと見ときなさいよ」と言われた。今では三叉路は白地に赤や青のストライプの入ったバスが行き交う、店の並ぶ一画になっている。この墓地の記念碑に刻まれた「When you go home, tell them we died for their tomorrow」の句は有名。


左二人目からジャミール、キキ、アトゥー、ネザレ、キラン、一人おいてアワン

 

英軍墓地にて

 4時を回ると急速に暗くなってくる。この後カトリック教会のカテドラルに寄った。日本側とイギリス側の戦友会がお金を出し合い、平和を願って建てたもので、キリスト教会にしたのはナガ族がクリスチャンだからだという。

 庭に日本語と英語による碑がある。また日本の桜も沢山植わっていた。コヒマのインド桜はあまり大きくならない種のようで大木を見かけなかったが、日本の桜は大きくなっていた。

 ここで引率の先生がこの教会の司教と会うことになった。これまでナガランドからの研修生は福音派経由でカトリックの人はいなかった。それでカトリックともコネクションを作るため、このカトリック教会の人との面会を頼んであったのだ。しかし階級制度の厳しいカトリックのこと、まさか教会トップの司教と直接会えるとは思っていなかったようで、これは珍しいことだ、と驚いていた。

 カテドラルは円形劇場のようなモダンな作りで、きらびやかなステンドグラス、極彩色の彫像が並ぶ。質素なプロテスタント教会を見慣れた目には、カトリックの階級制度も生身の血を流したキリストの磔像も、何となく違和感を覚える。

 暗くなった頃ホテルに戻り、7時より研修生との交歓会が始まる。このスタディーツアーのために学校を休んでマニプールからずっとつきあってくれたマシャンガンは、学校がテスト期間で忙しいそうで、明日からは学校に出るということで帰っていった。ベーニョも明日一行を招く準備があるので、交歓会には出席せずに帰った。知り合いの研修生のいない中での交歓会となったので、少々不安な中、会が始まった。

 最初はナガランド側と日本側とが分かれて向かいあって座り、何やらフォーマルな感じ。ナガランド側は手前に政府関係者5名が座り、後ろに研修生たちが控えている。一人一人紹介があり、政府側の人達が挨拶をする。ナガランドの農業省の次官ら上級職二人、Commisioner of Nagaland の肩書きの政治家らしい面構えの人(長官かと思ったが、研修生の話ではパーミッション担当のトップらしい)、肩書きは忘れたがパンジャビドレス姿の女性、この4人がモンゴル系で、最後に一人、やはり肩書きは忘れたがアーリア系の役人がいた。中央政府からのお目付役かとあとで研修生に聞くと「中央から来たインド人だ」と言っていた。

 最初に州政府関係者のあいさつがあり、農業省の人は、ナガランドは天然資源に恵まれているので知識と資本があれば開発、発展が可能だ、というようなことを述べた。この資本の話は他のときにも出て、外国からの資本導入が許可されればよいが、現在ナガランドにはカナダとの共同プロジェクトが一つあるだけで、デリーの許可が下りない、という話を聞いた。同室の牧師があるナガ人の通訳をしたとき、日本の作家が戦争の本を書くため取材に来た、その際印税で学校を建ててくれるという話だったが、あれはどうなったのか、という内容だった、という話をしてくれ「約束を守らないのもねえ」というので、この外国からの投資許可が下りにくい、外国人との接触も難しい、という話をしたら、「それだから送金したり援助したりできないのかもしれないわね。単純な約束不履行ではないのかもしれない」と言っていた。

 州政府関係者のあいさつが終わると、研修生らも前に出て色々プロジェクトの説明や意見を述べたりしたが、一人が「なんでナガランド州政府はたった48時間しか許可を出さないんだ、マニプールでは彼らはウクルルにも行った、タメンロンにも行った、コヒマのほうがあっちよりずっと安全ではないか、私はとても怒っている、もっと研修生のプロジェクトを見てもらいたいのに、だからナガランドは発展できないんだ、もっと外国人に許可を出して欲しい」と元気よく言った。コミッショナーとアーリア高官の前でまずいんじゃないかと思ったが、後で研修生にきくと「あのくらい大丈夫だ、逆にこういう場でないと言えない」と言っていた。その後で話した別の研修生はもっと抑えて、許可を出したり尽力してくれた政府関係者に感謝します、と優等生的に話した。

 この後研修生の持ち寄った料理で夕食会。いつものメニュー、プラス例の蜂の子と”スズメ蜂”の炒めもの、粟をふかしたもの、そしてネザレ氏がアジア学院の研修で学んだ技術で作った桜の薫製ソーセージがあった。一行の年寄り連は蜂の子を「昔よく食べたな」と平気で食べており、若い子達は研修生から「私たちも日本でがんばって刺身食べたんだ、だからあなた方もトライしてみてくれ」と言われ思い切って食べることに。蜂の子は芋のような味と食感、親蜂のほうはエビのようにカリカリしている。この中で一番高い料理だそうで、研修生達は大量にとっていた。アーリア高官はやはり顔をしかめて取らなかった。

 ところでこのアーリア高官の立ち居振る舞いは、ナガ人と日本人の中で一人際だっていた。インドの大学出かイギリス留学組かわからないが、背筋をピシっと伸ばして美しいナイフとフォークさばきで食事をする。細身の体型というのもあって、背広姿もさまになり、立ち上がった際背広の襟に手をやりシャン、とさせる姿もスマートに決まる。一方ナガの政府高官は、体つきからも仕草からも日本のオヤジそっくりで、特に農業省の人達は人も良さそうで親しみやすい。ホワイトカラーあがりの役人と、今回ナガ側も日本側も農業関連の人が多いのでその差もあるとは思うが、どうもモンゴロイドの方が見た目も庶民的だよなあ、とついつい感じてしまう。独立直後のインド政府は、辺境の地にこそ優秀な役人を派遣していたというが、今ではどうなのだろうか。

 ネザレ氏のソーセージもよくできていた。粟もネザレ氏が持ってきたもので、高黍も栽培しているという。粟は普段は蒸してカレー味で食べるそうで、粟で作ったお酒もあるそうだ。彼の地域では粟をchuibe、高黍を putse と呼んでいる。


アンガミナガの丘にいた犬

写真:最初のコヒマ遠景、NGOの少女たち、ティソ氏の傾斜地農園、花写真、コヒマの子供達1と2インパール盆地は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.