東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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3.ナガランド州


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ビスウェマコヒマディマプール

3.3 ディマプール

11月15日(土)

 この日も6時半出発で、連日朝早く夜遅い日が続く。朝、マシャンガンを含め多くの人が見送りに来てくれ、バスでコヒマからディマプールへ向かう。研修生が5、6人同乗して案内につとめる。

 コヒマの街を車窓から見ていると、結構パラボラアンテナが目についた。民博の知人は、こういうところの方が物理的なインフラの整っていない分、この手のものが逆に浸透しやすい、と言っていた。また10年前、カルカッタによくあった Thumbs Up の広告を、今回コヒマでよく見かけた。かつてインドは一応社会主義国で、外国から資本をほとんど入れず輸入も制限しており、国産を前提としていた時代があった。そのためコカコーラやペプシがなく、代わりに地元資本によるコーラもどきのThumbs Up が売られていた。それが1997年夏のラダック旅行や今回の旅行でインドを久しぶりに訪れた際、デリーやカルカッタで Thumbs Up をまったく見かけなくなり、コカコーラとペプシが氾濫していた。それでコヒマでThumbs Up の看板を見かけたときには妙に懐かしかった。しかし、日本でも地方へゆくと民家の壁に古い看板がまだ残っているのと同じで、看板だけで実際はもう売られていない可能性もある。あまり街を歩き回れず、Thumbs Up が売られているのを見ているわけではないのでわからない。

(右写真:ディマプールへの道)
 バスではキラン氏と隣になった。彼はディマプールの200キロ先、モコクチュンで農業共同組合長を務めており、養豚を経営している。皆に来てもらいたかったのに許可が出ず残念だった、と言っていた。コヒマを見る分には、人々の生活がそう極端に貧しい感じはないが(勿論そう豊かというのでもない)、彼はナガの農村は貧しいという。マニプールでもコヒマでも物乞いはまったく見かけなかった。ラダックでもそうだったが、インドのモンゴル系の住む地域は物乞いプレッシャーがなく、極端な値段交渉もないので居心地がいい。その一方で周囲を圧倒する華麗な大宮殿も寺院もなく(ラダックの寺院もそこそこの規模で回りと調和している)、皆おしなべて日本の戦前あたりのレベルで生活している感じだ。ナガの農村は専業が多いのか尋ねると、小さい店をやったりオフィスで働いたり賃労働に出たりして何とかやっているという。

 またナガの政治は腐敗している、選挙制だがナガ人は so simple people なので物をもらえばそれで投票してしまうんだ、との話(それは日本もIOCも同じ)。ナガ人は良くも悪くも simple people だという表現は他の研修生からもよく聞き、その人なつこい感じは、個人的に知人の多い台湾人のノリ(開放的で friendly な感じ、さらに親日的というのも似ている)に通じるものもあって、戦友会の人たちが思い入れを深くするのもわかる気がした。

 インドには所得税と消費税があるが、ナガランドは貧しい州なので所得税を免除されている。またナガランドには中央政府から助成金が下りるが、有効に使われておらず州政府を腐敗させるだけだ、という。

 バスの車窓からは水牛や牛に耕作させている風景が目に入り、また稲の手植えや棚田など、記録映画で見る2〜30年前の日本のようだ。そうした話をすると、彼は私の話し方に敏感に感傷を感じとったようで、「でもそれは just a dream だ」と言ったので、鋭いなと思った。

 バスはコヒマから徐々に下って行く。ディマプールは標高200mなので1300m下りることになる。ところどころ棚田や村があり、植生もシダ系の植物は見あたらず、幹や枝がしっかりある広葉樹が多くて日本の山道のようだ。途中トイレ休憩で峠の村に停車した。この日も警察のジープがずっとついてきており、休憩中に近づいてもニコリともせず話かけてもこない。一行の男性が村人と話そうとしたら、警官が下りてきてさえぎるようにして引き離された、外国人が地元の人とコンタクトを取るのをいやがっているみたいだ、と言っていた。ただ、警察や地元の軍隊は地元民が多いので、安心できるとの話も聞いた。この村の各家の入り口には木がアーチ型に渡してあり、蘭が咲いていた。花に詳しい同室の牧師が、マニプールやナガランドには蘭の原種がある、ここもきれいに咲かせているわね、と感激して写真にとっていた。この後訪ねたアッサムの村にも蘭が自生していた。

 ほぼ山を下りきったあたりの左手に小高い丘があり、キラン氏がその上の建物を指さして、あそこは車を停めて食事のできるところだ、と言った。後でTTK PHARMA 社発行の赤い表紙のインド州別地図を見ると、なるほどドライブインの印がついている。その少し先がガスパニのネザレ農場。国道から少し左へ入り、8時半頃到着。

 まず農場を見学する。このあたりは山裾にあたり、ゆるやかな傾斜のついた土地で、一枚半反ほどの大きさで田圃が続く。土地は西へゆくほど徐々に低くなっており、等高線沿いに畦や畑の畝立てがなされている。

 土地は田圃だけか全体だったかは聞き漏らしたが、16エーカー(約6町4反)あり、少しづつ買い集めたり借りたりして増やしているそうで、将来はもっと規模を大きくする予定だという。1エーカー2〜30000ルピーで購入しているようだ。ウクルルの山地で1エーカー3万円だったので、やはり平地のほうが高い。現在田圃はもちと長粒種の2品種を栽培している。

 稲は丁度実ったところで、一行の米農家の人が一見して「ひどいな、1ヘクタール1トンいかないぞ。1反300キロねえんじゃないか」という。ネザレ氏の話では全体で2トン、米農家のおじいさんは2町7反で17トン。今年はナガは不作なんだ、とネザレ氏。おじいさんは密植のしすぎだという。元青年協力隊員は、品種のせいもあるが、山に近く水が冷たく肥料も足りないから分株しない、だから密に植えて収量を増やすやり方だ、完全な平地ならもっと分株するはずでここでは仕方ないのでは、と言った。

 田圃の回りには池があって、魚の養殖をやっている。水ヘビにやられて困っているという。漁法は、ある木をすりつぶして池に入れると魚が浮かび上がってくる、それを採るやり方だそうだ。

 チーク材も植えており、チークはこのあたりからずっとアッサムの村々まで、いたる所でよく見かけた。非常に密に植えているが、これはまっすぐに伸ばすためで、大きくなったところで移植し、最終的には一抱えもある大木にする。チークは村の現金収入になる。薬草とバナナも栽培しており、これから冬にかけては麦をやり、菜たねの油採り作業が始まる。

 ネザレ氏は将来は牛もやりたいそうで、元指導員も「久しぶりに大規模にやっているのを見たなあ。今までのはチョコチョコと家庭菜園じみてたからなあ」と言い、米農家のおじいさんもここは本格的にやってる、とその点感心していた。(右写真は農場を世話するネパール人たちの家)

 三菱と合弁のインド製トラクターが1台あり、脱穀は足踏み式。専業に20人のネパール系の人々を1日50ルピーで雇っており、彼らは農場の回りに住んでいる。今までのプロジェクトのように地元農村社会に対して何か指導したり還元したりするためというよりも、純粋にワーカーとして雇っている。彼の将来的な希望は、ここをアジア学院のような研修センターにすることなのだ。まだ農場からは収益をあげられず、大学の売店で働きながら生計をたてている。これを見た同室の牧師は、「ネザレさんはやり手ね、あの大学のお店見てそう思った、彼ならきっとやるわ」と言っていた。

 ここで朝食。カレーやサラダとともに蜂の子と親蜂炒め、さらに Oak leave worm という輪のくびれの沢山ついた細長い幼虫の炒めものもあった。これは香ばしくてまあおいしいと言える。小さいポップコーンもあり、これが高黍を煎ったもの。ここでは栽培風景を見られなかったが、この後バスから高黍が実っているのを見かけた。ネザレ氏が加工したバナナチップフライもあり、これは日本で売っている物に同じ。

 この後ネザレ氏の働くPATKAIキリスト教大学(右写真)を訪問する。入り口にカーキ色の軍服姿の守衛だか兵士だかがいる。おじいさん達は彼の銃を一目見て「えらい旧式だな」と興味を持ち、寄っていった。人なつこい感じのアーリア系で、快く銃を見せてくれる。28連発式の小銃で、「バネも相当ゆるんどるな。あれでちゃんと的にあたんのかね」と従軍経験者ら。

 大学のキャンパスは広大で寮制になっており、日本と異なり人もまばら。中央に中庭のある形式の建物に通され、校長は所要で留守とのことでその下の人が応接してくれる。いつもどおりお互い挨拶があり、大学側の人が日本軍が来た話は両親からよく聞かされた、勤勉で規律正しい人々とのことでどんな人達だろうと思っていた、今日初めて見ることが出来た、という。

 ネザレ氏はもともと大学食堂の運営をまかされ、それをうまくやったので自分の店を持つまでになった。学生相手に日用雑貨や電話、コピー、写真のDPEサービスに加え、自分の農場で作った桜の薫製ソーセージやバナナチップも売っている。これが結構売れているようで、まだ若いのによくやっている。昭和初期の立身出世物語のようだ。

 お店の化粧品の中に、容器に日本語が印刷されているものを見つけた。Made in Japan だが聞いたことのない会社のもの。タイなどで日本語のついた製品、Tシャツが格好いいとされ、わけのわからない日本語Tシャツを見かけたりするから、その系統の商品かと思う。モンゴルのデパートでもこの手の日本語の印刷された製品が置かれていたが、平仮名、カタカナがどこかあか抜けない妙なレタリングなのが特徴で、どこか東南アジアか中国製品なのではないか。

 11時半頃大学を出てディマプールへ入り、町中を抜けて12時頃ベーニョ農場に到着。大きな農場で、入り口から家屋のあるところまで林の中を小道が通っている。その小道沿いに大勢村人が並び立ち、出迎えてくれた。このあたりはチャケサン(Chakhesang)ナガとアンガミナガが住んでいるそうで、ベーニョも出席している村人もチャケサンナガ。(垂れ幕のアヌゾはベーニョの一番下の息子)

 一人一人と握手しながら奥へ進んでゆくと、数軒家の建った中庭に出た。最後に白人が一人おり、近くの神学校に勤める南アフリカから来た先生だそうだ。

 中庭にはスタディーツアー歓迎の垂れ幕がかかり、テーブルの上に村人やベーニョの家族手作りの食事が並べられている。中庭の回りにも百人を下らない人数の村人が座っていた。

 ベーニョが家族を紹介してくれ、今9人の子供がいるという。アジア学院に来ていた頃は7人だったので、また2人増えている。ベーニョの上のお嬢さんでもう年頃の2人が、正装姿でバナナの発酵酒を勧めて回ってくれるが、2人ともおじさん顔のベーニョに似ずかわいい。ディマプールまで来ると、昼間はかなり暑く、一行も地元の人も皆半袖だった。

 そんな中、ベーニョの活動の紹介が始まった。現在彼は5ヘクタール(5町歩)の農場を経営している。この農場は Nagaland Young Farmers Association (青年団のようなものか)に属しており、彼がこのNYFAの団長を務めていて、現在3人の研修生を受け入れている。やはり将来的にはアジア学院のようにしてゆきたいと言っていた。

 またここから6マイルのところにある Oriental Leadership Training Center (OLTC) でも、年に2〜3カ月の短期コースで農村開発などの講座を教えている。教職はパートで、あくまで農場がメイン。ここの農場も本格的な規模で、農家の人達は感心していた。

 この後村の若者達によるチャケサンナガの踊りが披露された。赤白黒が基調の服装で、男性は頭に光背のようなものを付け、女性は背中に白い巻き貝を2つしょっている。20人程の若い男女がリズムをとりながら、息もあげずに飛び跳ね、夢中になって延々踊り続けるので、その体力に感心した。村人も皆大喜びで見物しており、やはり一種のお祭りなのだろう。新規就農して農村に移り住んだ知人も言っていたが、農村ではつきあう人も話題も限られてくるので、やはり外からお客が来ると別の風が吹き込み、沈滞ムードが活性化されるので、来てくれるだけで嬉しいという。

 昼食をご馳走になった後、農場を見学する。ディマプールは完全に平地で、農場の水田も広大に広がっていた。チークの苗も育てており、ネザレ氏もここから買っている。その他桑の木が植わり、小規模だが養蚕もやっていた。ただし棚ではなく束にして吊るした葉に蚕を這わせる方式。

 野菜も少し栽培しており、他に養魚池、牛一頭と豚10頭程を飼育する複合経営。豚は1カ月で1000ルピーになる。主な収入は農場よりも、針治療で得ている。彼はアジア学院の2度目の研修時に指圧と針治療を1年間学び、治療を施すようになった。初めは自宅で行っていたが、いろいろ危険なためブロック塀の外に小屋を建てて行うようにしたという。(ベーニョ−左から二人目の男性−とお嬢さん)

 インドの農村は日本の農村社会と異なり村人同士が危険、という話をよく聞く。日本ではむしろ農村の方がお互い知り合いで鍵をかけないが、以前カルカッタ郊外の村で地元NGOオフィスに滞在させてもらったときも、同様のことを言って、戸締まりは厳重にしていた。違う民族、違う宗教の人々が入り混じって住んでいることが原因として大きいようで、下手するとお隣さん同士でも、宗教、民族の違いから没交渉ということもあるという。ベーニョ農場の入り口にも犬に注意の札が掛かっていた。治療院ははやっているそうで、ベーニョは針でAIDSを直せるか、と聞かれたことがある、残念だが針では直せないと答えた、と言っていた。

 歓迎会も終わり、村人達は三々五々、それぞれの村へ畦道を伝って帰ってゆく。時間があったので少し彼らの後をついていってみた。黒いこうもりを日除けにさし、痩せた木の植わる畦道を一列になってもくもくと歩む姿は、どこかアナクロっぽくユーモラス。小さい貯水池、田畑、林の交互に現れる中、ところどころに家があったり、畦道が枝分かれしていて、次第に人数が減って行く。土地に多少起伏があるのと林があるせいで、道の行く先をみはるかすことは出来なかった。



 途中サリー姿のベンガル系と思われる一家が住んでいた。彼らはこの歓迎会とは無関係らしく、元から家にいる。その庭の隅に土で作った簡単な炉があったので興味を示すと、若奥さんが壷を上に乗せてみせ、使い方を示してくれた。雨季はどうなるのだろうと思ったが、ちゃんと屋内にもあるのだろう。

 1時半、ジャミール氏の務める Oriental Theological Seminary (OTS) (東洋神学校)へ向けて出発。このとき、それまでずっとついて来た警察の車がいなくなっていた。ディマプールまで送れば任務完了だったのだろうか。

 OTSは先程の南アフリカ人の教えている学校でもある。この訪問はもともと予定になかったのだが、2〜30分で着く、との話だったので実現した。ところが、行けども行けどもなかなか到着せず、1時間半かかって3時頃やっとバデ(Bade)にあるOTSに到着した。今回の旅行のこうした距離の過小申告による旅程の遅延は、引率の先生を大いに悩ませた。おじいさん達からは「もう先生のいうことは信用しない」と言われるし、事情のわかってきた人達は「ナガランドやマニプールの20分は1時間だな」と言っていた。

  幸い引率の先生は穏やかな人だったので、こうしたことやその他のトラブルにも、とげとげせずに落ちついて対処してくれたので、皆助かった。誰しも疲れてくると神経が苛立ってくるものなので。

 OTSまでの道は、潅木の広がる丘陵地帯を通過するかなりの悪路で、道路にあいた穴をさけてジグザグに走ったりするためスピードが出ない。途中廃屋になったレンガ家屋を時折見かけた。

 ある民家の軒下に若い男性が2人、迷彩服姿でピカピカのライフルを手に座っていた。インド正規軍ならカーキ色の制服だし、顔つきが不良少年じみた感じで、案の定キラン氏があれがundergroundsだ、という。鋭い目つきでバスを見ており、ふりかえるが警察の車はもういない。一瞬大丈夫かと思う。

 たまに畑が耕作されており、チークが一番多かった。他にバナナや野菜、そして高黍も見かけた。日本同様2m以上になり形も一緒だが、あまり赤くならないように見受けた。植生もシダ系を見かけるようになり、熱帯に近いものを感じる。たまに村があり、そこで見かける顔はアーリア系の顔が多い。この道にはマニプールやナガランドでよく見かけるローカルのミニバスも走っており、結構頻繁にすれ違う。

 OTSは5年前にナガランドの福音派教会によって設立された新しい学校で、荒野の中にポツンとある感じだ。寮制で、現在学生は28人。広さは82エーカー(約33町)、農場を5ヘクタール持っていてジャミールはそこの開発担当主任だ。

 さっそく農場を見学する。元指導員は学生は1日どのくらい農作業をするのかと尋ね、2時間ときいて「2時間だと管理しきれんでしょう」と言った。管理には専門の人を雇っているとの話だった。主作物は人参、トマト、唐辛子で、種袋があったので見てみるとアメリカ製Turnipと書かれていた。学生達も畑に出てきて人なつこく話しかけてくる。「土はここもよくないねえ、粘土質でね」しかしここでは土に炭をまぜて改良を試みていた。

OTS農場からの景色。このあたりはもうアッサムの光景だ

 時間がないのですぐに出発。学生の一人がディマプールへ出る用事があるそうで、同乗してくる。ローカルバスはどことどこを結んでいるのか聞いてみると、全然知らない様子で、9月に入った新入生でまだ回りのことがよくわからない、とはにかんだ。このあたりは平地のためか、自転車で移動している人も多い。アッサムでも自転車移動は多かった。もうあたりはすっかり夕方の光につつまれている。行きにundergroundsのいた軒下には、もう誰もいなかった。

 5時頃、ディマプールのトン牧師のレングマ(Rengma)バプテスト教会に到着。ディマプールの研修生や教会員たちが食事を用意して待ってくれていたのだが、本来ならこれは昼食のはずだった。

 800人のメンバーのいる教会で、合同礼拝等いろいろ準備をして待ってくれていたそうだが、ナガランド滞在を許されるのは48時間、結局礼拝をしている時間的余裕がなく、トン牧師も残念そうだった。とにかく食事をどうぞ、ということで中に入り大勢の教会員に見守られながら食事。皆さすがに疲れていてあまり話をする気力もなく、ひたすら食べる。

 慌ただしい夕食の後、すぐにバスに乗った。最後にバスの中でトン牧師が賛美歌(洋楽)をプリントして配り、皆で歌って別れた。かなり規模の大きい教会のようだったが、暗くてよく見えなかったのが残念だった。トン牧師はこの教会での活動だけでなく、農村各地の教会を回って、学院で学んだ養豚や石鹸作りの指導を行っているという。

 6時少し前に出発。ここでナガランドの研修生たちともお別れし、アッサム州へと向かった。


ディマプールの夕暮れ

 ナガランドでは、数人の若者を伴った初老の男性が一行を相手に演説を始め、「1950年以降独立運動で25万人のナガ人が死んでいる、ナガ人は4年しか教育を受けられない、我々は独立運動に携わっている者で、若者を教育するため日本に送ろうとしているが財政的な困難からそれができないでいる、外国人とのコンタクトを禁止されているのだ」とドネーションを求める用紙を配る一幕があった。

 また一行のおもに若者を対象に、若い男女が住所を聞いて回るのも見た。私にも「ナガと日本人は同じモンゴロイド、友達」と住所を聞いてきたので、不完全な住所を教えたが、一人の日本人が「Later」と断わるとその女性はいったん建物の陰に引っ込み、別の男性からメモを指さされつつ何か指示を受けている。彼女はもう一度断った日本人のところへ行き、その人はしつこさに観念したのか住所を書いていた。何となく気になって、研修生はいいけど素性のわからない人にはウソの住所のほうがいいんじゃないか、というと「そっかー。でもみんなやたら簡単に住所聞いてきますよねー」と言っていた。

 コヒマのアショカホテルでは、ある男性の部屋に銃弾の痕が残っていた。政府の車両がパンクしたのを、反政府活動家によるものと判断した治安部隊による一斉掃射があり、そのときのものだ、という話だった。死傷者もかなり出たようだ。

 Undergrounds の話は、全体像が掴みにくく曖昧模糊としている。ある人は、コヒマではしょっ中いきなり撃ち合いがある、どちらがどちら側か見分けがつかずとても恐い、という。別の人は今ではそういう人達はインパールに移っており、むしろコヒマのほうが安全なんだ、という。何もすることのない若者がそういうところに取り込まれてゆく、失業が問題なんだ、という人もいる。麻薬ルートになっており、その関連組織は利益があるから手をひきたがるわけがない、という人もいる。外国がバックについている、という話もあり、中国人通訳を伴う独立運動系 undergrounds の話は言わずもがなだろう。何度も戦友会とともにコヒマに入っているガイドは、コヒマはとても危険だ、今回 undergrounds 同士の抗争による死体を見なかったのはとてもラッキーだった、という。彼は何度も見た、undergrounds は部族間、反政府、いろいろあり一筋縄では行かない、興味を持ったり調べたりしてはいけない、そうすると向こうから近づいてくる、そして取り込まれてしまう、コヒマの若者達はそうして取り込まれていくんだ、と言っていた。一方ガイドのこの話に、アーリア系の人はコヒマを必要以上に悪く言う、そんなに危険じゃない、と怒る人もいた。

写真:チャケサンナガの少女達は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.