12時発カルカッタ行きは満席に近い。2時にカルカッタに到着、まず宿となるバプテスト教会の宿泊施設へ向かう。マザーテレサのマザーハウス(右写真)の1ブロック南にあり、ここもキリスト教関係者でないと宿泊できない。インド人マダムがスマートに歓迎してくれ、一人一人宿帳と警察向けレジスターとに名前、住所、パスポート番号等々を記入する。
今までインドの安宿に泊まった際、警察向けレジスターに記入した記憶がないので「そんなことするものなの」と言うと、農大の先生は「基本的にインドは公安が厳しいんだよね。外国人は出入国をちゃんとチェックしてるよ」という。通常はホテル宿泊者のレジスターはホテル側で一括してやっているらしい。彼が30年前にインドに来た頃は家族にも公安の尾行がついたそうだ。
今回の旅行で、インドの警察(特に公安)に対する認識が変わった。それまでは、インドは中国等とは異なり、開かれた、自由な、どこかaboutな国と考えていたが、どうやらそうではないらしい。民博の知人の話でも、インド政府はインド関連の人文系論文について、英語だけでなく各国語で書かれたものについてもきちんとチェックを入れている、政府に不利な内容と判断すると以降ビザを出さなくなる、と言っていた。ある研究者がビザが下りないと聞き理由を調べたところ、ある雑誌に載せた論文が原因とわかり、日本語の雑誌なのにと驚いたそうだ。
中国や軍事政権時代の韓国等では、旅行中公安の影を感じたり直接顔を合わせることもけっこうある(あった)ようだが(わざと威圧の意味もあるのだろう)、インドの場合どうでもいいヒッピー等は一見放っておき、必要と判断する場合ひそかに見張っている感じがある。ところで10年前にはとても恐かった中国の公安は、知人の話では、今では威を借りて金儲けに走るイメージのが強いようで、それを揶揄した”公安”Tシャツが売られている、という。笑えるというか、時代も変わったというか。
宿の部屋はドミトリー形式、二人のオーストリア人とドイツの医者と相部屋になったおじいさん達は「困るよー、言葉出来ないし」と文句を言っていたが、翌日になると「4人でずっと日本語喋っていて向こうのが小さくなっていた、うるさかったろうなあ」ハッハッと笑っていた。
5時半まで自由というので、カルカッタの街をざっと回ってみることにした。カルカッタは人口1200万人、3分の2をベンガル人が占めており、1976年以降難民の流入で人口が急増した。物価が安く住み易い、と地元の人はいう。カルカッタには10年前、マザーテレサの施設でボランティアをするために数カ月滞在していたことがある。その頃と比べどう変わったのか興味があった。
街に出てまず驚くのは、通りがきれいになったことだ。かつてはマザーハウスの近くにも大通り沿いに路上生活者が沢山いたのが、今はほとんどいない。大通りは車で溢れ、牛車もリキシャもいなくなり、歩道を行き交う人々も足早だ。とても座ったり寝そべったりできる雰囲気ではなくなってきている。
パークストリートそばの宿から毎朝、マザーハウスに礼拝に通い、さらに数ブロック先のシシュパファン(孤児院)に通った裏道を歩いてみる。とたんに懐かしい生活感溢れる街のにおいが漂ってくるが、それにしても何だかきれい。かつては泥道だった裏通りもすっかり舗装され、あのほこりっぽさがウソのように消えている。
あちこちに人丈くらいに積み上がったゴミの山も少なくなり、そこからまだ使えるビニールや紙袋を仕分ける人も、その脇で口を動かして寝そべっていた白牛もいない。往来のど真ん中に平気で寝ていた犬どももほとんど見かけず、それどころかこんな路地裏にまで車が入り込んでくる。そして外人と見ればまとわりつく薄汚れた子供達も乞食もいなくなっていた。
あの当時は街を歩くのに、パイサ、パイサ、とまとわりつく人々をかき分け、摺ろう/たかろう/ぼろうと寄ってくる連中を振り払う気構えが必要だったのだが、今はふと気が付くと考えごとをしながら、東京の街を歩くような緊張感のなさで歩いていた。
これではいけない、と気を引き締めようにも、もうその必要性を感じない。街の人々からギラギラした表情が消え、穏やかだが忙しげになった。当時は仕事にあぶれ何かを探して街を回遊している感じの人が多かったが、今回は街行く人皆目的を持って移動しているようすで、他人にあまり興味を示さない。その分、街行く人々をのどかに眺めて過ごす、ゆっくりとした時間の流れもなくなってきているようだった。(写真はよく利用したRippon St.の中華料理屋−黄色い家)
丁度4時から5時くらいの時間帯、Ripponストリートは買い物に行く人、勤め帰りの人が行き交い、東京の夕方の商店街と似た雰囲気だ。頭上には Windows 95 やDOSの講習会の広告がはためく(右写真)。道端のあちらこちらにある共同井戸で、豚の胴体そのままの形をした革袋に水を詰める人を見かけるのが、多少従来のイメージどおりのインドを感じる。
市電通りと交わる四つ角に赤白緑のシンボル色をあしらった演台が設けられ、国民会議派の集会準備が進められていた。カルカッタ名物の政治集会はいまだ健在らしく、故インディラ・ガンジー女史の誕生日だという。
フリースクールストリートに出るとその変貌ぶりに驚いた。かつてはリキシャワーラーのたむろう、さびれたほこりっぽい通りだったのが、何だか六本木の防衛庁通りに裏道から出てきたような感じだ。白亜のタイル張りのブティック、前面ガラス張りで落ちついた照明の紳士服の店、家電店の明るいショーウィンドウ、派手な店構えの中華レストラン、丁度ネオンの入る時間にさしかかったこともあって、通り全体が華いでいる。
中華料理屋はこの一画だけで3軒も営業しており、この後もカルカッタのあちこちで見かけた。中印国境紛争の頃だいぶ中国人が街を出ていった、残った人々も目立つのを避けて明確な中華街を作らないようにした(ただし実はここが中華街、という場所はあった)、と10年前に聞いていたので、堂々とした営業ぶりに驚いた。あとでガイドに聞いた話では、今インド人の間で中華料理はヘルシー、と人気があるそうだ。パークストリートとの交差点近くに数台のリキシャがいた。リキシャはこの年の夏(1997年)廃止になったと聞いていたが、まだ裏通りに生き残っている。乗っているのは大抵地元の人で、子供の学校の送り迎えも多い。外人相手にしつこく声をかけることももうあまりないようだ。またかつてはカルカッタでは見かけなかった、自転車リキシャやタクタクも登場している。
さて、この交差点に信号機と横断歩道がついているのにまずびっくり。交通量が増え車のスピードも増し、車の合間をぬって向こう側へ渡る、なんてことはもうできそうにない。甲州街道でそれをやると危険なのと同じで、完全に東京と同じ車優先社会になりつつある。中にはまだやっているインド人もいるのだが、なかなかタイミングをつかめず上下両車線の間で立ち往生しているのを何度か見かけた。この交差点の角に、欧米系ボランティアの人達とよく通ったflury'sという喫茶店があるのだが、その店はいまだ健在、さらにおしゃれに改装されていた。
パークストリートに並ぶ店も、店構え、照明、レイアウト等先進国の普通の都市とあまり変わらなくなった。フリースクールストリートにしてもそうだが、巨大な石造ビルはどこも昔のままなのだが、1階の店舗部だけ改装して今風になっている。家電店、特にコンピュータ関連のショーウィンドウ前には若者や子供が群がっていた。子供は制服姿の学校帰りから、洗いざらしのシャツとズボン、裸足の子まで様々入り混じり、身じろぎもせずに見入っている。町中の小さな電気屋でも、コンピュータの前に子供やおじさん連中が群がっていたのを目にした。だいぶ前にシリコンバレーはインド人と中国人だらけと耳にし、数年前にインドのシリコンバレー、バンガロールの噂を聞いたが、この熱気を見ると電脳分野ではますますインド系が強くなりそうだ。(右上写真は、パークストリートのFlury'sカフェのある交差点)
チョーロンギー通り(右写真)に出たところで、缶に入ったお金をチャリチャリ鳴らしながら、杖を引いて歩くお婆さんを見かけた。今回の旅行で初めて目にした物もらいだが、全然しつこくなく、缶を鳴らしながら時おり人の前にさし出すだけだ。手を掴んだり服を握ったまま離さない、というかつてのすさまじい生命力は、都会化されるにつれ反比例して減少してゆくかのようだ。宿だったYWCAの脇にいつも座っていた路上生活者一家や、フリースクールストリートから脇に入った通りをスケートボードのような手作り台車に乗って移動していた足の萎えた人(彼は欧米人を見かけるとズボンやスカートの裾を握って施すまで離さなかった)、Rippon通りでくる病に罹った体をさらしていた男性等々は本当にどこへ行ったのだろう。不思議になる程見かけない。
安宿街で有名なサダルストリートまで来た。ここもまたきれいになっていて愕然となった。勿論、サルベーションアーミーその他廉価な宿群は健在だが、全体的にほこりやゴミがほとんどなく、つるっとした感じで、宿群の向かいには小さいオシャレな店が沢山出現していた。どうやら外国人が集まるので彼ら向けの店ができ、それを目当てに地元の若者達が集まりさらに若者向けの店も増え、という感じのようで、何やらベースキャンプそばの街のイメージ。こうした店も、建物は元のままだが、内装が今風になっている。雨季は水没するというサダルストリートのすごさは、その時期にはいまだ健在なのかもしれないが、それにしても10年前とはすっかり変わった。
だいぶ暗くなってきたので宿へ戻る。先の国民会議派の集会は、椅子席は人々で埋め尽くされ、周囲にも大勢人が立っていた。
宿に戻り、カルカッタの街がすっかりきれいになった、と同室の人達に興奮気味に話すと、皆「これで?」といぶかしげ。「比較するものがないから」、とやはり初めての人にはそれなりのところに見えるらしい。前にカルカッタに来た頃は、インドに来る際いきなりカルカッタから入るとショックが大きいのでデリーから入ることを薦める、と書かれたガイドブックもあったくらいで、ボランティアに来ていたアジアは初めてというマルタ島出身のおばさんは、カルカッタの状況に衝撃を受けて毎日涙が止まらないようすだった。精神的にも不安定になり、2週間後、ここは人も多すぎる、空気も汚い、子供達の住むオーストラリアへ静養に旅立っていった。
ミルクスタンド。1987年当時は随分お世話になった
5時半すぎにバスでシェークスピアサラニにある中華料理屋へゆく。カルカッタの研修生達が夕食会を開いてくれたのだ。シェークスピアサラニは官庁街の一画、ブルックボンド本社やナガランドハウスもある。高級レストランのしかもレセプションルームを用意してくれていた。
中心になっているチャコ氏は、ルーテル派の社会奉仕事業、Lutheran World Service(LWS)で働いている。LWSは24年の歴史のあるNGOで大規模なプロジェクトを行っており、翌日その1つを訪問したが、もはや欧米のNGOにもひけをとらない感じだった。都市と農村で開発事業を行っていて、飲料水確保のプロジェクトでは6000本以上井戸を掘ったりしている。彼は天災や暴動による難民の救援部門のチーフで、約250人の部下がいる。本当にアジア学院を誇りに思っている、あそこで学んだことが活動を続けるエネルギーになっている、と熱く語っていた。
まだ坊ちゃんのような感じのビスワル氏はチャコ氏の後輩、同じくLWSで洪水対策事業に携わっている。ディネスムルム氏は無口な人だったが、アジア学院の前身鶴川学院時代の卒業生と一緒にビハール州でサンタル人を対象にした農村開発プロジェクトを行っていた。
ジャヤスリさんは、政府のオフィスで働く3児の母親で、フレンドリーな肝っ玉母さん、という感じだ。下の子2人を連れてきており、食事のとき好きな科目は、と聞いてみると10歳くらいの女の子が即座に arithmatic、頭よさそうーと思う。末の男の子はシャイな感じで喋らない。女の子は何にでも興味がある感じで皆をキョロキョロ観察しており、眼があうとすてきに笑う。
アジャノさんはナガランド出身のナガ族で、現在カルカッタのナガランド州政府観光局に勤めている。今回の入境許可証取得でも奔走してくれた。
彼らは、このスタディーツアーのおかげでお互いの消息がわかった、と喜んでいた。誰それがこんな近くに住んでいるなんて知らなかった、とか、ナガランドの研修生がカルカッタに来てたなんて、とお互い騒いでいた。皆普段は忙しいこともあるし、年度が異なると直接の知り合いではないのでよけい情報が入りにくいらしい。
市内でよくみかける祠
この日さらにチャコ氏の知り合いの日本人青年も来ていた。彼はアッサムの語学学校で日本語を教えており、インド在住2年になるという。なかなか話が面白く、彼曰くインド人はとんでもなく図々しいことを要求してくる人がいるかと思えば、それではと対策に袖の下を使い始めると妙に哲学的な人がいて、馬鹿にするな、と逆に怒ってしまったりで難しい、という。また自己主張の激しい人達で、けんかしているのかなと思うとただその場で一方的に主張しているだけで、普段は仲が良かったりする、でも総じてがさつな人が多いかもしれない、との感想。日本人的に心情を思いやり、何も言わなくてもわかりあう、みたいなことがないようで、この感想には実感がこもっていた。
10年前共産党政権だった西ベンガル州の現況を聞いてみると「今でも、もう20年以上そう。それで発展しない、という話もある」また「インドでは車で人をひいた場合、運転手は100%逃げる、でないと回りから人が出てきて袋叩きになり殺されることもあるから」。普段は皆穏和だが、そうやって何かあると一気に爆発する、「何か鬱屈したものがあるんでしょうね」。
このあたり、古い社会で一旦暴動が起きると歯止めが効かなくなる状況の遠因の一つではないか、という気がする。暴動もルサンチマンのはけ口として定期的に必要となっている感じだ。現代の立身出世型競争社会は、それはそれで疲れるが、人間の攻撃性を競争に転化して弱めている側面もあると思う。
visaの切れたまま不法滞在している日本人の話になり(10年前の安宿街にもいっぱいいた)、「visaが切れちゃって、て相談されて2、3日かと思って罰金払えば済むんじゃないの、て言ったら1年以上、て言うんですよね。3日間牢屋に入って強制送還でした。これやっちゃうと記録に残っちゃって、もうvisa下りないんですよ。二度と来ないつもりならいいだろうけど」
そのうちアッサムで花卉をやれないか考えている、とも言っていた。日本の商社がアッサムに入ってきていて、野菜を作らせて日本に輸出できないか計画しているらしい。回りに日本人のほとんどいない中で何年も暮らすのは大変でもあるようだった。