東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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3.ナガランド州


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ビスウェマコヒマディマプール

3.ナガランド州

 ナガランドはもともとアッサム州の一部だった。しかしナガの人達の独立運動が激しく一時期内乱状態となり、インド政府は軍隊を出動させたが双方ともに損害が大きかったため、1963年ついに独立州として分離されることになった。気温は夏は30℃くらいになるが、冬は最低4℃くらいの高地。

3.1 ビスウェマ

 ビスウェマに4時過に到着。キキさんはここでプロジェクトを行っている。まず地元の集会場にて村の人達による歓迎会があった。ビスウェマも山上の町で、道が細くてバスが入れないため集会場まで歩く。急斜面にぎっしり家が立ち並び、上下左右に広がっていてかなり戸数が多そうだ。斜面は石積みで抑えている。会場前の広場に大きな板碑が立っており、なんと日本語の碑で、インパール作戦戦友会とテレビ東京の共同のもの。1990年代初頭の年号が入っている。

 4時半にはかなり暗くなってきたので、会場に入る。集会場は小学校の体育館ほどの大きさでぎっしり村人が座っており、入りきれない人達が脇にいくつも開いた出入口に群がっている。発酵した臭いがあたりを充満し鼻につく。私達は壇上にあがるように言われ、毎度分不相応な大歓迎ぶりに、過大評価されているような妙な気分だ。さっそくrice beer (どぶろく)と塩味の豆類のおつまみがふるまわれ、発酵した臭いの原因はライスビールと判明。ライスビールは甘酸っぱくて結構いける味。

 キキさんの司会で、交流会が始まった。ナガ側の挨拶、スタディーツアー側の挨拶や学校の解説、一行の紹介、と続く。ナガの長老が立ち上がり、日本軍が50年前に来た、彼らは規律正しく感心なことに私たちに対して何一つ悪いことをしなかった、それ以来日本人を見たことがなかった、数年前久しぶりに日本人が来た、こうしてあなた方日本人に50年ぶりにまた会った、と言い、やはりいきなり話を終えた。彼らがこうした日本軍の印象を語るのは、一種のリップサービスもあるのかといつも気になった。韓国や中国を何度か訪れたことがあるが、リップサービスで日本軍の良い印象を語ることはまず考えられない。ということは、やはり本当に印象が良いのだろうか。1954年、戦後日本人として初めてこの地に単身調査に入った中根千枝女史は、ウクルルで彼女が日本人だと知ったタンクルナガの人達が、恐怖と憎しみと懐かしさの交錯した異様な声をあげるのを聞いた。彼女は、自分が男だったら殺されたかもしれない、と一瞬感じたという。

  一方、コヒマでは、地元の青年から「日本の兵隊は実に勇敢だった。軍律が厳しく、英印軍と異なり、私たちの婦女子に決して悪いことをしなかった。負けたとはいえ、あの勇敢さと軍律の厳しさを今でも尊敬している」と聞き、救われる思いがしたという。1954年といえば日本がまだ戦後復興していない時期、援助への期待もない頃だ。長老達の話は、語られない幾多の思いを背後に隠したまま、それはそれで真実なのだろう。基本的に現地の人々との戦争ではなく、植民地政権との戦いだったことも大きいかもしれない。

 会場から次々に手が挙がり、前へ来てはしゃべり出す。一人が「日本人とナガは同じモンゴロイド、日本が発展しているのを見てナガも参考にして発展しなければ」等々言う。この手の話は研修生からもよく聞く。別の人は軍票を持ってきた。まっさらで非常に保存状態がいい。一行の年配者は「ああ軍票だ、こんなきれいなやつがまだ残ってるのか」と感心し、一人がこの場で買う、と言い出した。しかし後から後から出てきた場合のことを考え、回りが止めた。ナガの人達の話はキキさんがきれいに英語に訳し、それを引率の先生がまた手早く日本語に訳して行く。キキさんはテキパキした感じの女性で、訳しながらわかりにくい点をすばやく聞き返し、ああ、という感じでまた訳してゆく様子など、いかにも有能で仕事が出来るキャリアウーマン、という感じだ。引率の先生も毎度毎度こうした場面で研修生や村人の話を丁寧に訳してくれた。

 最後にキキさんが戦友会の人を指名し、彼が立ち上がって挨拶をする。数年前東京のテレビクルーと皆さんのところへおじゃまして、あの戦争のことをテレビカメラに納めることができた、あれがインパール作戦の唯一の記録フィルムだ、皆さんのご協力を感謝している、あの戦争では我々はインド独立の志に燃えて戦っていた、こうして軍票を見るにつけ皆さんにお答えしなければと思う、保障はインドと中国は対日を放棄しているので法律的には各国政府が保障すべきものになる、われわれ戦友会としても少しずつお金を出しあって皆さんのお役に立つようにしている、私にはナガランドにたくさんの”子供(foster children)”がいる(というと会場から一人の男性が嬉しそうに手を挙げて振った)、ナガの優秀な青年にぜひ日本で学んでもらいたい、と話した。彼は日本にいるときに研修生を自宅に招くなど、全員と顔見知りのようで、彼らからも「日本のお父さん」と慕われていた。このビスウェマでの歓迎会だけでなく、パンメイ氏の公邸その他の歓迎会でも、学院の引率の先生とともに一行の代表として研修生が指名し、彼もそれに応えて挨拶することが多かった。ちなみにタメンロンには彼の名のついた幼稚園がある。研修生の一人が、頼まれたわけでもないのにいつのまにか建てていたのだ。

 この後、黄色い民族衣装姿の男性が一弦琴を手に歌を歌った。キキさんの解説では、歌詞の内容は、イギリス軍が来て不当にこの地を治めた、そこへ日本軍が来て戦いが始まった、私たちはこの地を離れたくなかったが離れざるをえなかった、というもの。長調でも短調でもなく、哀調を帯びた不思議な旋律で、妙に説得力のある歌だった。これを聞いたとき、これがナガの人々の本音なのだろうと感じた。19世紀以降、外部からの強い勢力に意志に反して翻弄され続ける悲哀を、直接的な言葉では語らぬまま歌っていた。日本軍が悲惨な撤退を開始する頃にはナガの人達にとっても食料がなくなってしまっていた話、また幾千の遺体が放置された後コレラが蔓延し、子供達を失い狂ってしまったナガの老女の姿を、中根千枝女史は敗戦10年後に聞き取り、また目撃している。

 1950年代、60年代のナガに関する解説を見ると、必ず未開民族と書かれている。しかし、先の長老や村長達にしてもそうだが、イギリスや日本軍のことを脇からけっこう的確、シビアに見ていたように思う。見た目ははだし半裸(当時)の焼き畑山岳民族で、イギリス側にも日本軍にも彼らから観察されている意識はなかったと思うが。イギリスと日本との戦争も、日本に同情してはくれるものの、本当は彼らにとって望ましいものではなかったろう。(もちろんイギリスの支配も望ましくなかったろうが。)

 ところでこの歌手の男性は、集会の始まる前から重そうな民族衣装(背中にレビューの羽根ならぬ、放射状に組まれた槍の輪をしょっている)で一行を出迎えてくれたが、このときから静かなほほえみを浮かべ、はにかむような優しい笑顔で写真の要求等に応じていた。そのやさしげで優雅な様子から初め女性かと思ったくらいで、何か不思議な感じのする人だった。

 集会は終わり、隣の建物に移って食事をふるまわれた。本来ならばここで昼食のはずで、セナパティの食事は軽食、コヒマに3時につく予定でホテルで夕食のはずだったが、もう5時を回っている。こうした予定時間とのずれは、この後もついて回った。ビスウェマの人たちが本格的な料理を用意してくれていたので、ここでの食事を夕食とすることになる。メニューは同じく、ご飯、鶏や玉子のカレー、スープ、サラダ等々で、地元の人達も、全員ではないものの何人か一緒に加わって食事をしていた。

 こうした各地での異常な大歓迎ぶりは、お客さんをもてなす民族性やアジア学院の卒業生に対する地元の評価もあるだろうが、基本的に外国人の訪問が稀で、それ自体ビッグイベント化しており、本人達が興奮している感があった。さらにもともと親日的なことや、援助の期待もあるのだろう。

 夕食のあと、バスで少し移動してキキさんのプロジェクトを見学。キキさんは政府の職員だが、農家の人達とハンディクラフトや食品加工などを行う自助組織を立ち上げており、副収入を得られるように図っている。他に苗木の育成など農業面での活動も行っている。ナガ模様のショール、布製のバッグなど結構いいものがあり、女性や年配者は皆争うようにして買っていた。男の子達は「みんな日本人だなー」としらけて見ていたが、売れ行きを見ていて、ナガランドに観光客が入れるようになれば、結構この手のものは売れるのではないか、と感じた。

 6時過ぎにビスウェマを出発、一路コヒマへ。尾根に近い山腹の道を行く。ちょうど水平あたりに見える向かいの山並の上に点々と村の灯がともり、美しい夜景だ。マシャンガンはこのあたりに住んでいたことがあるそうで、プチャマは4つの山上の村が組み合わさってできている、等々解説してくれる。山腹は道幅をとるのが精いっぱいで、道路沿いに斜面に張り出すようにしてやぐらを組み、その上に店や家が建てられていることも多い。

 このように道路脇の斜面に張り出して建てられた作業小屋や家屋は、高知県桂集落や椿山でも見かけた。景色は抜群にいい家だが、風の強い日などちょっと恐そう。ただ高知では向かいの山が迫っているが、ナガランドでは山谷の高低差が大きいので、全体にもっと開けた感じで向かいの山ももっと遠い。前方の尾根向こうに、大きく灯りの広がった山上の台地が見え隠れする。コヒマだ。バスは尾根道を徐々に下りはじめた。

 ほどなくしてコヒマの街に入り、7時頃ジャフーアショカホテルに到着。政府系のとりあえずは高級ホテル、ロビーの天井も高く部屋も広々としている。ただしお湯が出ない等のトラブルはある。アショカホテルは、ニューデリー等では高いので有名だが、コヒマでの値段はダブル700ルピー。他のコヒマのホテルは、資料によればたいていダブル100〜300、シングル100〜200ルピー。ただし自由旅行のできる州ではないので、外国人の泊まれるホテルはアショカホテルに決められていると聞いた記憶がある(確認の要あり)。

 ホテルにもう一人の同窓、ベーニョ氏が来てくれていた。彼が新橋で街頭インタビューを受けたナガ人で、働き者、両手を使った除草が異常に速くて”人間除草機”と呼ばれたりしていた。卒業後アジア学院の専門研修に選ばれ、再来日した際にも何度か会っているし、もともとおじさんというのもあってあまり変わっていない。5人のうちナガランド出身の最後の一人は、タイ人と結婚して現在タイにいるため、今回は会えなかった。

写真:ビスウェマの子供たちとビスウェマの少年は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.