東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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4.アッサム州


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カルビアンロン県ガジランガ動物保護区ゴーハティ市

4.2 ガジランガ動物保護区

11月17日(月)

 5時半に起きてガジランガ野生動物サンクチュアリへ向かう。この公園は1907年に設立され、1960年代から観光客を入れるようになった。11月から3月まで一般公開されている。ちなみに、かつてはインドのあちこちで見られたインドサイを見ることができるのは、今ではこのサンクチュアリだけである。農大の先生はここへ来るのに30年待った、是非象に乗るべきだ、と大いに期待していた。

 サンクチュアリのゲートを通過して、象乗り場までジープで行く。象は大きな櫓の上から乗る仕組みになっており、2階ほどの高さのところで待っていると、もうすでに一回りしてきたインド人観光客らが朝霧の中象の背にゆられて戻ってきた。こちらに向かって手をふる家族連れなど結構ノリのいい人達で、国内旅行もさかんになってきている感じだ。3人か4人乗りで、3人乗りの場合開脚で乗ることになるので、体の固い人は要注意。おじさんの中に象の広い背を開脚で跨ぐのに苦しむ人が若干いたので。

 もう一つジープサファリもあるのだが、やはりこちらよりも象に乗ったほうが動物を見ることが出来、面白かった。背が高いので見晴らしが良く、またどこに動物がいるのかを象使いが把握しており、近くまで寄って見られるからだ(車だと道路沿いしか行かれない)。農大の先生は象使いと色々話し、アッサムまで来るとかなりヒンディーが通じるなあ、と感激していた。象の調教には2年かかるが100年生きるそうで、十分元が取れる。(写真の丈の高い草はエレファントグラス)

  4人乗りの大柄な象は、故ラジブ・ガンディー首相が乗った象だ、と自慢していた。ところどころにある盛り土は洪水のときのサイの逃げ場だという。サイ、水牛、シカ等を見物するが、広大な景色もよかった。

 朝食の後は象に乗らなかった人達も加わって、ジープサファリに行く。途中の村でナガのショールを干してある家を見かけた。牛を追っているのはビハール人の顔立ちの子供達で、「茶摘み労働者だ」とガイド。田圃が続き、ここらではちょうど稲刈りをしている。サファリと村を隔てる土手の内側に野生の象がいたが、確かに土手を越えて簡単に田畑に出没しそうだ。ジープサファリはジャングルの中の道を通ることが多く、動物よりも植物が見られる。途中車から外に下りられる一画があり、掌ほどの大きさもある巨大な平たい種がいくつも落ちていた。「豆科だなこりゃ。この辺は豆科植物が多いなあ」と元指導員。木々も梢が高く、はるか頭上遠くから巨大なさやが口を開いて垂れ下がっている光景は、やはり日本とは異質だ。

 元指導員は農大の先生のアラハバード農業大学を訪ねたことがあるそうで、その時キャベツを一面に植えるやり方と豆科植物の間に植えるやり方の比較実験を行っていたそうだ。豆科植物の間に植えたキャベツの方がはるかに立派に育っていた、という。今回マニプール州やナガランド州、カルビアンロン県では、アジア学院の卒業生や地元NGOで働くワーカーの中に、アラハバードにあるこの大学で学んだことのある人が結構いたようで、訪問した先々で研修生やワーカー達が「先生、先生」と再会を喜んでいた。

  また中には彼が来ると聞いてわざわざ駆けつけたワーカーもいた。ちなみにこの先生は1997年、長年の活動に対して日本の外務省から表彰を受けている。

 ジープサファリだけだった人は水牛しか見られず悔しがっていた。写真好きのおじいさんも残念がっていたがそのうち「あー、今日はサイを見た、良かった良かった」と大声でいう。「あれは水牛でしょ」とやはり見られなかったがあくまでまじめな戦友会の人。「いやね、こういう時はね、サイを見た、てことにするんですよ、あー良かった良かった」とうそぶく写真家。この世代の人達は個性豊かで見ていて面白い。

 現地ガイドの話では、2月に野焼きをするので動物が一カ所に集まる、その時に虎などいろいろな動物を一度に見ることができるという。動物を見るには朝早いほうが良く、今回のジープサファリは少々時間的にも遅かったようだ。ジープサファリは300ルピー少々、象は700ルピーくらいだった。このサンクチュアリで、一行の男の子が5センチくらいの黒いヒルに喰われて驚いていたが、爺さん達は「昔田圃にいたよ」と言って平然としていた。しかしこの後日本で地方出身の若い知人にこの話をしたら、ヒルは田圃にいっぱいいて黒だけでなく白、赤、緑、等々さまざまな色をしている、今でもいるんじゃないの、という。

 ホテルに戻って昼食。このホテルのカレーは洗練された味だ。この後、一路ゴーハティまで260キロのバスの旅に出発。

 ガジランガ以降は警察や軍隊を見ることもなくなり、バー等で道路が封鎖されていることもなく快調に進む。左右は茶畑が続き、背に篭を背負って数十人で茶摘みをしているのが見える。マザーテレサの Missionary of Charity の白地に青い線のサリーの一群を見かけたので、何か施設があるのだろう。やがて回りの風景は、茶畑から田、畑、草地(牛を放牧)の入り混じった一帯に変わる。家の壁も、竹を斜めに編んだむしろから、縦に編んだむしろになってきた。広場ではクリケットに興じている子供が多い。橋は木製が多くバスも注意深くゆっくり渡り、時にみしみし言う。しかしこれでも国道37号線。昨日ガジランガの手前で、インパール〜コヒマからの39号線が、北西から来た37号線に合流したのだ。

 3時半にナガオン到着。太陽の光はもう黄色い夕方の色をしている。このあたりまでくると完全にカルカッタを彷彿とさせるインド系の町で、バスを下りると物売りが近づいてくるあたり、ああ、インドに来たな、という感じた。お店も露地ばかりでなく、野菜類をそろえ、かごに吊るして玉子や雑貨類を売る小さい間口の店が並ぶ。赤い肉牛ではなく、白いコブ牛が歩く。

 再び出発して、単線の線路を越える。このあたりまで来ると、線路も道路も盛り土の上を高めに走っており、雨季の洪水に備えているようだ。道路脇は盛り土をした後が溝になっていて、葵系の植物が繁茂している。この一帯も稲刈りシーズンで、刈り取った稲はインパールと異なり、1束づつ縛ってから田に並べていた。4時半に日の入り、急に肌寒くなってきた。暗くなってからも7時頃までは結構人が出歩いており、2、3人で懐中電灯を片手に歩いている。

 すっかり夜のとばりが下りると、山の稜線が夜空に黒く浮かび、遠くの山裾のあたりを線上に、家の灯がちらちらと続く。手前の薄暗い林の間からも庭で焚く火、扉のない入り口から屋内で焚く火が垣間見え、幻想的な光景。電気のない夜は神秘的な色をしている。しばらく農村地帯を通過し、やがてゴーハティ市内へ入った。

 ゴーハティは大きく賑やかな街で、完全な大都会。人通りも車の交通量も多く、都市のほこりと喧噪が渦巻いている。街灯やお店の照明の溢れる街を横切り、プラマプトラ河沿いの丘をのぼったところで、ホテルベルビューに7時過ぎに到着。

 部屋割りの間ロビーにいると、ソファで新聞を見ていたインド人が「日本がワールドカップでフランスに行けるようになったよ」と声をかけてきた。なんかこの感じ、現代社会に戻ったなあ、という気がした。話題もそうだし、こうした垢抜けた都会的な明るいコミュニケーションの取り方が、今風だなと思う。一行の男の子達が「やったー」と叫んで記事に見入っている。「なんか俺達が応援しない方がいいんじゃないの」それを見てインド人達も「私たちもずっとテレビで日本を応援してたんだ」という。「インドもサッカー人気あるんですか。クリケットじゃないの」と言うと「今はサッカーだ」という。ゴーハティの地元紙はいまいち詳しくなかったようだが、後でインドの英字全国紙を手に入れた人の話では、ちゃんと誰がゴールしたかまで詳しく載っていたそうだ。

 夕食のとき、戦友会の人にかつてのインパールの様子について尋ねてみた。研修生にインパール盆地は昔はどうだったのか尋ねると、昔から田圃だった、と答えるのだが、インパール作戦当時の本を読むとそれは中心のごく一部だけだったのではないか、という疑問があったからだ。彼の話では、当時のインパールは田は少なくほとんど葦原だったという。ナガ族も完全な山岳民族で、焼き畑で稗だのトウモロコシを作っていて貧しかった、皆民族衣装を着ており裸足、年寄りの女性は半分裸だった、今はみんな靴をはいているでしょ、昔とはすっかり変わった、という。戦争中は地元の稗だの山の赤米(アカゴメ)を食べていたそうだ。研修生は50代以下だし、若い人も多いので昔のことはわからなくなってきている、と感じた。今は世界中で世の中の変化が激しいので、一世代前の記憶などいとも簡単に塗り替えられてしまう。丁度日本で焼き畑をやっていた記憶や第二次大戦の記憶が30代以下で抜け落ち、中国で文化大革命当時の記憶を20代以下がほとんど知らないように。知り合いの水戸の近郊農家の人(40代)が、焼き畑の話に驚かずに「あれはもっと山に近いところでよくやるんだよね」と普通に語るのを聞いて、この彼我の差に愕然となったことがある。日本もこの30年で大きく変わった。別に誰も隠しているわけではないのだが、常識とされることが大きく入れ替わり、多くのものが語られることもなく消え去って行く。

 ビシェンプールの戦いでは、と戦友会の人は続け、私たちは今でも怒っているのだが、栃木の軍隊が戦っているところへ援軍に来る筈の群馬の軍隊が来なかった、いわば見殺しにされてビシェンプールに取り残されたのだという。この栃木の軍隊、群馬の軍隊、という言い方が、なるほど現場の人達はそういう言い方をしていたのか、と興味深かった。本で読むと213連隊とか31師団等、連隊や師団名は数字で出てくる。記録からは栃木の軍隊、群馬の軍隊、のニュアンスは出てこない。現在だったら連隊を出身地ごとに編成するだろうか、郷土に人をまとめる力がまだあるだろうか、とふと考えた。彼はあの戦争は一言で言えば「一将功成りて万骨枯る」だった、と言った。

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/12/03 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.