次にプラマプトラ河脇の小高い丘を登る。ここから河と街全体を見渡すことができるのだ。プラマプトラ河は内陸にあるとはいえ、河幅が利根川下流の数倍のゆうにある大河、バングラデシュへ流れ至る。水は淡い黄土色に濁り流れているのかいないのかわからないほどゆったりしており、砂州が発達している。アッサム州は全土が標高が50m〜150m程度で高低差もほとんどないため、砂州が発達するのだ。翌日ホテル裏の河べりにおりたときも、河原は海べによくある、足がめりこむほど細かい砂状土だった。昔は川上交通が主要輸送手段だったことから、ゴーハティが栄えたという。まわりに高い山も見あたらず、川面が広く空も広い。一応観光スポットとなっているようで、斜面にはゴミ袋が散乱していた。これも日本の観光地と同じ光景。10年前にはカルカッタでゴミの山から使えるものは袋でも何でも集めている人々がいたが、今はどうなっているだろうか。
お昼前にムクルライ氏のCASAオフィスを訪問。CASAの説明をつけ加えると、デリーに本部のある1947年設立のインドのNGOで、もともとパキスタンとの分離独立による宗教紛争で発生した難民に、救援活動を行うために始まった。今では全インドを対象に、おもに農村開発活動を行っている。東北インドではドイツのNGOがドナー団体となって8〜9000万円を拠出し、5年計画で東北インドでのプロジェクトを行っている、焼き畑からの転換等の活動があるという。(同室の牧師が個人的に聞いた話では、それが今年(1997年度)いっぱいで切れるそうで、来年以降も出るかどうかはわからず財政的には厳しいとのこと。)
こうしたプロジェクトでは、地元が将来自立してやってゆけるよう、援助金は全体の75%に抑え、必ず地元から25%分を調達するようにしているそうだ。質疑応答の際、元指導員が、CASAはクリスチャンで東北インドのundergroundsもクリスチャンが多いと聞くが、同じクリスチャンとして連携はあるのか、とたずねた。ムクルライ氏は良い質問だが、残念ながら彼らとコンタクトはとっていない、その内容をよく知らない、また彼らはインドの三大製茶会社の茶畑を襲撃する集団だ、という。襲撃してお金を要求し、断るとそのオーナーを誘拐するので大会社はひそかに地下組織に献金している、これが反政府運動の大きな資金源になっているとの説明。インド政府はそれにどう対応しているのかと別の人が質問すると、色々やっているがうまくゆかない、でも政府はよくやっているほうだ、とのこと。インドは広い国だ、皆お互い仲が悪い、アッサム人とベンガル人は仲が悪い、オリッサ人とも悪い、どの州もお互いそうだ、と言っていた。
昼食後州立博物館へ行く。入場料2ルピー。アッサムの習俗が展示されており、王朝時代のアッサミーの服装はフランスのルイ14世時代のようできらびやか。男性がウェストを絞った深紅のドレスコートのようなものを着ており、つば広の派手な帽子、イギリスの法廷のかつらのように波打った肩までかかる黒髪、とスタイルの良さもあってなかなか美しい。ただ現代のアッサミーにこんないでたちの人はおらず、目の保養にはならない。この他民具、農家の復元、と民俗資料館のような部屋もある。那珂川の仕掛け罠、”ど”によく似たものを見つけ、栃木のおじいさんらに言うと那珂川の”ど”は、いったん魚が入ると出られない形になっていてちょっと違う、とこだわる。州内の各少数民族の生活、服装を展示した部屋もあり、ナガ族のものあった。また、おもに10世紀前後のゴーハティの遺跡から発掘されたテラコッタ群(仏頭が多い)の展示室があり、ここは美術品としてもすぐれていた。特に踊る千手観音のような像は一見の価値がある。
このほか別館にはインド文士の写真や直筆原稿の展示室、着物や古書の展示室、アッサムの動物の剥製類が並び、なぜか第二次大戦の日本軍と英軍の武器と防護服も展示されていた。従軍経験者らは日本軍の爆弾と説明書きされた大型爆弾に「これはイギリスのだな」という。「我々はこんな大きなものは持っていなかった。日本は日露戦争のときの銃をまだ使っていたんだ」と展示されている三八式小銃を指す。「ここの武器はきれいに磨かれているな」
このあと動物園へゆくが(大人3ルピー、子供2ルピー)、ここにも野生保護、森林破壊をやめよう、というキャッチフレーズが掲げられており、今は思想的にも世界同時進行だ、とつくづく感じる。若者集団や家族連れのほか、カップルも多かった。
ゴーハティ市内のヒンドゥーの祠
夕方繁華街で自由行動となる。ゴーハティに着いた当初、市内は犯罪も多いので一人歩きをしないよう、と言われたが、とりあえず短時間の印象ではそう危険な感じはなかった。中心街にはショーウィンドウが並び、若者向けの服やバッグ類が沢山つる下がっている。商品のつるし方など店の感じはアメ横的で、建物の天井の高さや車と人の入り乱れた通りの喧噪は上海的。
交差点などの要所には、小銃を肩から吊った警官がパトカーの脇に立っている。中心の四ツ辻から四方へ伸びる道には屋台が並び、衣類靴下類から日用雑貨、食品に至るまでところ狭しと並べられ、人通りも多く中国やカルカッタの夜店と同じだ。ただし屋台のあかりは電灯ではなくランプが多い。本屋で東北インドの地図を買っていると、日本人か中国人そっくりの色白のモンゴル系女性が入ってきた。聞いてみるとミゾラムから来たゴーハティ医科大の学生だという。ゴーハティ市内にも結構モンゴル系の顔立ちの人が歩いている。アッサム名物の、竹細工と木工芸を組み合わせて作されたランプスタンドや調度類は、なかなか美しいものが多く、しかも安い。
ゴーハティやカルカッタでは、暑いせいか蚊が出るようになった。そこで庭仕事や農作業で使う腰から下げるタイプの蚊取線香をぶらさげることにした。そうして歩いていると、通りすがりのインド人から「煙が出ているよ。それは何だ」とよく聞かれた。蚊避けだというと「モスキト、モスキト」と回りや連れ合いに告げ、納得しあっていた。
この日の夕食は本格的なアッサム料理レストランへ行こう、ということになり、皆大喜び。大きな丸い金属製のお盆に10個以上小鉢が並び、各種カレー、ダール、サラダ、デザート類が盛りつけられている。中央にはインド米の盛り。この店のカレーは多少酢を効かせ各種香辛料を調合しており、繊細な味付けで、手作りとは異なるプロの味のおいしさだ。しかし年寄り連の中には、「インドの料理は日本人の口にはあわね」と途中であきらめる人もいた。
隣ではお爺さん達が戦争の話をしている。写真家の人は満州生まれでシベリアへ行っていたという。「あんたシベリア行っとったんか」と戦友会の人。「あそこも大変だったろう」「年寄りはみんな死んじまったよ」とケロケロと元気な写真家。戦友会の人は6年間戦争に行っていたという。「この人5年生だから。5年生、ていやあ神様だんべ。軍隊、ちゅうのは上下関係の厳しいとこだから。少年兵は突撃に駆り出されてみーんな死んじまうだんべ」米農家の老人も軍隊、ちゅうのは大変なところだ、と訥々としゃべっており、そのうち殴られたどうしたのという話になっていった。
ところでこのとき出されたビールはよく冷えていた。ガジランガやゴーハティのホテルのビールも冷えていた。最近はインドでも冷やして出すらしい。マニプールやナガランドでは、研修生手作りの夕食が多くビールは出なかったが、男の子達は夜部屋で研修生達とお酒を飲んでいたそうで、彼らも結構よく飲む、と言っていた。
11月19日(水)
朝、ホテル脇のプラマプトラ河に下りてみる。斜面には漁村がへばりつき、子供らが裸足で走り回る。川べりには漁網が干され、簡単な小屋掛けのある小型船が幾艘も岸辺に浮かぶ。川面に、ぬめっとした海蛇のような生物が弧を描くようにして浮かび、するりと消えた。何回かその動作が繰り返され、その背を丸めた浮沈は鯨が水面に出てきたところに似るが、動きがはるかに緩慢で、何か不思議な生物を見る思いだ。
急に歓声が聞こえ、見ると写真家のおじいさんが大勢子供達に取り囲まれてやってくる。彼は一人で街を歩き回っては人々の写真を撮影していた。1日に3本以上フィルムを使うという。
地元の人や子供達と友達になるのが得意で、カルカッタでも共同井戸で水浴びをしている青年達と仲良くなり、毎朝挨拶を交わしていた。ナガランドやカルカッタでも、例の調子で栃木弁まるだしのまましゃべり続けるので、皆意味はわからなくても笑ったり言葉を返したり、自然な表情で写真に収まる。
帰国してから簡単にまとめた写真集を送ってもらったが、子供のヒット写真も多く、いい写真集だった。今回許可をいただいて何枚か掲載させてもらったが、もっとご紹介できないのが残念で、趣味の域を超えている。
9時半過ぎにホテルを出て10時半に空港着。ここから空路カルカッタへ向かう。空港まで見送りに来てくれたムクルライ氏ともここでお別れだ。ナガランドで2日しか入境を許されなかったことによる日程調整もあったと思うが、ゴーハティ市内を1日案内してくれたり、アッサムでのさまざまなアレンジを一人でこなしてくれ、本当にご苦労様だった。