カルカッタ|ミドナプール県|ダイヤモンドハーバー
5.2 ミドナプール県
11月20日(木)
朝6時に起きてまた町を歩いてみる。南東の市電車庫があるロータリー、パークサーカスへ向かう。このそばにかつて午後の作業で通ったマザーテレサの施設プレムダン(病院)がある。
道路端の共同井戸で水浴びをしたり歯を磨く姿は以前と同じだが、やはり街は清潔になっており、ロータリーの周囲からもゴミの山と牛とヤギが姿を消していた。以前フリースクールストリートやパークサーカスの回りなどでは、歩道と車道の間に水がたまっていることが多かった。共同井戸で体や食器を洗ったりした水がたまったもので、さらにクルータ姿の男性がよくそこにしゃがんで用を足しており、常に青緑色の水たまりが歩道沿いに続いていた。
以前も11月から2月にかけての滞在だったので、季節的には今回と変わらないのだが、その水たまりをどこにも見かけない。排水がよくなったのだろうか。いずれにせよ、下を見ないで歩けるので、このロータリーの中心がチャンドラボーズの銅像であることに初めて気がついた。彼の銅像を中心としたきれいなロータリーだったのか、と改めて感心する。
プレムダンの橋にかかると、人がほとんどおらず閑散としていた。かつて橋の上をたむろっていたあの大勢の人々はどこへ行ったのだろう。当時は橋の上に路上生活者が何人もいて、主婦がよく一種の七輪で煮炊きをしていた。また何となく橋の上をブラブラしている男性も多く、歩道はいつでも大混雑だった。早朝だからかと思ったが、翌日ダイヤモンドハーバーへの行き帰りに昼間ここを通ったときにも閑散としていた。今思うに、当時は失業者が多かったのだろう。今は皆なにがしかの職についたのではないか。
プレムダン(写真右)の中には入れないので、橋の下の鉄道の駅へ降りてみる。
通勤客が大勢待っており、シアルダー行きが結構頻繁に来る。電車は大変なラッシュだが、一方町で見かけるバスや市電は以前に比べ随分空いていた。乗車口から外にはみ出している人々、バスの後部外側にへばりついている人もいたのに、今はそんなバスや市電は見かけない。昼や夕方の時間帯でも中は楽に立てる程度に空いている。
パークサーカス駅の西にはバラックの建つスラムの一画があるが、子供達のみなりも随分とよくなった。photo、photoと寄ってくる子はいても、パイサ、パイサとまとわりつくことはない。当時は道を歩くにも多大のエネルギーが要り、精神的に疲れた。足下のごみや水たまりのせいもあるし、寄ってくる人々のこともある。それが今回はとても歩きやすい。どんな裏道もすいすい歩けてしまう。
短い間ではあったが、物を買ってぼられることもなかった。街中の雑貨屋で買っていたせいもあるかもしれないが、デリーのようにお釣りがない、と言われることもない。昨日の語学講師の青年も、カルカッタは人に優しい感じで居やすい、デリーの方がせちがらい、と言っていた。
朝は制服を着た子供を送る親の姿も目につく。自転車に子供を乗せて走る父親、リキシャやタクタクで子供を送る母親、自動車の助手席に眼鏡をかけた制服姿の少年を乗せて運転するサラリーマンらしきお父さん。制服姿の子供も以前と比べて増え、昼間町中をうろついている子供が減ったようで、後でジャヤスリさんに聞いてみると、教育熱心な親が増えてきているという。昔はイスラム教徒は子供を学校へやらなかったが、今はみんなやるようになった、3歳くらいからいい学校へ入れたがる人がいるくらいに教育熱が高まっているという。カーストで職業を選ばなくなりつつあり、学歴さえ手に入れたらいいところへ就職できる、稼ぎもよくなる、と普通のインド人も考え始めているようだ。特にコンピュータ産業は既成のカーストの範疇にないので、カーストが揺らぐ一因になっていると聞いた。
8時過ぎにバスでカルカッタの南西75キロのところにあるPulsita村へ、ビスワル氏のプロジェクトの見学に向かう。ここはLWSがNABARUN
SEVA NIKETAN
という地元のNGOと共同で開発と緊急援助の両タイプの活動を行っている。シャンティニケタン大学(タゴール大学)など、ニケタンという言葉をよく耳にするので気になり、何を意味するのか聞いてみたところ、ベンガル語で
house のことだという。
バスの中でアジャノさんと話す。彼女の話では、現在大勢のナガ人がアメリカに渡っており、全ナガ人口の半分以上行っているかもしれないという。出国は破壊活動との関連を疑われない限りさほど難しくない。また村の角に立っているターバンを巻いたシーク教徒を見て「パンジャブ人が一人でいるのを見ると
sorrow だが二人いるのを見るのは joy
だ、という諺がある」と笑いながら教えてくれた。なぜかよくわからないけれどよくそう言う、インド中で言うかは知らないが回りで聞くという。翌日ジャヤスリさんに聞くと「知らない、意味もわからない」と言った。宗教の話になり、現在ナガ族は全体の80%がキリスト教徒だが、ナガランドのコニャック(Konyak)族はまだアミニズムだそうだ。私は日本人だから山にも神様がいる、田圃にも神様がいる、木にも神が宿る、という考え方が好きだというと、彼女もキリスト教の神は唯一絶対だけど、それが山にも川にも田圃にもいると思う、矛盾しないわ、私もそう思っている、と言った。
11時に到着。周囲は林の中に貯水池と家屋が点在する典型的なベンガルの農村風景。ここでも大歓迎を受け、事務所へ続く沿道にずらりと、オレンジのチョッキとスカート、白のブラウスの制服姿の少女達が並ぶ。花を盛った金属製のお盆を手にした少女達は訪問者に花を振りかけ、白い巻き貝を手にした少女達が貝笛を吹く。貝笛は、神様に保護と豊穣を願う意味があるという。入り口にチャンドラボーズの胸像があり、アメリカ人の元校長先生がレイをかけた。チャンドラボーズはこの後もあちこちで胸像、肖像姿を見かけた。研修生の話では、彼は全インド的に知られているわけではないが、西ベンガルではとても有名で神様的に崇め奉られている。
コンクリート造り4階建ての立派な建物に入ると、女性が耳慣れない旋律の音楽を卓上アコーディオンで奏で、歓迎してくれる。まず事務所に入って説明を聞く。チャンドラボーズとインディラ・ガンジー、そしてレーニンの肖像が額に入り掲げられている。国民会議派のつながりなのだろうが、日本人感覚にはバラバラだ。NGO側のインド人もカメラを持っている人が多く、日本人に負けず劣らず写真を撮っていた。パナソニックのビデオを回す人もいた。ドイツ等欧米の視察団が訪れた際の写真を納めたアルバムが回される中、国民会議派の国会議員、P.R.チョードリーさんが1997年7月23日に襲った洪水とその救援事業についての解説を始めた。
ここミドナプール県は95lacの人口(1ラック10万人)があり、西ベンガル州全体の10分の一が住むところである。県は4ブロックに分かれ、そのうちの2ブロック、25万人が洪水の被害にあった。この地区は回りより4m程土地が低く、2カ月間水が引かずに4000人が家を失った。一帯の村は長いこと水をかぶり、水田、野菜がすべてだめになり、現在種を配っている。50日間陸の孤島になったが、死者は3人だけだった。原因は1997年北インドで雨量が多く、2〜300キロ上流のダムが決壊したことによるというが、78年にも大洪水に見舞われ、また2年前にもあったそうで、常襲地帯ではあるらしい。上流の森林伐採との関連について聞く人もいたが、彼はそれは関係ないと答えた。この洪水では政府はもとより、CASAも含めたいくつものNGOが緊急援助を開始し、NSNでも食料援助、家屋の提供、飲料水確保(パイプ式井戸100本)を行っている。
この後、NSNの小型バスやジープに分乗して、200平方キロにわたって被災した地域でのプロジェクト巡りを開始。道は一本道で周囲より2〜3m高く盛り土されている。広い田圃または畑の一帯と林の地域とが交互に現れる中、くねくねと進む。
バケツをサドルの両脇にかけた自転車がよく通る。ところどころ林の中に家屋が集まった村があり、貯水池があってその奥に田畑が広がるのが林から垣間見えるときもある。家屋は竹と木造のニ階建てで赤い瓦屋根、二階の屋根は棟の短い寄せ棟造り。一階の屋根と二階の屋根とがくっついて見えるくらいに軒が深い。屋根が円錐形になっている草葺屋もみかける。
またこのあたりの村では、10mくらいのストゥーパのような形をした大きな古い祠を時折見かけた。また池のほとりに30センチほどの祠が置かれていることもある。
田圃ではちょうど稲刈りと苗代作りの真っ最中で、牛を使って代かきをしていた。二期作なのだ。日本の米の収量が飛躍的に伸びたのは、苗作り技術の進歩によって田植えの時期を一ヶ月早めることができるようになったためだ、という話を就農準備校の鯉淵学園で聞いたが、こちらではどうだろう。一行の農家の人達は田圃を一見して「ひどいなあ、1反30キロいかないんじゃないか」とここでも言う。この地方でも、吊し篭の反動による田圃の水やりを見かけた。畑ではマリーゴールドを盛んに栽培しており、神棚に備えるレイに使用するので需要が多い。ほかに菜種油用の菜種も栽培している。
最初に高校を訪問。またまた沿道に並んだ子供達による花と貝笛による大歓迎。詳しい説明は遠くてよく聞き取れなかったが、洪水で被災した学校をいくつかNSNで助成しており、そのうちの一校。皆白いシャツと青いスカートの制服を着ている。子供達は一行がバスに乗り込むときにも花を投げ込んできて、「すげえ、花、て人に投げつけるものだと思ってるよね」と男の子達。
田畑を見たあと、最後にNSNが建てた被災者用の住宅を見学。二階建て赤瓦の伝統的な建物だが、耐水建築だという。数年前に建てられた被災者住宅は、今回の洪水をもちこたえたそうだ。一軒9500ルピーで建ち、一部を援助し残りは自前調達を基本にしてる。これまでに900軒建てた。
一行の男性陣は、これまでの農村風景に「いいものが多いなあ、写真もとりたいし」と農村を歩き回ることを望んだが、ワーカーの人達は「農村の一人歩きは危険だ、それに時間もない」と承知しなかった。この”危険”の実態が、単に事故があっては困るからなのか、本当にちょっと歩くだけでも危険なのか、といつも気になる。しかし、外国人が日本の農村を歩きたい、と言った場合、”危険”を理由に反対する人はまずいないと思うので、やはり何かしらあるのだろう、とは思う。
再びオフィスに戻り、NSNの人達が用意してくれたカレーの昼食をとった後、3時から集会場でワーカーや地元の人達との会合がもたれた。部屋には大勢の村人やワーカーが集まっており、正面にはマザーテレサの肖像が掲げられ、等身大の紙でできたマザーテレサ像もある。Misshionary of Charity
の白地に青い線のサリー姿の人々も見かけ、見習いシスターの研修を受け入れているとの話だった。最近の新聞報道(東京新聞1999年2/6付)にもあったが、マザーテレサは今インドで大変尊敬されつつあるようで、一周忌にはクリスチャンに限らず数十万人集まったという。何やら神様に近い奉られ方になってきているようだ。
まずLWSで作成した洪水対策のビデオを見る。こちらの洪水は鉄砲水タイプではなく、じわじわと水位があがってきて長期間引かないタイプのもので、直接的に人命を奪うことはない。腰まで水につかって歩いてくる人々に緊急食料援助を行っている様子、被害にあった田畑の風景、翌年分の種を配賦する模様等が映し出される。元指導員が難民や村人の組織化が大事と思うが、どのようにやっているのか、と尋ねると、いい質問だが村人は避難地へ家畜も全部連れて逃げようとするので大変だ、組織化はうまくいっていない、とビスワル氏が答える。ムクルライさんもそうだったが、アーリア系の人は質問を受けると「いい質問だが」と最初に言うことが多い。学校教育でそう言うのだろうか。
右上写真は、洪水で家を流された人々のために建てられた家。高台に建っている
この後村人による歓迎会になり、先程の卓上風琴で女性達が歌を歌い、少女達によるベンガルダンスが披露された。曲目はすべてベンガル音楽。少女達は中学生くらいだが、アーリア系の人にはモンゴル系にはない大人びた印象や気品を感じる。最後は6、7歳の少女によるダンスだったが、やはりトリに選ばれただけあって上手い。体つきは子供でも、すでに女性としての魅力やコケティッシュさを備え、とても子供とは思えない表現力があった。
最後に村人達から、水牛の角で作った動物モチーフの置物をプレゼントされる。長旅の疲れの見える一行に比べ村人たちは大はしゃぎで、一人一人に手渡すごとに自分たちで大いに盛り上がっていた。
すっかり日が暮れ、カルカッタへの帰路につく。村の道にもカルカッタへの大通り沿いにも、小さい神様が目に付いた。道端に祠があり、石や色鮮やかに塗られた神像が奉られている。また木の根本に小さな神像がそのままむきだしに置かれていることもある。自然色の風景の中にいきなり原色の人形が置かれている光景は、土俗的で少々異様だ。
カルカッタに近づくにつれ人や家屋が増え、夕方の野菜市が開かれ買い物客で賑わっている。あちこちに竹や植物を編んだ筵を壁にした簡単な家の密集地域を見かけるが、別にスラムのようなすさんだ感じはない。ふと、戦後上野の地下街に寝起きしていた人々や戦災孤児が、次第に職を見つけて住処をかまえ吸収されていったように、かつてのおびただしい数の路上生活者達もこうした簡単な小屋に移っているのではないか、と感じた。当時の路上生活者も一家を構えている人が多く、共同井戸で水浴びをしたりそれなりに身だしなみには気を使っていて、家がないだけであとはきちんと生活をしていた。
またすでに10年前の時点でも、カルカッタに長く住む日本人から、バングラデシュ独立で数多くの難民が流れ込んだ当時に比べれば今は随分減ったわよ、当時は公園にも駅にもいっぱいいてBBDバグのあたりなんて難民で足の踏み場のないくらいだった、その頃乞食の子を踏まないで歩くにはどうしたらいいか、踏み殺したらいくらか、という冗談があったくらいだ、という話を聞いたことがあったので、やはり長年かけて徐々に吸収されてゆき、ステップアップしていっているのではないかと思う。
カルカッタの中心街に入る手前でハウラー橋を渡るが、記憶にあるハウラー橋よりも全然立派になっている。聞いてみると1989年に新しい橋が架かったのだそうだ。
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