ド イ ツ 旅 行 2 ハンブルグ−リューベック |
||
2016年春の記録 ハンブルグ、リューベックはドイツの北に位置する。 ドイツはこの時期、日の出は6時頃、日没は8時過ぎ頃で、すでに夏時間。 昨今、移民によるテロが問題になっているが、ガイドさんの話では今までドイツは積極的に移民を受け入れ、毎年5−6万人、2015年には20万人受け入れた。トルコ、イタリア、ポーランドの順に多く、シリアからも多くなったが、基本的には経済が低迷している隣国からの移民が多い。 また、ドイツ国旗の黒赤黄は、ナポレオンに対戦した学生達の軍服から来ており、赤が肩章、黄はゴールドでボタンの色だとのこと。 今回はアウトバーンを使ってドイツをほぼ一周する旅だったが、基本的に北は平原、中部以南は起伏のなだらかな丘陵地帯だった。アメリカ西部のように見た目平原だが遠くに3000〜4000m級の山が見える、ということはない。アルプスに近い南部以外は山のない地形。 ハンブルクはベルリンに次ぐドイツ第二の都市で、かつてのハンザ同盟の有力都市の 一つだった。港町だが海ではなく河口港、造船業がさかんだった。今造船業は景気がよくないが、クルーズが流行だしたので、またよくなるかもしれないとのこと。保険会社の本社が多く集まっている町でもある。ハンブルグも空襲で大きな被害を受けた町の一つ。 上、左下:外アルスター湖(人造湖) 左上:列車が通っている 右下:市庁舎前広場 上:市庁舎 砂岩で作られ、杭で支えられている。右上写真の外壁に立ち並ぶ銅像について、神聖ローマ帝国皇帝の像、中央の銅像はハンザ同盟都市のもので左端がリューベック右端がブレーメン右の熊がベルリンを表す、その上に並ぶのは職人達、などなど解説を聞く。
左上:倉庫街 最上階に滑車があった 右上:新しく建設中の劇場 朝、ホテルそばの農村を歩いてみた 右下:牧草地 左上:納屋 日本よりこざっぱりしている 農家の立ち並ぶ道路の左側は堤で、その向こうは水路と池だった(ボートが係留されていた) 上:広い車道を渡った先に、小さな小屋が立ち並ぶ一画がある。スラムかと思いながら行ってみると、農作業用の小屋で、都市住民用のクラインガルテンだった。クラインガルテンは通常、右上のように柵で囲われて施錠され、鍵を持たない人は入れないようになっている。また1〜2泊するのはよいが、住むのは禁止されている。 リューベックは、ハンザ同盟の中心都市、塩などの交易で栄えた。リューベックも第二次世界大戦の空襲で70%が焼失している。リューベックまで、ぎりぎりかつての西ドイツ領。 左上:ホルステン門右のギザギザした屋根がハンザ同盟特有の建物の特徴 上:マリエン教会 この教会も英軍による空襲で破壊され、復元されたもの。世界最大級のパイプオルガンがある ここからベルリン、ポツダム、ケムニッツ、ライプツィヒと旧東ドイツ地域に入る。アウトバーンに乗って一路ベルリンへ向かう。 左上:牧草地 右上:落葉樹の典型的な森 上:途中通過した町、こぎれいな家が並ぶ 右下:用水路沿いに一列に並ぶ樹木 左上:道沿いに並ぶ家屋と街路樹。日本の千葉あたりの農村にもありそう(色彩感覚は異なるが) 左上:背丈の揃った林 あきらかに植林 左上も右上も、草地と森の境がはっきりしており、境に藪がない。日本だったら地方をバスで通れば耕作放棄地がいやでも目に付くし、家の周りや里山のきわには藪も目立つ。どこもかしこも人工的にきれいになっているのが、いかにもドイツ的 左上:大量に詰まれた干草 手前は家畜用の水場か給塩器? 上:小麦畑 牧草地と畑は毎年交替させている。もともとヨーロッパは二圃式農業(休閑地:家畜を放牧⇔耕地:冬に小麦栽培)から三圃式農業(休閑地で牧畜→冬作に小麦→夏作に大麦・ライ麦→)を行っていた。19世紀初め輪栽式混合農業(牧草栽培+牧畜→冬作→根菜(カブやテンサイなど)栽培→夏作)となり、現在は混合農業(とうもろこしや牧草など飼料作物と小麦など穀物を輪作し、肉牛や豚など家畜を飼育)を行っている。 カッセル | ハンブルグ | ベルリン | ドレスデン | ローテンブルク | ノイスバンシュタイン城 |
| モンゴル | チベット | ラダック | 東北インド | 中国 | 1999北京 | ミャンマー | 台湾の廟 | 韓国 | 台湾2009 |
| マザーテレサ | シッキム | ハワイ | タイ | クルーズ | アメリカ | ドイツ | キプロス | スイス | イタリア |
| 小笠原 | 四国へんろ | 国内 | 島 | 震災 | 雑穀栽培 | 林業 | 里山 | 就農 | 銭湯記 |
| ミャンマー歌手 |
北京放送 |