ド イ ツ 旅 行 3 ベルリン−ポツダム |
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2016年春の記録 ベルリン、ポツダムは、ハンブルグからやや南に下がったドイツ北東部に位置する。旧東独の地。 添乗員さんの話では、ドイツの大学はほぼ無料で、かかったとしても年10万ほど。2011年まで徴兵制度があり、行きたくない人は6ヶ月の奉仕活動として病院などで働いた。現在は徴兵制がなくなり、病院などでは人手不足になったため、移民やイタリア・スペインなど経済状況の悪い国からの留学生を使うようになった。 一方、ドイツの税金は高い。年収500万なら所得税消費税で100万、健保年金雇用保険その他で100万とられ、教会税もある。配偶者控除が有利なので、税金逃れで無宗教となり結婚する若者が多いという。 前半回ったライプティヒや北ドイツはもともと観光客がそう多いところではないが、ベルリンは普段はもっといるはず、それが今回全然日本人に会わなかった、バスも見なかった、と添乗員さんが嘆いていた。やはりイスラムテロの影響でフランスベルギーだけでなく、ヨーロッパ全体に対して日本人が旅行を手控えるムードがあるようだった。ただ後半、南ドイツのローテンブルグやノイスバンシュタイン城、ケルンなどを回ると、さすがに日本人や中国人のツアー客を見かけるようになった。 ベルリン 電車(左上)と市電(右上) 左下:町の通り 上:かつて東西ドイツを隔てたベルリンの壁 ベルリンもドイツの他の都市同様、第二次世界大戦の空襲で焼けた
左上:ナチス時代の建物 空襲に焼け残り、現在は財務省になっている 上:ポツダム広場 左下:路面に残るベルリンの壁の跡 左上:ナチスによるユダヤ人ホロコースト犠牲者を慰霊する一画。10年前、ドイツ政府が委託しユダヤ系アメリカ人が作った。お墓ではないので、名前は彫られていない 左:ドイツ帝国の戦勝記念塔(デンマーク戦争、普墺戦争、 ポツダムは千年を越える古い町で、旧東独側にあった。西ベルリンとの境界に橋が架かっていたが、このクリニケ橋はかつてスパイ交換で使用された。 下:ポツダム会談が開かれたツェツィーリエンホーフ宮殿 ドイツ帝国最後の宮殿で、イギリスチューダー朝農家風の外観をしている。1918年革命が起こりホーエンツォレルン家はオランダに亡命、その後皇太子一家が戻り住んでいたが、第二次大戦時今度は南ドイツへ逃げ(英軍の捕虜となる)その後空家になっていた。そこをポツダム会談で使った。その後ソ連が庁舎として使っていたが、東西ドイツ統一後、ソ連軍も撤退した。 ポツダム会談ではヨーロッパの戦後処理、ドイツの民主化、軍事裁判について話し合われ、日本に関することはここでは話し合われてはいない。ただこのとき、トルーマンは原爆実験の結果から、ソ連の援助なしに日本を負かすことができるとわかった。 上下:サンスーシ宮殿 フリードリヒ大王の夏の宮殿。ローマの遺跡をまねて作ったという。ただ、行ったとき、ちょうど雨脚が強くなり、あまり外でのんびりできなかった。 見ていると、ポケットからじゃがいもを出し、新たにお供えするドイツ人若者らの姿。フリードリヒ大王がじゃがいも栽培を奨励したのだという(飢饉対策だろう。新大陸のじゃがいもはヨーロッパの人口を養った)。 この宮殿もホーエンツォレルン家のものだったが、オランダに亡命したため子孫に所有権なし、と州政府が管理している。 アンペルマン 旧東ドイツのおみやげとして、アンペルマンのグッズがある。道路の歩行者用青信号や赤信号についている人型が、旧東独では青が歩いている男の子(男性?)、赤が止まっている女の子だった。これが可愛いということで、キャラクターデザインとなり、小物やバッグ、マグカップ、シャツなどに使われ売られている。 左下:ペンシルのような密植された松林 間伐してない感じ 右下:雨上がりの虹 上:牧草地の井戸(と思う) 左上:カラシ(菜の花)畑 カッセル | ハンブルグ | ベルリン | ドレスデン | ローテンブルク | ノイスバンシュタイン城 |
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