東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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2.マニプール州


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インパールウクルル県チャンデル県チュラチャンプール県セナパティ県

2.5 セナパティ県

11月13日(木)

 7時半、ナガランドへ向けて出発。研修生達が大勢見送りに来ている。アチャン氏の奥さんとお別れの握手をした元指導員は、「手ががさがさだったぞ。あ、こりゃー相当苦労してんなー、と思ったね」と感慨深げ。

 前列左端:マシャンガン、右端:セレナ、後列左からアチャン、ニューメイ、黒服の女性タビタ、右隣トータン、右端:東北大に留学したトンビ・シン

 セナパティ県に入った頃、左手に大きな軍の施設があるところで一旦停止。ここから県庁のあるセナパティ近くまで軍の護衛がつくのだ。マシャンガンに地名を聞くと地図でコブルの町を示した。コブルの手前セクマイは、セナパティ県のクキ族の中心地。ここからしばらくクキ・ナガの民族紛争の激しい一帯が続くため護衛がつく。他の地元のバスも次々に来ては停まっている。外に出て数えてみると、20台近く並んでいた。かなり集まったところで、何台もの軍用車が前後について一斉に出発(アジア学院の記録では軍による護衛が付いた地域はインパールからセナパティ県に入る手前35キロの区間となっているが、私の記録ではマシャンガンの話でコブルなのでそれを元にしている。またインパールから護衛のついた地点まである程度乗車し、護衛の解かれた地点から訪問村までそう時間がかからなかった記憶がある)。

 山や広葉樹林の感じが、高尾陣馬あたりの低山に似ている。コブルにこのあたりで一番高い山があるというが、ウクルルのような高い山岳地帯ではない。道は常に右手に川を見ながら西側の山腹を進み、谷筋に田圃が帯状に続き、向かいの山腹に時折焼き畑が見える。マシャンガンの話では、焼き畑は12月と1月に行い、焼くときは下からだという。日本では火勢をコントロールできるよう必ず上からなので、本当かどうか少々疑問でもある。やはり実際に見ないと本当のところはわからない。道沿いの川は以前は水量が多かったが、今は森林伐採で随分減ったそうだ。この手の、焼き畑の環境破壊、森林伐採による水資源の枯渇など、そのときどきエコロジー系で話題になる話がリアルタイム(1997年当時)で彼らにも伝わっているので結構驚いた。この話をあとで同室の牧師にしたところ、欧米のNGOと直につながっていることが多いので逆にその手の話が伝わりやすいのではないか、またそれを守ってみせないと援助も下りにくいだろう、と言っていた。

 コヒマからインパールまでは直通バスが通っており、マシャンガンは昨日このバスでインパールへ来た。直通バスは70ルピー、所要時間7時間くらいで、路線バスだと50数ルピーと安いが、時間がかかる。大して違わない値段だし、直通だと個人用の電灯もついていて楽だ、と言っていた。地酒の話になり、マニプールやナガランドにはrice beerがあっておいしい、他に蒸留酒もあり、セクマイにはインドで一番強い度数70%以上のお酒があるという。

 今回インパールでは、マヨンシン氏やタビタさんがさかんにunder groundsがいるから危険だ危険だと言い、見知らぬ男に声をかけられても無視しろ、一人で歩くな、と注意された。そのことについて尋ねると、一部は部族抗争、一部は反政府運動で、イラク、中国、パキスタン、ビルマから武器が入りバックについて複雑になってしまったという。1991年まではクキ族とも平和に暮らしていた、それが92年急に内戦のように悪くなった、なんでこうなったのか自分にもよくわからない。ただナガは攻撃するにしてもほんの2〜3時間だが、クキはそうでもない、とも言っていた。新聞報道によれば、1993年にはインパール周辺で、バングラデシュやカルカッタから多数移住しつつあるイスラム教徒と地元ヒンズー教徒との間で死者数百人にのぼる大規模な宗教暴動があった。またこの年以降、ナガ族によるクキ族襲撃の記事も多い。さらにナガランド独立運動派によるマニプール州でのインド陸軍襲撃の報道もあり、この旅行の後も1998年1月にマニプール州でインド軍治安部隊がゲリラに襲われ13人死亡、6人重傷の報道がなされた(背景不明)。マヨンシンが今回の旅行で一行の安全を図るため、under grounds にも頼んだりして危害を加えないようにしてもらった、という話も小耳に挟んでいたので、マシャンガンに確認すると、そのとおりで under grounds をよく知っている人を介して頼んだ、10数グループあり、そのうちのいくつかはとても丁寧に応対してくれたという。特に外国人にとって危険というのではないが、ナガランドではアメリカ人が2人誘拐されたことがある。今朝マヨンシンの部屋に男達がやってきて、日本人がいるだろ何か買ってくれ等々要求してきて、マヨンシンが少しお金を渡して帰らせた、色々危険なんだ、と目をふせた。

 バスは低山の山道をうねりながら進む。マシャンガンと話していて見落としたが、この道の途中に日本軍が爆破した有名な橋がある。列はかなり伸びきっていたが、セナパティの訪問地の手前で護衛が解除され、トータン氏ら数名が降りた。「こんなところで降りて帰れるのかな」と言うと、ここはクキの村だから大丈夫、とマシャンガン。民族紛争の一帯を通過し終わるまで、何かあった場合に備えてここまで同乗してくれていたのだそうだ。一行の女性陣はみな、トータン氏は水谷豊によく似ていると言っていた。ただマシャンガンは、やはりクキとの抗争で村を離れざるをえなかったせいか、彼らが下りた後「no kukis」と言ってどこかほっとしたようだった。確かに、たとえば日本人と韓国人の場合でも、個人的には仲が悪くなくても、お互いがいる席といない席とでは第三者に日韓問題を語る口調に差が出ると思うので、わからなくもない。

 

セナパティの橋からのぞむ:右手丘の上にカトリックの教会と学校がある

 セナパティにつくと(住所はセナパティだが、県庁所在地のセナパティそのものではなく、その近郊の村)大勢の村人が道路脇に立って出迎えてくれる。この周辺の村で、コムニ・マオ、グレーシー、アトゥイさんたちが活動を行っているのだ。

 一行の男の子達がバスを降りながら、「この村美人が多いなあ」「かわいい子ばっか、この村気に入った」と口々に褒める。ここはポーマイ(Poumai)ナガ族の村。色白でほとんど中国人や日本人と変わらない顔立ちも多く、若い女の子達はアイドル系によくある、丸顔で目がぱっちりの、かわいい親しみやすい顔をしている。数名アーリア系の少女も混じる。お昼のとき隣になった女の子達と話したとき、マオとかパオという名字が多かったが、マオナガも入っているのだろうか? 女性は正装の民族衣装、男性は背広姿が多かった。

 余談だが、この民族衣装は女性only、男は背広のパターンは、なぜか東アジア系に多い気がする。以前日本で朝鮮学校を訪問した際も、女の先生は皆カラフルなチマチョゴリ姿なのに男の先生は背広だったので、「なぜパジチョゴリを着ないんですか?」と聞いたところ、「あれは動きにくいでしょ」と言われた。日本でもこの傾向は強い。アフリカやフィリピン、インド等は男性も民族衣装を着るのになぜだろう。

 まず集会場にて3人の研修生の説明を聞く。コムニ・マオさんたちは女性の自立のための組織を作っており、またそれぞれコムニ・マオさんは孤児院を経営し、グレーシーさんは農村の研修学校を開こうとしており、アトゥイさんは小学校の理事を務めている。3人が前に座り発表を行っている様子は絵になった。熱心に語るグレーシーさんを中心に、伏し目がちに原稿を追うコムニ・マオさんの中国的な細面の顔立ち、毅然と前を向く鼻筋が通ったノーブルなアトゥイさん、といかにも困難な中地道に頑張る女性たち、という構図に見えた。ここでまた一人一人にマフラーがプレゼントされる。

 色使いがかなり大胆で、黒地にショッキングピンクのライン、なんていうものもあった。でも日本にはない感じで結構良さそうに思ったのだが、残念なことに私にはその柄は回ってこなかった。マニプール州はこれでお別れになるので、最後にマヨンシン氏が別れの挨拶を述べる。

 この後昼食になり、薄いチャパティを揚げた感じのものが出て、これは他になく珍しい。このほかみかん、バナナ、カレー、ダール、そして餅米が出た。餅米は特別な時に食べるそうで、日本と同じだね、と言うと喜んでいた。皆こぎれいな格好をしており、若いマオさんパオさん達もセンスがいい。このとき、地元の女の子達が料理の入ったお皿を持って一人一人によそってくれていたのだが、なぜか引率の先生と私は飛ばされることが多かった。あまりに何度もそういうことがあり、一行の人達から「初めは偶然かと思ったけれど、やっぱり向こうも見分けがつかないのよ。すっかり溶け込んでいる」「現地の人に見えるのよね」と言われた。その後もバスに乗るたびに「あ、乗ってきたの」「もう降りたままそこに留まるのかと思った」と冗談に言われた。きっかけが美人村だから光栄だが。

 この後アトゥイさんの小学校を訪問。校長のベンジャミン氏が正装し槍を持った姿で登場する。国道から小学校へ入る側道を、学校の生徒達がずらりと両脇に並んで、拍手で出迎えてくれる。その間を槍を持った校長先生に引き連れられてゆくが、思いがけない大歓迎とあいまって、何となく気恥ずかしい。生徒達は全員制服姿で、男女とも上衣は白のシャツに紺のネクタイ、下は紺のズボンかスカートだった。これまでに訪問した学校や、写真で紹介された研修生の学校でも、皆そのタイプの制服があった。この学校は生徒総数790人など、いろいろと説明を受けるが遠くてよく聞き取れなかった。

 バスで出発するまで少々時間があったので、道端の家々を見て回る。タニシに似たかなり大粒の巻き貝がよく売られており、マシャンガンの話ではおいしいという。この貝はコヒマの市場でも見かけた。また映画館の入り口らしいところが2軒あり、1軒はadult onlyと書かれていた。両方とも入り口が狭くすぐ隣の店になるので、「こんな小さなところで上映するのか」とおじさんが不思議がっていた。奥に建物があるのか、それともビデオ上映だろうか。西に川の支流が伸び、対岸の丘の上にカトリック教会とカトリックの学校が見え、景色がいい。小さいが感じのいい村だった。

 ここでバスを降りた研修生も多く、バスが出発しはじめると歓声をあげながら大きく手を振る。特に見送りに集まった地元の女の子達が、はちきれんばかりの笑顔で手を振りつつ、一斉にキャー、と歓声をあげたので、何かこれでマニプールを去るのか、とちょっと涙ぐみたい気分にさせられるものがあった。

 ここからの道は登りになる。セナパティまでは川沿いに平地があったが、以降谷深く山高く、棚田が山腹を登り、千枚田というにふさわしい光景が現れる。村はウクルルのように山上に開かれている。先に書いたように四国山地に似ているが、山の標高がもっと高く谷も深いため、丁度長野か山梨あたりの連山に、村が山上に開かれ山腹に千枚田がある光景を想像していただければ近いのではないかと思う。

 今回焼き畑による森林破壊を防ぐため焼き畑をやめさせる、という話はマニプール州でよく耳にしたが、ウクルルでもインパール〜コヒマ〜ディマプール間でも山が荒れているようには見えなかった。どこも緑に覆われており、むしろゴルフ場や土砂崩れ跡の多い日本のほうが悪く見える。本当に山が荒れていることに対する危機感からなのか、エコロジー系や海外のNGOが言うことを信じてプロジェクト化しているものなのか、収量増加が本音の目的だがそうはあからさまに言っていないだけなのか、謎だった。ただ、マリン族のところは平地脇の丘陵地帯だからよいものの、表土の少ない山地を常畑にした場合、今後永続的に維持できるのか気になった。

 最近テレビでフィリピンの焼き畑を鳥の居住環境破壊の元凶の一つとして、常畑に転換させる内容のものを目にしたが、少々気になった。傾斜地農業の技術をちゃんと身につけているのか心配だったし、日本で急傾斜地にある焼き畑村が、焼き畑をやめた後林業で生計を建てている話は聞いても常畑が増えた話は聞いたことがない。外部の人が地元の人を転換させた場合、その起こる結果の責任の所在という問題もある。

セナパティ−マオゲート間

 また、環境に悪いことを行っているケースは先進国にも多い。ビニールや洗剤などをつい便利だから利用してしまう自分達の生活スタイルは変えずに、数千年続く他人の生活スタイルの変更を要求するのも何だか変だ。たとえば、平野に集中して大都会を形成するのは平野の環境破壊だからと移住を迫られたらどう思うだろうか。あるいはたとえゴミの出し方という小さなことでも、上から強制されると本能的に反発を覚える人も多かろう。焼き畑も変わる必要があれば当然変わるべきで、ただあくまで本人達が必要を感じた上での自発的なもののほうが、長期的には地元のためになる気がした。生活スタイルを変える、という難題は今後環境問題と絡んで全人類に課せられてくるだろうが、今のところ、結果的に”御しやすい”人々だけがこの難題を実行させられているようで、どうもしっくりこない。

 研修生や地元NGOのワーカーの活動は、地元の人が自分の村や地域のために活動しているケースが多く(一部異なるが)、その結果が良くても悪くても、そのもたらされた環境の中で生き続けてゆかなければならない。自分自身の問題だから、”理想の実験場”にする余裕もないし、失敗したらよそに戻るわけにもゆかない。通常の企業や農家の経営レベルでの選択、実行と同じだ。ちなみに外国との接触が不自由なナガランドでは、焼き畑転換プロジェクトの話は、少なくとも説明を聞いた限りではなかった。

セナパティ−マオゲート間、ナガランド州に近づくにつれ、高度があがり山も険しくなる

 収穫後の棚田を牛が歩いて切り株や草を食んでいる。棚田は狭く、斜面も急なので転げ落ちないかと思うが、研修生に聞くと案の定転落等けがの事故も多いと言っていた。道もヘアピンカーブの多い山道になったせいか、バスが10メートル以上下の谷に転落しているのを見たし、トラックが横転して、放り出された米袋の上にアーリア系インド人がぼんやり座り込んでいるのも見かけた。道路工事を行っているところも多く、この辺境の地でも(ラダック同様)ビハール人が働いていた。また2、3度インド政府軍が列を組んで道を歩いているのを目にし、その近くに軍のキャンプもあった。ただ隊列はそうきちんとしたものではなく、だらりと伸びきって歩いている。ある橋のたもとで警察のようなカーキ色の制服姿の男性が、子供達の胸に聴診器をあてていた。マシャンガンに聞くと、GREF (General Research Engineering Force) だという。この道では、ラダックでよく見かけたオレンジ色の車体に派手な飾り付けをしたインド版トラック野郎は見かけない。このインパール〜コヒマ間は一応国道になっており、ルート39。

 マラムを越えマオゲートに到着。ここでも道路に遮断機が下りている。マオゲートを越えるともう州境だ。各自ビザナンバーが欲しいとのことで提出する。ビスウェマのキキさんが、ナガランド州政府発行の入境許可証を持ってここまで来てくれており、各自に入境許可証を配ってくれた。警察の車内点検はあったものの、彼女のおかげでわりとあっけなくマオゲートを通過、ナガランドに入った。

セナパティの少女1

セナパティの少女2

写真:学校での歓迎式、セナパティでの送別、セナパティの少女1と2は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.