インパール|ウクルル県|チャンデル県|チュラチャンプール県|セナパティ県
2.5 セナパティ県
11月13日(木)
7時半、ナガランドへ向けて出発。研修生達が大勢見送りに来ている。アチャン氏の奥さんとお別れの握手をした元指導員は、「手ががさがさだったぞ。あ、こりゃー相当苦労してんなー、と思ったね」と感慨深げ。
前列左端:マシャンガン、右端:セレナ、後列左からアチャン、ニューメイ、黒服の女性タビタ、右隣トータン、右端:東北大に留学したトンビ・シン
セナパティ県に入った頃、左手に大きな軍の施設があるところで一旦停止。ここから県庁のあるセナパティ近くまで軍の護衛がつくのだ。マシャンガンに地名を聞くと地図でコブルの町を示した。コブルの手前セクマイは、セナパティ県のクキ族の中心地。ここからしばらくクキ・ナガの民族紛争の激しい一帯が続くため護衛がつく。他の地元のバスも次々に来ては停まっている。外に出て数えてみると、20台近く並んでいた。かなり集まったところで、何台もの軍用車が前後について一斉に出発(アジア学院の記録では軍による護衛が付いた地域はインパールからセナパティ県に入る手前35キロの区間となっているが、私の記録ではマシャンガンの話でコブルなのでそれを元にしている。またインパールから護衛のついた地点まである程度乗車し、護衛の解かれた地点から訪問村までそう時間がかからなかった記憶がある)。
山や広葉樹林の感じが、高尾陣馬あたりの低山に似ている。コブルにこのあたりで一番高い山があるというが、ウクルルのような高い山岳地帯ではない。道は常に右手に川を見ながら西側の山腹を進み、谷筋に田圃が帯状に続き、向かいの山腹に時折焼き畑が見える。マシャンガンの話では、焼き畑は12月と1月に行い、焼くときは下からだという。日本では火勢をコントロールできるよう必ず上からなので、本当かどうか少々疑問でもある。やはり実際に見ないと本当のところはわからない。道沿いの川は以前は水量が多かったが、今は森林伐採で随分減ったそうだ。この手の、焼き畑の環境破壊、森林伐採による水資源の枯渇など、そのときどきエコロジー系で話題になる話がリアルタイム(1997年当時)で彼らにも伝わっているので結構驚いた。この話をあとで同室の牧師にしたところ、欧米のNGOと直につながっていることが多いので逆にその手の話が伝わりやすいのではないか、またそれを守ってみせないと援助も下りにくいだろう、と言っていた。
コヒマからインパールまでは直通バスが通っており、マシャンガンは昨日このバスでインパールへ来た。直通バスは70ルピー、所要時間7時間くらいで、路線バスだと50数ルピーと安いが、時間がかかる。大して違わない値段だし、直通だと個人用の電灯もついていて楽だ、と言っていた。地酒の話になり、マニプールやナガランドにはrice
beerがあっておいしい、他に蒸留酒もあり、セクマイにはインドで一番強い度数70%以上のお酒があるという。
今回インパールでは、マヨンシン氏やタビタさんがさかんにunder
groundsがいるから危険だ危険だと言い、見知らぬ男に声をかけられても無視しろ、一人で歩くな、と注意された。そのことについて尋ねると、一部は部族抗争、一部は反政府運動で、イラク、中国、パキスタン、ビルマから武器が入りバックについて複雑になってしまったという。1991年まではクキ族とも平和に暮らしていた、それが92年急に内戦のように悪くなった、なんでこうなったのか自分にもよくわからない。ただナガは攻撃するにしてもほんの2〜3時間だが、クキはそうでもない、とも言っていた。新聞報道によれば、1993年にはインパール周辺で、バングラデシュやカルカッタから多数移住しつつあるイスラム教徒と地元ヒンズー教徒との間で死者数百人にのぼる大規模な宗教暴動があった。またこの年以降、ナガ族によるクキ族襲撃の記事も多い。さらにナガランド独立運動派によるマニプール州でのインド陸軍襲撃の報道もあり、この旅行の後も1998年1月にマニプール州でインド軍治安部隊がゲリラに襲われ13人死亡、6人重傷の報道がなされた(背景不明)。マヨンシンが今回の旅行で一行の安全を図るため、under
grounds にも頼んだりして危害を加えないようにしてもらった、という話も小耳に挟んでいたので、マシャンガンに確認すると、そのとおりで
under grounds
をよく知っている人を介して頼んだ、10数グループあり、そのうちのいくつかはとても丁寧に応対してくれたという。特に外国人にとって危険というのではないが、ナガランドではアメリカ人が2人誘拐されたことがある。今朝マヨンシンの部屋に男達がやってきて、日本人がいるだろ何か買ってくれ等々要求してきて、マヨンシンが少しお金を渡して帰らせた、色々危険なんだ、と目をふせた。
バスは低山の山道をうねりながら進む。マシャンガンと話していて見落としたが、この道の途中に日本軍が爆破した有名な橋がある。列はかなり伸びきっていたが、セナパティの訪問地の手前で護衛が解除され、トータン氏ら数名が降りた。「こんなところで降りて帰れるのかな」と言うと、ここはクキの村だから大丈夫、とマシャンガン。民族紛争の一帯を通過し終わるまで、何かあった場合に備えてここまで同乗してくれていたのだそうだ。一行の女性陣はみな、トータン氏は水谷豊によく似ていると言っていた。ただマシャンガンは、やはりクキとの抗争で村を離れざるをえなかったせいか、彼らが下りた後「no
kukis」と言ってどこかほっとしたようだった。確かに、たとえば日本人と韓国人の場合でも、個人的には仲が悪くなくても、お互いがいる席といない席とでは第三者に日韓問題を語る口調に差が出ると思うので、わからなくもない。