就農者訪問3
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五島列島(1999年8月)
快調に進んでいた博多発長崎行きの特急だったが、いきなり飯田駅で停車、しばらく動かなくなった。おりから台風が近づいてきており不穏な雰囲気。信号機故障だというが、諫早どまりとなり、鈍行に乗り換えた頃から雨も降りだし、2時間遅れで長崎に到着したときには、風もだいぶ強まっていた。
とりもなおさず、五島列島行きの船着場へ行くが、奈良尾行きは全便欠航。鯛ノ浦行きもまだ未定だが出ない可能性が高いのと、その後の島内交通がない。それで深夜博多発福江行きにかけることにした。電話すると、出航予定で準備しているが、昨晩も欠航したので当日の電話予約は受け付けない、直接来てくれとのこと。訪問予定先にも、訪問日時変更の連絡を入れる。
時間が余ったので長崎見物をする。眼鏡橋を見てオランダ坂、孔子廟、大浦天主堂、グラバー邸など、ときおり風雨が強まる中、カップル、家族連れ、熟年夫婦、そして台湾人団体客も多く「いいところだねー」とけっこう賑わっている。
再び博多へ戻り、博多埠頭へ。どうやら船は出るようだ。7月8月は混むようで、一週間ほど前に太古号を使ったときは通路にむしろを敷いて寝たとの話も聞いたが、この日はさすがに空いており、二等の雑魚寝席でもゆったり寝られる。家族連れが多く、みな静か。出航してしばらくするとかなりの揺れ。相当のうねりがあるのか、と窓の外を見ても海の表面は多少凹凸しているだけ。4時頃より宇久島、小値賀島と寄って6時頃青方着。船上から見ていても、意外に高い山が続いており、山がちの、木々におおわれた、見通しのきかない感じの島だ。
台風はどうなったのか、灰色の曇り空で風雨はそれほどでもない。有川方面行きのバスに乗る。意外にも量販店が道沿いにある。島が大きいので道も広く、普通の海岸沿いの道のようで、あまり島にいる気がしない。掃山で下り、鯛ノ浦まで歩く。鯛ノ浦天主堂を見るためだが、古びた天主堂を想像していたら、意外にも真新しいものだった。今でも現役のカトリック教会で、ルルドの泉もある。その他殉教者記念碑、青方の郷士に試し切りで殺されたクリスチャンの一家、明治初年前後にあった最後の弾圧のときのものなど。家のまわりには家庭菜園があり、サツマイモや里芋が植えられていた。
港に出てバスの時刻を確認したあと、いよいよ広の谷へ。海岸からいきなり300m近い山になるので、急な曲がりくねった坂道をゆく。景色は本土なみの山道だが、けっこう車は通り、子連れのおじさんやおばさんが「乗ってかないか」と声をかけてくれる。「次の集落まで遠いでね」と素朴な感じ。やっと峠につく。少し下った先に、「広の谷1キロ」の看板。本道をはずれた細い道を行く。小型のざくろのような、犬ビワの実があちこちになっている。熟すと食べられるらしい。一山超えると、四方を山に囲まれた少々開けたところに出る。2軒家があり、道を聞くともっと奥と教えられる。あたりには畑、休耕田、田圃が数枚づつ谷間に広がり、何となく隠れ里的な感じのところだ。その先は急に細く、未舗装の山道になった。そのどんづまりの一軒家が、新規就農の草分け的存在である本の著者の家だった。全共闘世代特有の、人が好き、話好きな人で、奥さんともども温かく迎えてくれた。ある新規就農の知人は、「あの人の本に寄稿したことあるけど、ちゃんと原稿料払ってくれたのは彼だけですよ。やはりきちんとしたプロの編集者だと思った。運動系の人達は普通、払わないんですよ」と言っていた。また五島列島という地を選んだだけあって、都会に出て講演するよりも、地元の人たちとつきあうタイプのように感じられた。
氏の本の中に、最初和歌山の村に入り、自力で生活するすべを学んだという話があったが、確かに畑を借りながら60代以上の人からいろいろ教えられることが多い、というと
「こうなったからそろそろ種まきの時期だとか、そういうことは、向こうも系統だって伝えられるわけでもないから、しょっちゅうそばにいて何気ない一言から身につけてゆくしかないんだよね」
そして現代農業がそういう欄を持っており、地元の年寄りにていねいに聞いた話を追試した上で書いている、あれは役に立つ、と言っていた。
奥さんも交えて、地元の話をしてくれる。クリスチャンは3割、江戸末期に移住してきたので固まって住んでいる、他の地元の人はお寺に所属している。教会は今でも維持してきれいにして使っている。古いのは福見が一番古い、頭ヶ島はレンガ造りで有名、大曽と江袋も古い、青砂が浦も建築年代が異なり、面白いそうだ(写真は鯛ノ浦天主堂)。若松には古い古墳がある。
広の谷は戦後の食料難のときの開拓村で、入ってきたとき残っていた人は、著書にも出ていた隣の老夫婦だけだった。もう1軒はその頃からここが気に入り、通っていて、今ではこちらに移住している本州中部の人。ここにいた人たちは、棚田に植林したあと出ていった。金になると思って植林したが、その後何もしていない。棚田の石垣は戦後の入植者が一代で築いたもので、いかにハードワーカーだったかがわかる。このあたりはもともと漁業で、下の村も皆漁業で生活している。農業はほとんどやっていないし、知らない。隣の老夫婦だけが林を世話して育てている。
水は山の水だが、枯れることもあるので上水も使っている。家はみな風を避けて建っている。はじめ、なぜこんな日当たりの悪いところにあるのかと思ったが、風を恐れてのことだった。風は常に吹いている。
ところでここへ来る途中、鯛ノ浦向かいの半島に、巨大な施設が見えた。それについて聞くと、あれは火力発電所で福江にも送っているという。また青方港沖に石油備蓄基地ができ、日本の6ヶ月分の石油をそこに貯めこんでいる。注記:長野で棚田をやっている知人も、丹波の山猿塾もここも皆、谷戸のような地形か山に囲まれた小さい盆地(窪地)のどんづまりのようなところに入っている。また、木曽、栃木や大分でも戦後の開拓村だったところが放棄され、そこに新規就農者として入った話を聞くので、そういうケースが多いのかとも思う。
以前、新潟の友人が近所を案内しがてら、山中の平たい一画を指し「ここも耕作放棄した田圃」と言うので、もったいないねと言うと、「いやー、こういうところは大抵、戦中戦後の食糧増産時に無理して作った田圃だから、そんなにいい田圃じゃない。だから放棄された、ていうか元に戻ったていうか。平地の耕作放棄は違うかもしれないけど、こういう山の中は大抵そうだと思う」と言っていた。新規就農の話になった。「長野や房総にいっぱい行っているでしょ、八ヶ岳や鴨川とか、でどんどん戻ってきている。皆下らない理由で戻るんだよな、村になじめなかったとか。俺は長野へ行く奴は信用せん。九州は九重に40組以上入っているが皆残っている。九州まで来る奴は腹くくってくるけど、長野は東京に近いからいつでも帰れるつもりで来るんだよな、そして帰っている」と言っていた。
また兵庫で地元農家の人から、新規就農を受け入れたが、人づきあいはできないし生計は考えていないようだし、彼らは何も考えていない、こりごりだと聞いた話(兵庫西部のとある町)をしたところ
「言うことはわかるが、今の若い連中が何も考えとらんかというと、考えているんだよね、彼らなりに。世代が違いすぎて話の接点がないだけだと思う。実際違いすぎる。俺からみてもまったく違う。でも、よーく話聞いてみると色々考えているし、そうして経験や土台のない連中でもまったく駄目かというと、やってゆくうちにできるようになってゆくからな」
また女一人で立派に就農しているケースは多い、という。男一人は警戒されるが、女一人は手伝ってやろうかという感じになりうまくいっているようだ、そういう意味では女のほうが得だな、と言っていた。奥さんが畑を案内してくれた。今年は日照不足で7月は1日か2日しか晴れなかった、先日もひどい大雨が降った、雨が曇り空ばかりでできがよくない、と言っていた。今年は夏が来ていない感じだという。イノシシが増えている、イノシシはマムシを食べるのでマムシは減ったが、サツマイモ、稲、麦も食べてしまう。みな漁網を使ってイノシシ避けに畑を囲っているが、漁網は丈夫でいい。防鳥ネットにも使える。畑は不耕起で雑草も刈るだけにしているが、うっかりするとすぐに雑草が伸びてしまう、と苦笑していた。田は2枚、山の水を使っている。このあたりは台風を恐れみな早生を植える。途中、葉が黄色くなってた田を時々見かけたので聞いて見ると、ウンカが中国大陸から飛んできてその害だという。(これも、西日本ならではの気がする。)
昨年より養豚をはじめたが、子豚をぶじ成長させるのがなかなか大変。鶏は5,6羽で肥料には足りないが鶏糞を肥料に使っている。奥さんは小さいハム工房を持っており、今まで奈良尾の障害者センターで育てた豚を使っていたが、そこがやめてしまった、他の豚は有機でなく味が劣るので、やむなく自分で養豚を始めることにしたそうだった。帰り、有川まで人を迎えに行くついでがあると言うので車に乗せてもらった。1日に1〜2本ワゴンバスがこの大瀬良への道を通るからそれで来いと言ったが、乗れなかったようだ、有川からここまで歩いてくる根性はないだろうから、という。13年前に入ったが、青方からの人でここまで歩いてきたのはあんたで3人目だと言っていた。
「ここへ歩いてくるとき、乗っけてってやろうか、て声掛けられなかったか?」
「ああ、二度声かけられました」
「そうだろう、それがこの島のいいところなんだよな」そして量販店も増えたが、基本的には素朴だと言っていた。
子供たちは神の浦の小学校に行き50分、帰り1時間10分かけて歩いて通っていたという。このあと、青方に出てさらに奈良尾のターミナル行きのバスに乗る。このバスは年寄りや学生など、けっこう乗客が乗っていた。男の子たちが
「XX中学のバレー部の女の子たちからかわいい、て言われた」
「おまえ童顔だからな」
「最近オレかっこいい、て言われるよりかわいい、て言われたほうが嬉しいんだ」などなど話していた。
奈良尾から下五島の福江までフェリー。台風の影響で多少しけており、出航も遅れた。船は次々島の脇を通る。中通島の一番高い番岳は400m以上、雲がかかっている。トビウオが左右に船から逃げるように飛んでいった。兵庫西部とある町
執筆日:1999/8公開日:2003/3/26
粟の栽培を行ったことのある代々農家の人の話を聞いた。新規就農者ではないが、地元農家の人の見方として参考になると思ったのでこちらに掲載した。
粟は県から話がきて、天皇に納める献穀田として栽培したことがある。1反作ってそのうちの一升を献上する。各県に割り当てられており、その割り当て分を兵庫では持ちまわりでやっている。滋賀ではそのための予算を特別に組んでいる。タネは試験場からもらうし、指導もされるから初めてでも大丈夫、畝間120cmに2条、条蒔きしてからまびいて5〜6cmおきにする、高さは人丈くらいになった、倒伏防止に菊栽培なんかで使うネットを張り、成長するに従い高さをあげてゆく、アワノメイガの害がひどいので農薬は必須という。アワノメイガはどうしている、と聞かれたので、約1反の畑を4,5等分して粟は2aか3a、面積が少ないからかもしれないが、群馬、栃木、茨城では出たことない、と答えた。「山はいいようだが、このあたりの平野の気温の高いところは、農薬漬けにしないと無理だ」という。何に使っているのか聞くと、五穀豊穣の祭りだ、だから公が宗教行事にからんでいいのか、問題になったこともあるという。種まきは種まきで、収穫は収穫で神主を呼んで行事がある、地区の人も呼んだり飲み食いすれば金もかかる、ここでは自分持ちだと言っていた。精白は上郡に専用の業者があり、一斗以上からやってくれる、粟は完全にはできない、完全にすると粒の大きいものが壊れるので八分搗きにする。粟の産地は聞かないが、キビはある、ここいらでも自家用に作っている人がたまにいる。雑穀はもともと山住みの人たちが、山上集落でよく作っていた、ここらでは昔から聞かない、昔から米だった、野菜もさほどやっていない。粟の種まきは5月20日頃で、9月20日頃刈り取った。
関西本線ぞいのこの町は、なだらかな中国山地の山ふところに広がる平野で、こういうやわらかい景観は関西らしい気がする。都会の定年帰農者を呼びたいそうで、「この田もあまっている」「ここもサツマイモ畑だが草が生えて荒れている」と示す。彼は、定年退職の人を呼びたい、新規就農はだめだ、と言った。新規就農は10組ほど受け入れてきた、その結論が代々農家の人から見て「奴らはだめだ」というものだった。なぜか?地方の人は言葉の使い方がストレートでないので、いろいろな角度から、四方山話的に聞いてみた。答え方がピントはずれに聞こえ、整理された答えは返ってこないが、言い方が異なるのだ。いろいろ聞いているうちに、こういうことだとわかってきた。要するに、人づきあいがだめ。それを「人間としてくずだ」と言う。「大阪一部上場で年収1500万、そんなんばかりですよ。本人は辞めたと言っているが、辞めさせられたんじゃないのか。なぜ会社がああいう連中をいらないのか、わかったね」「人づきあいのきちんとできる人は、会社やめたりしない、こういうところに来ない」「彼らは逃げているだけだ」という。一人者の変わった人かと思い、独身者が多いのか尋ねると、皆妻帯者だ、でも類は友を呼ぶのか、奥さんも人づきあいの下手な人が多く、自分たちで孤立して生活しているという。子供がいるのは一組、あとはなぜかいない、そういうのが特徴だという。彼ら同士で固まっているのか聞くと、いやそうでもない、ただとにかく隣に人がいるのがいやだ、人が見えるのがいやだ、そう言う、という。口調にコリゴリした感じがあった。
中には数千万だか借金しているのもいる、その一方やめて出ていった人もいない。だがあと3年ももたないのではないかと見ている、生活できていない、普通の農家ですら生活できずに兼業なのに、新規就農なんて無理だという。「有機栽培か何かしているんですか?」と聞くと何やっているんだか知らない、何も考えていないんじゃないか、ただ世捨て人のように生活しているという。でも主張を叫ぶタイプでもなさそうだし、まあいいんじゃないですか、と言うと、そりゃオウムのようなのに来られても困るが、という。皆、2、30代だと言っていた。
定年退職者がいいのは、年寄りが来てもたいしてメリットはないが、就農、という危険のないこと、そして何よりも、その世代の人はきちんと道端で挨拶ができる、訪ねれば話もかわす、人づきあいができる。(知り合いの新規就農者にも、通常の感覚では”生活できていない”、つまり普通のレベルを稼げていない人も多い。その場合、食料は肉と調味料以外自給、そのほか子供入れて4人家族で月6万くらいで暮らし、それでいいとしている人たちもいる。そういったケースが、地元の人から見ると何を考えているのか、ということになってくるのかもしれない。
また外で隣のおじいさんの呼ぶ声がしても、気が向かないときは居留守を使う、つかまると話が長いから、などという話も聞いたので、こうしたことも地元の人からみて、なんだ、ということになるのかもしれない)なぜ人を呼びたいのか聞くと、このへんももう農業をやる人がいない、自分より若くてやっている人はいない、これらの田圃は70代以上の人たちがやっている。皆それをどう考えているのか聞くと、「考えていない人が多い(考えてもしょうがない)。今のことしか考えない。だって困らない、子供ももう勤めをしているし、ここに住んでいないことも多い」。行政も動かない、だってここは過疎ではない、新しい住宅も増えている、車で駅まで出て姫路なんかに通っている。県の農業生産年間総額は三菱なんとかよりも少ない、数%しか占めない、つまり重要な産業でない、だから守るために動かない。回りの年寄りも、こういう話が理解できない。
一人一人が収入としてでなく食べる分として作るようになれば、全体としては微々たるものでも、自給率もあがるし医療費も減るし本人の寿命も延びるし、という。
実は彼にも子供たちがいる。でも無理に継がせる時代じゃないし、オーストラリアにでも住みたいなどと言われればそれで終わりだ、そうしたらやはり処分するしかないでしょ、と言った。引き払う
公開日:2003/3/27
就農していた知人が、土地を引き払うことになった。
自分でドリルで軽トラに穴をあけ、荷物を積めるように幌をつけている。自作の作業小屋も、金槌でガンガン叩いて解体。不燃ゴミの始末では、冷蔵庫ならモーターをはずして行政の処理場へ持って行くが、バーナーでバリバリ外していた。彼女はこうしたことをすべて自分一人でこなしていた。
そして最後に、借りていた畑をトラクターで整地した。手伝いと称して行ったものの、ほとんどその様子を見るに徹するしかなかったのだが、たくましくトラクターを操り整地している姿に、農業を本格的にやる、とはこういうものだと感じた。家庭菜園や、援農とはまったく異なる。農村に女一人で住んでいると、いろいろある。牧場のバイトの外国人が夜中に来たり、電話を借りるふりをして男性に入り込まれてなかなか帰らなかったり、こわいよー、と言う。それでもやめる気はない。
この土地では農業を続けられない、と決まったあと、でもこれからも農業を続ける、その土地はどこにする、と決めたとき、腹をくくったという。そのためには、引越し費用捻出のための住みこみのバイトが必要で、荷物を預かってもらえるのはどこで、農地の条件はこうで、とやるべきことがバチバチわかってきて、その通りに動き出せばよいだけになった。
いままでは挨拶も苦手、人とのコミュニケーションがとても下手で人間関係で苦労していたが、工場でのバイトの初日、案の定手順のとろい彼女は二人のおじさんから「仕事が遅い」とうわさされているのを耳にし、どきっとした。でも、と思い直し、帰り際に「手際よくやれなくてご迷惑おかけしてすみません。さようなら」と自分から声をかけるようにした。以降もそうしているうちに、自分も仕事に慣れてくるし、向こうも笑顔を向けてくれるようになり、いまでは一番いい環境で仕事ができるようになった。仕事をトロトロやっていると怒る怖いおじさんも、よく見ると、できる人なだけに、どうしたら皆が一番うまく仕事をこなせるかを考えながらやっていることがわかった、
「あ、この人は実はとてもやさしい人なんだな」と思った、という。
「いま、刹那的に生きる、ということが一番前向きなんだ、と思うようになった」と言う。将来のことをあれこれ心配してもしょうがない。お皿を洗っているなら、お皿を洗っていると感じる。農業の将来も心配かもしれないが、
「とにかくやる。刹那的に生きる、とにかく新しい土地で農業を続けよう。何とかなるよ」そして
「必ず食べられる、て」と笑った。就農をやめる
公開日:2003/3/27
ある新規就農した人から聞いた話。
新規就農して8年。就農した当初は、その土地の奨励作物だけを栽培しており、あとは自家用野菜だけだった。しかし値段の変動が激しく、トマト、キュウリ、苦瓜、ニンニク、ジャガイモなど一定して売れるものを多品目で栽培するようになった。まわりで同じ頃に就農した人も栽培品目を変えている。
普及指導員といっても、大学出たばかりの若い女の子が来たりで、ぜんぜん頼りにならない。人も移動ですぐ変わる。町の指導も頼りにならない。農業を続けている新規の人たちは、奨励作物の栽培でも、よその県から学んできてそのやり方をとったりしている。町の顔をつぶすことになるが。数年前にハウスなど大型施設を建てて失敗した。投資しなければ借金背負うこともなかったが。今は花卉を薦められているが、あれこそお金がかかる、リスクが大きい。今バイトでやっている仕事をメインにしようかと考えている。できればもっと町場に近いところに引っ越したい。
やはり子供が大きくなってきたことも、大きい。前は若夫婦二人で何でもやれたし、貧乏でもいいと思っていた、何も怖くなかった。でも子供ができて大きくなってくると、やはりいい教育を受けさせてやりたいと思うし、できればそのチャンスだけでも与えてやりたい、と思う。
たぶん自分としては、農業はだんだんにやめてゆくことになるだろう。就農者の妻の思い
公開日:2003/3/27
研修などでいくつかの有機農家を身近に見た知人は、最初は夫婦ではじめるが、軌道にのり有名になってくると、ご主人は講演会や執筆などで忙しくなり、野菜の世話も家畜の世話も、農場の実質的なきりもりは奥さんだったりするのよね、と言っていた。
ある新規就農をめざす女性は、まわりのすでに就農した知り合いについて、「奥さんは演奏家になる夢があったが、それをあきらめて旦那さんの夢の実現に協力している。そのことを旦那さんはどのくらいわかっているのだろうか」と言っていた。
ある就農者夫婦の奥さんは、「引っ越すことになったとき、相談も何もなくいきなりあすから行くから、という感じだった、反対したって聞く人じゃない、反対するにはエネルギーもいる、それでまあいいわ、とついてきた、だから自業自得ね」とさめた口調で言った。本当はどんな夢を描いていたのか、聞きたいところだったが、短いつきあいで踏み込むのもためらわれた。勤め人が会社を変えても、家族への影響は限られるが、自営業に変えると、パートナーの生活も一変せざるをえない。特に農業となると、住む場所も変わるし、最初から手伝わない宣言をしても、生活が成り立たなかったり、収穫期の異常な忙しさを目の前にして、別の生活スタイルを貫き通すのは難しいだろう。住宅と作業場が離れていれば、まだ分離可能かもしれないが。
以前フォーラムで、新規就農者の妻が、大手企業をやめて就農した主人についてきたが、2年がまんした結論は、やはり自分は農業も農村もきらいだ、都会生活がいいと感じた、と悩みをつづったことがあった。男性と思われる諸氏からは身勝手だ、あなたを叱る人はいないのか、等々あったが、私は彼女の意見はまっとうだ、と思った。彼女はさらに、就農して年収200万を切る人と結婚したのではない、ブランド嗜好だと言われるかもしれないがXX社の年収X百万の人と結婚したと内心思っている、子供もいるし子供の教育のこともある、今の年収でしかも田舎に住んで大学まで出してやれるのか不安だ、と書いていた。それを批判する意見も多かったが、私はこれもまっとうだと思った。鳥だってまともに巣を作れないオスの巣には入りたがらない。動物も強さ(経済力)や健康かどうかで選んでいる。もとからその”健康”や”経済(子育て可能か)”の選択基準が異なり、今の生活は健康によくない、稼ぎは悪くても最低限生活できればいいから、体にも精神にも良い生活をしてそうした中で子育てするほうがよい、という人がその嗜好の人を選んで結婚し子供をもうけるのならそれで良いと思うが、ある価値観で引きつけ結婚に至った人を、別の価値観に切り替えさせ共に歩ませようというのは、かなり無理がある。
ある農家の話
公開日:2003/4/6
耕地整理は1反90〜100万かかる。ずっと償還しており、払いおえたら子供らは農業を継がないし、こちらも年を取って畑ができなくなった。
地元の工場が閉鎖されることになった。近くの工場に移動になった人は車で通えるし、遠くでも定年まじかの人は単身赴任するという。代々地元で畑のある人が困っている。
田舎はつきあいに金がかかる。所属する部落で誰か亡くなったり、彼岸には挨拶に行ったりで、お金がかかる。土地も固定資産税がかかるし、国民年金だけだと一人30万か今は40万にあがったが、二人で80万ではやってゆけないと聞く。ハウスは航空写真をとって発見され、課税されることが多い。
いなかのつきあいには、親戚と縁戚とがある。
親戚は200年前に別れた本家も含め、今では血縁はわからないが15軒くらいのまとまりで、今でも続いている。親戚は代々続き、たいていは分家。でも都会だのよそへ出て分家したのはつきあわない。ここに住む人だけだ。親戚でも、みなよそへ出てしまったりすると、付合いはなくなる。
縁戚は嫁に行っただの、血のつながった人たちか、子供の結婚相手の実家などについてを言う。これは1、2代でつながりは消える。
隣組は近所の十数軒。親戚のそばに住んでいれば、隣組と親戚は重なる。彼岸に午前中5軒、午後2軒回った。うちへも午前中3軒来た。こういう親戚づきあいも、農家の嫁をいやがる理由の一つだ。
葬式があると、近所の組で準備する。昔は全部作ったが、勤め人が多く休みにくくなり、寿司をとることが多い。最初はお汁と漬物程度だったが、だんだん酢の物や和え物をつけるようになり、派手になってきた。今は休みにくいので、初七日も葬式の日にすることが多い。昔は3日休んだ。老夫婦だけの世帯も多いが、子供とその配偶者あたりまでは手伝いにくる。
葬式には御前様(坊さん)、仕出しなど300万くらいかかる。戒名も50万から100万。昔は香典が500万くらい集まったからまかなえたが、最近は200万くらいだから赤字になる。でも一生に一度のことだから、皆派手にやりたがる。それでも斎場よりは家でやったほうが安くあがる。
去年はここらで11回あった。ここらの勤め人は、つきあいで有休が消えてしまう。4回あれば12日消える。たしかに生まれ育った自分でも、つきあいがわずらわしくなることがある。近所の人が玉子などを買いに来るとする。一度に2キロ、そのたびにお茶だししてしばらく話す。その間作業ができない。2キロだとすぐなくなるので、すぐまた来る。そのたびにお茶だしする。
昔は近所だけで店が6軒あった。数年前、3軒店じまいした。前は夕方行くと賑わっていたが、今はほとんど人がいない。郊外型量販店に行くと、安いし品物も多い。地元の店だと、店の人がいるからいったん入ると何も買わないで出てくるわけにもいかない。そういうのがわずらわしい。量販店だとそれがない。つきあいがある場合、年寄りだけの世帯だと大変だ。若い人がいるところはいいが。昔から一人所帯はかまどがたたぬが、十人所帯はかまどがたつ、と言うが、十人でも一軒だから、一人出ればいい。でもそういうつきあいが嫌だから、若い人は住まない。仲のいい友達や知り合いだけと付合えばいいと考える。田舎だと、そういうわけにはいかない。
今は農家の子供も手伝わないので、畑に何があるか知らない。それでお嫁さんが野菜をスーパーから買ってきたりする。畑の場所も知らない。境界もわからなくなってしまう。
よくある批判
公開日:2004/2/20
農業に興味を持つ人に対してよく言われる言葉に「私は地方出身だけど農業は大変だよ」というものがある。ところがよくよく聞いてみると、その人自身は生まれ育ちに農業とはほとんど関わりのないことも多い。子供の頃周りを見てそう思った、とか、親戚にいる、という程度が圧倒的で、実家がある程度の規模で農業をやっている人は、正直現代ではもはや少数派だ。下手すると結構町場育ちも多く、その場合の3,40代以下はもはや地方も都会もそう価値観や生き方、育ち方に大差はない。
これが証券や金融業などでそんなことを言っても、たいていの場合は参考にせず、もっと詳しい人にあたるだろう。しかし農業だと結構そうした物言いがまかり通ったりする。
また、「田舎には憧れだけでは住めない」というものもある。しかしこれも、逆も真なりで、都会には憧れだけでは住めない、とも言える。それでも都会に憧れて来るものは後を絶たず、大体はある程度のレベルで生活できているのだろうが、ドロップアウトしてふきだまったり、夢破れて故郷に戻る(現代では引きこもる)者も確実にけっこうな数存在する。また、田舎に合わない、という人がいるように、都会に合わない、と言って田舎に戻る(故郷とは限らない)人もときどきいる。つまりどちらも、”確実にその地で成功するとは保障できない”という意味では同じなのだ。都会から田舎に行って、合わなくて戻る人もいれば、住み着いて10年20年たつ人もいる。実際に就農し続けている人に会うと、大変だという具体的な話はしてくれても、決して一刀両断の決め付けはしない。何かやろうとする人や、興味を示す人に対しては、必ず親切に対応してくれる。また実際農業をずっと続けている代々農家の老人も皆親切である。
情報集めは、生半可な自称”地方出身者”ではなく、本当に農業と関わっている人と直接会って話すべきだと思う。
実はこの手の自称”地方出身者”は、もっとも見た目と他人の評価を気にし、彼らが批判する都会人以上に取り繕うタイプであることが多い。どこかへ旅行に行って地元の人から出身を聞かれ、東京です、と答えたりする。「その複雑な気持ちを判れ」という意見もあるが、故郷を誇りに思っている老人と話すほうがよほど気持ちがよいし、人間的にも魅力がある。なんでもそうだが、魅力的な人と会うことは重要だ。今自分が生活している場を悪く言うその一方で、自分が出てきた場にも誇りを持たない人々に魅力はないし、残念なことにこの心性が今の日本の雰囲気にかなり蔓延している。しかし、未来への本当の希望の鍵は、こういうことを言う人々の中にあるのではなく、誇りを持つ人々のほうにある。