就農者訪問2


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長野の棚田(1999年7月)

 松本から大糸線で、山の間、川沿いに田や枝豆畑が多い平地を行き、信濃大町へ。駅からはバス。かなりのくねくね道、木が茂っているため下まで見下ろせないが、実は急斜面に道がついているのだろう。村の標高は低い集落で600メートルくらい、高い集落で900メートル。

 この村には、NGOで活動している人が就農している。フィリピンでの農村活動から有機農業に興味をもったそうで、この村はNGO活動で来たことがあるのと、奥さんが近くの出身というのもあって決めた。海外の農村支援型NGOから農業を始めている人は結構多い、と言っていた。

 まずプルーン畑を案内してくれる。りんごはどこでもやっているから、と行政指導でプルーンが導入されたが、雨が多く殺菌しないと、このあたりでは無農薬は無理、ジャムにして売ってまあうまくいっている。畑のところどころに桑が残っているが、昔は雑穀、米少々、ちょっとした出稼ぎ、山仕事などさまざまな方法で生活していた、そのあと養蚕が入った。昭和30年以前の桑は実がなるが、それ以降は雄株だけ挿し木したので実がつかない、などなど説明してくれる。

tanada

 棚田もやっている。実はこちらに力を入れている。昨年、それまで荒らしていたところを棚田にしたら窒素過多でいもち病になったため、今年は肥料を入れなかったら逆に足りなかった。品種はアキタとナガノホマレ、不耕起栽培で、ここらは発芽が遅いので直播はやっていない。耕運機には手押しの中古7馬力を使っているが、この程度では大きすぎる、棚田には5馬力でもいい、大きいと上の段に上げにくくなるし、という。刈り取りはバインダー、この地区は自家用が多いので自分で干して精米している。ライスセンターは銘柄によって日にちが指定され、ナガノホマレは3年前までは奨励品種だったが以降はずれた、タネも扱っておらず自分で精米するしかない、でもみんな自分で精米しているから、という。上の3畝の田で田植の一週間後くらいにぬかをまいたら、見事に雑草が出ず、一度手押し車を押しただけですんだ。アキタコマチは強くていい。
 1枚の田にアオイ系の雑草が沢山はえており、「これが一番肥料を吸って害が多い。こうして葉が出て開いているともう除草してもしなくても同じ、吸ってしまっている」という。ヒエはそう吸わない、刈り入れのときに混じるだけだ。農家の人は畑で何を作っているかよりも米をどう作っているかをよく見ている、あれが面白い、その意地があるから棚田がこうして何とか続いているのだと思う、という。
 もう一箇所、別の廃集落になったところでも棚田をやっており、そこは水路が上下2グループに分かれている。日当たりが良く、このあたりでもっとも良い田なので、田を借りているグループでないもう一つのグループの荒れているところも復田したいが、あまりあちこちの水路グループに入ると草刈だのが大変になってしまう。ここの水は冷たいので、水口の一枚は冷水に強いもち米にしている。
 山と谷の起伏が大きいので日照時間が短い。この田は朝9時にならないと日があたらない。果樹は夕日があたらないとだめで、笹尾はよいが一ノ瀬は無理。土についても、大町との境、鷹狩山あたりからむこうは火山灰土でいい土だが別のところは重粘土で何も育たない、など、こんな狭いところでもまったく条件が違う。
 最初のアキタコマチの田も、一枚だけ葉が黄色っぽくなっている田があり、「ここはなぜかこうなる。前作っていた人も、この一画だけ生育が悪いと言っていた」。それぞれクセがある。
 霜は連休明けまで降りるので、田植えは連休明けになる。8月半ばを過ぎるともう秋、作付け期間は短い。冬はマイナス15度になる。雪は50センチくらい。高原野菜の話もあったが、産地、ブランドになりそこねた。
 上の棚田は、東京の大学の先生が作っており水の管理だけ地元に頼んでいる。新しく村に入った人が作っている棚田もある。

 村には中心集落がなく、10〜20軒単位で集落を作り、それが寄り集まった村。以前は一ノ瀬の奥に村の中心(中心集落の意味ではなく場所的に)があり、農協や役場もそこにあったが、今は廃集落になっている。行政指導によって村内移動が行われた、電気や水道もまとまっていたほうが引きやすいし、道も除雪しなくちゃならないから、という。
tanada  あちこちに城跡があり、昔は大町の西?氏が治めていたが、武田に滅ぼされ、関西から藩主が来た。この村は昔から大町とつながりがあり、年貢もそっちに納めていた。
 たいてい1集落は一つの親族でかたまっているが、2グループから成るのもある。それぞれに氏神があり、9月に祭りがある、村全体の祭りは8月にある。

 実は現在、林業のほうが面白いと思いつつあるそうだ。冬場に林業家のところで働いたのがきっかけという。そして、以下のように説明してくれた。
 普通の村は、山は大森林地主のものか国有林(山林に農地改革はなかった)だが、このあたりは細かく所有が分かれており、特殊なケースという。それも1反弱くらいづつに分かれているので、一人の山地があちこちに点在しており、登記簿上は面積が出ているが、実際はどこが誰のものかわからなくなりつつある、まとめる話もなくはないが、皆熱心でない。村の林業も、昔から山地に住んでやっていた、というのではないのでプロというわけではない、それが戦争中や昭和30年代の住宅需要のバブルでお金になり、山のいい木を取り尽くした、林業地ではトラック1台出せば1ヶ月遊んで暮らせたという時代だった。その名残があって、昭和40年代にさかんに植林した。しかし、苗なら山奥に運んで植えられても、途中の間伐などの世話や、さらに搬出がいかに大変かは、もともとプロじゃないからわからなかった、それで今になって手におえず、みなあきらめてしまっている。
 このあたりは落葉広葉樹林地帯で、照葉樹林地帯と異なるから、150〜200年を1サイクルに林が育つ(彼の話では照葉樹は800年かかると言っていたが?)。だから杉の木もほっておけば倒れる木は倒れて、150〜200年でいい林に戻るだろう。人手を加えれば、20年でいい林になる。でも今は林業不況で20年ももたない人も多いだろうし、人のサイクルで20年は長い。輸入材もいろいろな理由から頭打ちになり日本の林業が復活するという人もいるが、確かに南の国々も輸出できなくなりつつあるが需要も減ってきている、つまり今までのような建材としてのバブル期待は終わった、新しいニーズに対応してゆく必要があると思う。そのへんが、バブルを知っている人たちがいる間はなかなか切りかえられないでいる。新しく林業に入る若者も多いが、そうした認識の差が大きい。
 また、今の家は消耗品で、みな代々住まない、親がそのつもりでも子供は別居をのぞみ別に建てて住む、結局2〜30年で建て替えている、そんなものにいい木を使っても勿体ないと思う。正直、いまのような消耗品の家には、間伐材を使ってもいいと思う。
 山は10%いい木があれば、それを使いつつ若い木を育てるサイクルで黒字でやってゆける。有名な日本の林業地帯、木曽、秋田、吉野は、天然の木の育つ範囲で木を切り出すサイクルでやってきた。それが戦争とバブルで多少おかしくなった、というのはある。

 家は、車道からだいぶ入ったところにあった。
「日本の郵便局の個別配達システムはすごい。そういうことは地方に住むとよくわかるんですよ。絶対上にポスト出してくれなんて言わないもんなあ。こんな感じの家だと、アメリカあたりだと車道のところにポスト出しておいてくれ、て言われると思うんですよ」と言う。
 今借りている家は江戸末期の頃のものだという。話では、もともと農家は藁葺きの簡単なものが多かったのが、だんだんよくなっていった。この時代のものは、屋根が立派でその重しで抑えている工法、筋交いはない、また土台はいい加減で、石の上に柱を立てただけ、その石もちゃちで歪めば取り替えたり、埋もれた柱の根元が腐ったら継ぎ足したりしている。ここも根元を継ぎ足している。そのかわり、30年ごとに葺き替えるので屋根組みは立派。明治になって枠を組んで土台をしっかりさせる工法になった。
 床は自分でフローリングにしていた。見たところ完璧で、自作に見えない。ナラの板を家の歪みに合わせて切り、サンドをかけコーティングまでするのに3ヶ月かかったという。

 山の人は意外に危機意識がなく、黒部ダムで大いにうるおい、戻った人が土建業をはじめて公共事業で食べたり、勤めもある、廃村になっても困らない、だから村がなくなることにあまり危機感がないようだ、という。大町あたりで安く一軒家が建つので、大町に出て行く人も多い。村がIターンを募集したらかなり来た、だから新規参入の人もまあいる。村営住宅に入れず待機している人もいる。村には直せば使えると言われている家が30軒くらいあるらしいが、あまり貸したがらない。たまに使うとか、きれいにしなくちゃならないのが面倒なのだろう。

 山村で専業農家はなかなか難しい、しかし林業がやれるらしいと村の人から枝打ちなどの仕事も入ってくるようになった。昔はあれこれやって食べているのが普通だったのでは、一つの職業に固定した人ばかりになったのは近年のことではないか、という。
 NGOにはかれこれ10年くらい関わった。本人たちにやらせよう、と日本人スタッフが引き上げたらとたんに頓挫し、今どうするかケンケンガクガクだ。育てた現地スタッフが、給料のよい他のNGOに流れたり、他の仕事についたり、いろいろある。1980年代はじめに自分がNGOに入った頃は、大学生が中心勢力だったが、今は学生はほとんどいない。この話に、そういえば私たちの時代は、ちょうど全共闘世代が学生運動やっていたようにNGO活動(それも国際協力がらみ)をやっていた時代だったのだ、と改めて感じた。今の学生は何をやっているのだろう。

 再びバスで帰る。大町まで車で送ると言ってくれたが、地方を回るときは公共交通機関を使うか歩いたほうが、感じがよくわかるからだ。彼は
「バスで来てバスで帰る人は初めてですよ。本当言うと、やっぱり自分で来てくれるほうがありがたいんですけどね。でも結構、大町まで迎えに来てくれ、ていう人多いんですよ」と言っていた。

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大分1994

東部:田圃

 日豊線から車で30分ほど入ったところに、知人が就農した。田圃を借りている。

 田の草取りを手伝いがてら話を聞く。水が均等に行き渡らないとかで、田をトタン板で3箇所に分けていた。また、小石で畔から水が抜けるのを塞いであったのを、知らずに耕してしまい、水が抜けやすくなった、それもあってトタンを使っているとのこと。
「まだこの田圃の癖がわからなくて」と言う。
oita  無農薬で作りたいため、植え方は粗にして、風通しをよくしてある。田植えは2条植えの手押しでやった。草取りも手押し車でやっている。一反しか作っていないので農協に登録できず、ヤミで売るしかない、やれそうだったらそのうち2反半に増やしたい、土地は貸してもらえる。今年は一年目で手順もわからず、一反でも大変だと言っていた。ちなみに有機農家などでの数年の研修経験はある。品種は種で残っていたのが農林22号だったため、丈が少々高いこの品種と、隣から分けてもらったヒノヒカリという地元の米を植えている。(写真は別の田圃だが、こうした景観が続く)

 もともと棚田の景観が好きで、この近くにも青の洞門という景色のすばらしいところがある。そこでやりたかったが、棚田は機械も入らないし大変なのであきらめ、この地を選んだ。
 国東半島には、かつて六郷満山という仏教文化が栄えた。天台宗の寺が多く、国宝級の古い寺仏がたくさんあり、磨崖仏もある。入ったところは開拓村で、そう歴史は古くないが、皆仲がいいしお互い批判はしない、それでうまくやってゆくコツを心得ているという。
 大分の人はつきあいやすいそうだ。村の集まりに出たらみな勝手に意見を言って収拾がつかないほど、関東ではなかなかその場では意見を言わないのに、という。人も親切で、どうしてこんなに人がいいのかと思う一方、人の迷惑を省みない親切の押し付けもある。たとえば、無農薬で栽培しているのに、近所の老人が「ついでに農薬まいといてあげたよ」と言ったりしてがっくりくる。決して悪気はなく、見かねてというのはわかるが(それに農薬は意外に高い)こういうのは困る。開放的なので向こうから声をかけてくるし、道を尋ねても喜んで教えてくれる。関東の村だと聞いても逃げるように去っていったりすることもあった。別の新参者も、このへんはまだ農家が元気だから、いろいろ試していると、回りの人が見に来てああだこうだと興味を示すと言っていたそうだ。

 国道沿いの店に入るが、木造のなかなか凝った建物で、コップなども斜長方形だったり、若い子の食べているヨーグルトの器も円球だったりで、面白い。知人いわく、結構趣味のいい店が多い、関東あたりだとどうしても東京を真似たかんじになるが、このへんは店の人本人が自分の感覚でやっている感じがして好感を持てる、という。

山間部

oita

 大分中部には、行政が新規就農者を受け入れている町がある。
 JR駅からバス、30分ほど乗ってバス停で降り、近所の人に道を教えてもらう。坂道を下って行くと目の前に扇状地が広がる。この集落が何組か新規就農家族を受け入れている。到着すると
「えー、一人で来たんですかあ?」と奥さんのAちゃん。「バスで来た人は初めて。もしかしたら最初で最後かもしれない」
 知人一家がぶどうの収穫から戻ってきた。ご両親も手伝いに来ている。彼も大分はとけこみやすい、という。関西出身の彼は、やはり関西弁で話せるのはリラックスできるとも言っていた。農業の専門学校で学んだあと、もともと果樹をやりたくて、ちょうど大分が果樹も含めた新規就農者を受け入れる制度があるので応募した。受け入れた就農者には、月々手当てがあって5年続く、5年たって定住を決めたら償還しなくてよい。家族で入ると「本気だな」とみてくれるのもあるし、一人だとどうしても腰掛けに見られるところはあると思う、とも言っていた。
 自分たちは地元の部落に入っている、年会費5千円で労役もあるが、地元の人と話せるからいい。新規就農者はいちごをやっている人やぶどうなどいろいろ。部落に入るのは強制ではなく、入らない新人もいる。それは半部落といい、会費も安く2千円、労役もない。入ると損のようだが、飲み会もない。おじいさんたちと話すのが好きだから、いい。

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大分1997

東部:田圃

oita

 知人は勤めに出ながら、一反半の田を続けていた。
 2度草取りを行い、これから3回目を行うが、勤めながらは大変だ。ライスセンターの人に基盤整備をしてもらったのでもうトタンは使っていない。しかし前回来たときは水が一杯だったのに、今回はないので中干しかと尋ねると、そのあたりから水がぬけてしまう、色々やったがどうしてもうまくいかない、毎年何かうまくいかない、試行錯誤だという。ライスセンターの苗と自分で育苗した苗を使っているが、分株が増えない、田のこのあたりは20本くらいでまあまあだが、あのへんとかは細くて少ない、と指差す。農薬には木酢液を使っている。
 水は地域で一括して管理している。管理人は地域内持ちまわりで、勤めて出られない人は一回につき3千円払うシステム。

 地方に住むといいのは、たとえば服を買うときの簡単さ。地元のスーパーであるものを買う、好きだなー、と言う。東京にいたときは、服一つ買うにも迷った、ここは物がないから迷わない、もともと思い入れがないから、あるものを着るのは簡単でいい、という。

 知人の田は全体的に高台になっている地区で、工場などもある空き地の多いところを抜けたどんづまりにある。裏がさらに小高く続いており、行ってみた。
 斜面を登り果樹園を抜けると、溜池があった。その向こう側は低くなっていて田圃が海のほうへ続き、道はさらに小山の森のほうへと続いていた。

山間部

 3年ぶりの山あいの谷間の集落は、さらに新参者が増えていた。染色だの竹細工だの農業だので6、7軒はいる。今はもう住める空家がない状態だという。来たばかりの頃は、村にともる灯りが減り寂しかった、一つでも多く灯りがともるのを見るだけでも嬉しい、と言われていたというが、大きく様変わりだ。
 この集落はもともと結束が固く仲のよい集落で、結構若い夫婦や子供も多い、また新人を温かく迎え入れる。一番近い町にも新住民や芸術家系の人がけっこういる。新しい人に出会い、輪が広がっていろいろやれそうだ。借りている畑は7反半、回りの道も入れたら一町歩近いが、畑も家も購入して定住しようと思っている。

oita

 ぶどうをやっているが、雨でやられることが多いので露地は無理のようだとハウスを建てたり、別の品種に変えたりしている。回りに風除けの青竹をめぐらしている。農薬には韓国の有機農法で使う、蔓など勢いの強い植物から作った液を使っている。ぶどうは値移りが激しいのが難点、メロンのほうがいいかとも考えている。梅畑、栗畑もある。
 夜11時頃電話があり、畑で懐中電灯を照らしている人がいる、と村人が通報してきた。このあたりではぶどうの収穫時期になると、XXさんちのぶどうが全部盗られた、などの話があるという。知人は夜回りに出ていった。

 ここは夏になると、フリースクールを運営している人が子供たちを連れてやってくる。彼の話では、
「古楽器を作っている人だの、都会から来て林業やりつつCD出している人だの、何して食っているんだろう、というような人がまわりに結構いて面白い。不登校の子供とかにも、このレールをはずれたら終わり、ということはない、というのを見せてやりたいんですよ。都会の人もそういう子供も、みんな疲れているでしょ」
「親も、そういう子供に対して”何やっても生きてゆけるんだ”と言葉では言っているけれど、言っている本人が信じていない。不安を持っているから、聞いている子供も、口でそうは言っているけどやはり本音は違うんだと感じる。違う世界を見せてあげたいと思う」

付記:

 このあと、博多で知人に会う。夫婦ともクラブの先輩。九州出身のご主人は
「九州は人生に失敗した人にやさしい。外からの人を受け入れる風土がある」
 両親が大陸中国から台湾へ、さらに博多に渡ってきたという在日華僑の奥さんは
「結婚して子供もできて、前に比べて私は中国人、て意識が少なくなった。チャイニーズ系ジャパニーズでいいかなと思う」と言った。

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栃木馬頭(1993年8月)

 裏に山、手前に田んぼのある三町歩を購入した。もとの人は、豚を失敗して手放したらしい。馬頭町はけっこう、新規就農者のいることろで、あちこちに入っている。
 典型的な川筋とそれに沿った山(丘陵)に挟まれた山村、日当たりがいい。知人は子供も含めた家族で移住し、豚小屋を改築したログハウス風のなかなかしゃれた家を建てている。ここは山の沢水を利用できるし、薪も山から取ってくる。畑は自然農法だが、やりたい人がやるペースなので雑草だらけ、でもじゃがいもはよくできる。子供は山仕事のほうが好きで、そちらをやっている。

 米や野菜の類は自給可能で、その他の生活費もあまりかからない。現金は近所の子供に勉強を教えたり山仕事で得ている。山には、前の人が杉、檜、栗、桃、梅、お茶と植えてくれ、幸が豊かだ、と奥さん。

bato

 このあたりは一箇所に密集して集落が形成される集村タイプではなく、川沿いの道に沿ってぽつぽつ家が並ぶ街村タイプの地域。近所の人たちは何かと世話をしてくれるが、共同体には入らなくていい、といわれたので所属はしていない。

 裏山へ行くと、尾根にコンクリの杭が打ってあった。地所の境界だという。その奥は山また山が続いている。平地まで降りる途中に、小さい祠があり、家運繁栄の札が入っていた。奥さんの話では、購入したときは豚小屋だけで家はなかったそうだが、以前この祠のあたりに家があったらしい、とも聞く、という。いまでは杉林になっている。ご主人は「山の神様のたぐいではないか」と言い、みな詳しいことはわからなかった。近くに住む元の持ち主の親戚の人は、「わしらもときどき水くらいあげていたから、気が向いたらあげてや」くらいのことしか言わなかったそうだ。

 ところで、馬頭には小川乗り換えのバスで行った。奥さんから、「ここまでバスで来たのはあなたが始めてよ」と言われた。

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栃木(1990−1992年)

 栃木県東部に新規就農した知人を訪ねがてら、近くに住む有機農業家の家に何人かで集まって飲みながら話す。
「こうして農業を実際に始める人はえらい。農業をやりたい、という人は多いが、実際に始めるのは百人に一人だ」「失敗しないのは何もやらないこと。何かやれば必ず何か言う人が出る。でも言うだけの人はやらないんだな」「何々のため、自然のため、地球のため、なんて言っている人は絶対に続かない、て。自分が楽しいことをやらなきゃ。会社の仕事が好きでやりたいならそれでいいんだよ」「自分の絵を書く。農業は自由に自分の絵がかけるでしょ。速くなきゃだめだとか、それがない」有機農業家は雄弁だ。
 こういう人のまわりには人が集まってくる。知人は「特に男の人にもててファンが多い、でもあの夫婦も人がいいから。いまも居候君がいるけど、来る人みんな受け入れちゃう」。

 何軒かの有機農業家のところに住み込んで研修した経験のある知人は、「だいたい最初は夫婦ではじめて、軌道にのってくると旦那のほうは講演会や執筆なんかで忙しくなって、農場は実質的には奥さんがきりもりしているケースが多いんだよね。講演でいろいろ言っていても、奥さんがいないと実は何もできない人、て多いよ」
riceline  さらに、有機農業を始めた第一世代は全共闘世代が多いせいか、専制君主タイプの人も多いという。そして有機農業を志してやってくる男子大学生なんかにも、そういう”ほかではトップになれないけど、この分野ならトップになれるかもしれない”タイプが結構いるんだよね、など、なかなかシビアなことを言う。(写真は栃木のライスライン)

 知人は畑で、夏は朝7時くらいから12時まで、午後2時から6時頃まで働く。週3日家庭教師のアルバイトをしているので、そのときは5時半で切り上げる。週に1日、町まで野菜の配送を行っている。売上は一軒千円か二千円。かつては町の路上で売っていたが、そのときにできたお客さんが固定客となりいまの配送先になっている。また、路上販売から配送に切りかえるときに、新興住宅街をターゲットにした。すると埼玉あたりで有機野菜を食べていた人たちが、興味を示してくれた。
 固定客への配送もなかなか大変で、冬の朝は葉物がバリバリになって出せなかったり、大根を取りおきしておいたら、すが入ったりで、泣く思いもずいぶんしたらしい。作業は基本的にすべて自分一人だけで行っているが、堆肥の切り返しだけはまわりの人に助けてもらっている。基本的に野菜栽培はそれほど力仕事は必要としない。でも米は完全に有機で行うと大変だと聞いた。研修でも学んだけど、やはり実地が大きい。いま、すごくお金がなくて来年の種代も出ないので、冬はバイトに出ようかと思う。

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 車でしばらく行くと益子がある。益子はここ十年くらい急に人気が出て、外から来て修行したての、最低の技術しかない若い陶芸家の作品が数十万円で売られ、高い技術を持った地元の陶芸家の地味な作品は安いままだ、おかしい、と知人はいう。一緒にいた人が、
「でも、あれかもよ。そういう若い人の作品、て技術だけじゃなくて、いまの生活にあった感性の作品だとか、何かあるのかもよ」と言った。
 益子の修行にきた若い女性が隣組に入った場合、この界隈はまだ土葬なので、墓掘りをやらされたりして大変だ、とも聞いた。掘る場所によっては、以前埋葬した骨が出て来たりすることもあるという。(栃木は平野部と、写真のように那須山系、八溝山系のひだで起伏のあるところとある)

 近くには新規就農の人もちらほらいる。一人が先駆者的に入ってうまくゆくと、後からの人も入りやすくなるそうだ。そうした先駆的な有機農家の人の話では、最初は地元に受け入れてもらうため、夫婦でしゃかりきになって働いた。地元の人たちとも積極的に付き合うようにした、でも10年たって、完全に地元の人と同じにはなれない、と感じたとき、もう無理はしないことにした、という。たとえば隣組では持ちまわりで墓掘りの作業がある。それに当たった家は、老人一人の家でもその作業をする。年寄り一人では大変そうだったので手伝ったところ、回りから掟破りだと言われたという。都会の感覚では老人一人に肉体労働をさせるほうが良くない気がするが、田舎では感覚が違う。また、田舎ではよく回りの人が勝手に家にあがりこんだりするが、最初はそれにも付き合っていた、しかしどうしても冷蔵庫を勝手にあけて飲み食いされる感覚にはなじめなかった。だからもう無理をしないことにして、できないことはできない、ときちんと線を引くことにした、そのほうがストレスも溜まらず長く続く、と言っていた。

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山形南部(2006年夏)

 山形県南部の、ある雑穀で有名なところを訪ねた。正直な感想を書くため、場所は特定しない。駅から約12キロ、歩いて3時間ほどのところにある。道は次第に上り坂、途中いくつか集落がある。
 研修生の青年がおり、畑を案内してくれた。この春来たばかりであまり詳しくない、という彼は、稗、粟、黍、高黍ほかアマランサス、おかぼなどを栽培、今では食用の栽培は全国各地の農家にまかせ、ここではアマランサス、シコクビエなど特殊なものの種をとっている感じだ、という。見たところ、高黍は丈が150、160センチ程度、稗、黍、粟も胸丈か腰丈、とかなり低い。しかもそれぞれ丈がまちまちでそろっていない。稗、トラノオ粟、高黍はすでに出穂していた。粟、黍はまだ。トラノオ粟はみごとだが、それ以外は穂も小さくしょぼしょぼしている。正直、私がやっている畑よりも育ちは貧弱だ。

 一点興味深かったのは、畝間が広いこと。聞くと80から120センチとっており、土寄せの機械が入るようにこの広さにしているという。これは大規模に栽培する場合、非常に有効な気がした。彼も土寄せするとぐんと伸びるんですよね、土寄せはすごい効果があります、という。そしてこの広さを手で土寄せするには大変でしょ、と言ったが、正直、私はこの4倍の広さを手で土寄せしている。
 丈のむらについて聞くと、主人は肥料の濃淡ではないか、と言っている、という。肥料にはボカシとペレット状のものを使用している。耕す前に入れて耕し、2週間ほどおいて苗を移植。野菜は不耕起だが、雑穀は土寄せ効果があるので耕起栽培。不耕起では肥料は入れない。ただ、今までは全面耕作していたが、今年は畝のみ耕作、畝間は耕作していない。すると育ちがよくないそうだ。

 苗を移植している、というので、雑穀ではあまりきかないため(高黍では四国で聞いたカゲジの付記参照)、理由を聞くと、じかまきすると、なぜか生えても大きくならないという。「本当はじかまきのほうがいいんですけど」と彼、そのため手間だが育苗してから移植している。気温のせいだろうか?「確かにこのあたりは駅周辺よりもさらに2,3℃低いんですよ。4月でも雪が残っているところもあります」。でも岩手も相当寒い。土壌だろうか?高黍は経験上、粘土質だと窒息して芽が出ないことがよくあるので聞くと「粘土質土壌ではない」という。砂礫土壌でもない、普通では、と。Phだろうか?
 この話を帰ってから何人かにすると、私が畑を借りているところは条件がいいのよ、という人もいる。確かにそれはあるだろう。でもその周辺の農家は普通に作物を上手に栽培していた。

 畑からちょっと離れると腰丈ほどの雑草の藪。雑草は蕨、葛。「草刈しないとすぐこんな感じになってしまう。夏の雑草はすごいです。蕨は夏でも生える」

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