早朝4時、外が騒がしく、歌声と日蓮宗の太鼓を叩くような音がする。ベランダから下を見ると、シーク教徒の男女が20人ほど大声で歌いながら、まだ暗い中踊り歩いている。長時間かけて近所を一回りするらしく、通りから姿は消えても、歌声だけは遠ざかったり近づいたり、ずっと聞こえていた。外に出た人の話では、すぐ裏にシーク寺院があって6時頃皆そこに戻っていったという。この騒ぎはインパールにいる間毎朝続き、シーク寺院のすぐそばに宿をとるのは考えものだ、と思った。ただ通りに面していない部屋の人はこの騒音に気付かなかったそうだ。
10日と11日は2グループに分かれ、タメンロンに一泊旅行組とウクルル・パレル組と別行動になった。タメンロンはパンメイ氏の地元のため、人々の歓迎ぶり等興味があったが、私はやはりインパール作戦祭師団の激戦地のあるウクルルとパレルを選ぶことにした。 マニプール州の許可は現在のところ最高4日までしか下りない。しかもその許可証ではインパール周辺しか入れないのでタメンロン、ウクルルはじめ、セナパティチャンデル、チュラチャンプールなどの各県に入るにはそれ専用の許可証が必要となる。今回はその労をパンメイ氏がとってくれた。バスには研修生も数名乗り、道案内、説明、各検問所での通訳等を務めてくれた。
バスでインパール盆地を東に横切り、ウクルルへ向かう。途中三叉路(右写真)で休んだが、見ていると地元のバスが頻繁に走ってウクルル方面や南方チャンデル方面とインパールを結んでいる。この後パレルやビシェンプールへ行ったときにも感じたが、バス路線の充実度はラダックの比ではなく、また本数も多いので許可証さえあればバスでかなりあちこちに行かれるはずだ。車体も白地に赤のストライプ入りのきれいな小型バス。ただし結構事故も多い。
一面に田んぼが広がり、丁度収穫期で稲刈り最中のところが多い。吊るした竹篭を手で反動をつけながら、或いは足踏み水車で人力で田圃に水をやる光景を見かけ、「日本も昔はこうだった」と一行の年寄り連が懐かしがる。
盆地をぬけると、山あいに入ってゆく。ここから先はビルマとの国境までアラカン山系が続き、その先チンドウィン河を越えてインパール作戦のスタート地点、チン高地に連なる。山系のはじまりにあたるこの辺りは、山襞の重なる風景が秩父か高尾によく似ている。棚田が谷筋から山上へ向けて開かれ、山田のせいか稲刈りにはまだ早い実り具合だ。村の家々の屋根は、入母屋式か切妻造りで、インドでよく見かける平たい屋根と異なる。この地方は世界的にも雨量の多い地域なので傾斜屋根だが、それがまた日本的に見える。草葺き藁葺きもまだ多いが、スレート屋根に変わった家も多い。南部の曲がり屋のようにくの字型をした家を多くみかけた。
インパールからウクルル県に入るあたりの峠で、まずNew
Heavenと書かれた検問所を過した。しばらくしてすぐに、次の検問所がウクルル県に入った最初の町リタンにある(下写真)。リタンでしばらく時間がかかった。遮断機のようなバーで道が封鎖されており、道行く車は皆チェックされる。
これまでインドは西ベンガル州北部のいくつかの農村やニューデリー、ラダック地方を訪れたことがあるが、こうしたボーダーは見かけたことがなかった。しかしマニプール、ナガランド、アッサムではあちこちにボーダーを見かけた。また道路の左右の端から交互に石やドラム缶を何列にも並べて、車が直進できないようにしてあるところも多い。インド農大の先生の話では、警察は政府の車両も信用せず徹底的に調べる、ゲリラが政府の車を奪うこともあるから、と言っていた。翌日以降も、検問所でたまに警察がバスの中まで入ってきて中を確認することがあった。
検問所を抜けると、バスは山道を登りさらに高度をあげてゆく。向かいの山並みとの間には谷が深く切れ込み、連山がはるか幾重にも続いて信州か山梨のような光景になる。いくつかの山はトーンの違う何色かの緑でおおわれパッチワークのようになっており、1カ所は焼いたばかりのように黒々としていて、あきらかに焼き畑のあとだ。山はたいてい広葉樹におおわれ、資料では常緑とのことだが落葉しているものもあって、枯れた下草を見ると多少秋を感じる。コヒマでは葉が黄色く紅葉した木も見かけた。後に訪ねたアッサムやベンガルのいかにも熱帯的な植生とはやはり異なる。研修生はジャングルと言っていたがこの時期に見ると日本の薮に似ており、松や竹もよく見かけた。
このあたりに来ると村はみな尾根沿いにあり、研修生の話では、昔村ごとに戦っていたから山上に村を作ったという。ウクルルに来る前、何人かの研修生からウクルルにはまだ頭蓋骨をいくつも飾っている家があるよ、と脅された。ナガは戦前まで首刈り族で有名だったのだ。
しかし古くは源平合戦の熊谷直実の逸話から新しくは赤穂浪士の話まで、あるいはフランス革命のギロチンにしても、首刈りのモチーフはどの文化でも、ソフィストケートされた形ではあれ使用されていると思う。
研修生の話では、こうした山上の村は一つ一つ方言が異なり、互いに首刈りをやって通婚はなかったという。山上でも泉が湧いているのを何カ所か見かけたが、水が出ないときは下まで汲みに行っており大変だそうで、なぜ山上なのか?このあとセナパティからナガランドにかけても皆村が尾根沿いにあり、争いのためだけにしては、と疑問に思っていた。
そうしたら98年夏に高知県に行き、ひょっとしたら、と思う話を聞いた。高知は10年くらい前まではさかんに焼き畑が行われており(一部は今でも)、村も日本でよく見かける川沿いに続くタイプと異なり、山中や山上に縦に開かれている。なぜか聞いてみると「日当たりがいいから」との答えだった。また地形的に川沿いよりも山の上のほうに広い土地がとれる、とも言っていた。
また宮崎県椎葉村の隣にある諸塚をたずねた知人も、車道ができ車が通る以前は、集落は日当たりのいい標高の高いところにあった、と村人が語るのを聞いている。椎葉村も焼き畑で有名な村。ちなみに高知の須崎から梼原に抜けるバス道、特に桂集落のあたりは山上に段畑と家々が広がり、また向かいの山も同様で、ナガランドやウクルルそっくりの光景だった。ウクルルに住む日本人も、高知はウクルルに景観が似ているという。焼き畑そのものは、昭和30年代までは高知や九州だけでなく日本各地で行われていた。
シャンシャクへの道
ここまで来ると、かつて日本軍が通った道だ。休憩地点で、マヨンシン氏や他の研修生が「あの山の向こうが白骨街道 (white bone
rode)、向こうが blood
field」等々向かいの山々を指し示す。両親から当時の話を聞かされているそうで、この後もこうした話になると、「かわいそうだった、とよくお父さんが言っていた」と何人かの研修生が言うのを聞いた。途中道が谷に下りきったところで橋を渡ったとき、「この橋は日本軍が一夜で作った」とナガの研修生らはなぜか誇らしげにこちらに説明してくる。
道はウクルルとシャンシャク方面へ分かれる三叉路に至り、まずシャンシャクへ向かう。シャンシャクはインパール作戦祭師団の激戦地の一つ、今は道路沿いに多少家の立ち並ぶひなびた村。シャンシャクには帰路寄るため、さらに奥へ尾根伝いにすすみシナラコン村へ。(ここで記述するシナラコン村の位置はアジア学院作成の地図とは異なる。この旅行記の地名と順序は、バスで隣だったセレナに聞いた内容を元にしている。彼女は三叉路付近をシャンシャクと言い、また距離的にもシナラコンとシャンシャクの間はバスで20分程と近かった。またシナラコンで村人に道の行き先を尋ねると何人かがルンションと答え、戦場だったルンションかと聞くとそうだと言っていた。)
シナラコンにはリアルソン氏が運営するパイロットファームを見学に来たのだが、村に入るといきなり、回りを葦のようなもので覆った10mはゆうにある高いやぐらが二基、道路の両脇に組まれ、その間をスタディーツアー歓迎の横断幕がかかっている。そして槍を持って正装したタンクル(Tangkhul)ナガの青年たちと、やはり正装した少女たちが30人くらい整列して待っていた。その回りには大勢の村人たち。
なんだかすごいことになった、と思いつつ、村の少女たちからマリーゴールドのレイをかけてもらう。一行の全員にかけおわると、正装姿の男女はいっせいに巻き舌で歌いはじめ、2列縦隊で踊りながら動き出した。槍持ちは先頭で露払いのように飛びはねて、皆を集会場へと案内してゆく。こんな派手なお出迎えは予想していなかったので正直どう反応してよいかわからず戸惑った。テレビのドキュメンタリーの1シーンを見ているようでもあり、VIPになったようでもあるが分不相応のようでもあり、なんでこうなるの、という感じだ。
(下写真:タンクルナガの踊り))
広場には高床式に屋根をつけた建物があり、そこで歓迎会。村長、長老らの紹介、一行の紹介、リアルソン牧師の村とプロジェクトの話、と続く。長老が歓迎の言葉を述べ、日本軍が来てはじめて日本人を見た、いまあなたがたに会い久しぶりに日本人を見る、彼らは規律正しい人々だった、と言った。
リアルソン氏は焼き畑に代わる環境にやさしい農業をめざし、農民が収入を確保できるよう、畑、果樹園、水田、養魚池からなる複合経営の実験農場を20ha運営している。また体の具合が悪くて来られなかったアノットさんの代わりにご主人が来ていて、彼女のプロジェクトについて説明した。やはり焼き畑に代わる自給農業をめざして実験農場を16エーカー運営しており、今はジャカイモとキャベツだけだがゆくゆくは養鶏養豚を行い野菜の種類も増やしたいという。
研修生たちはこの後も訪問先の各地で、学校を卒業した後自分たちがどんなプロジェクトを行っているかについてさかんに説明したがったが、その熱心さに、”学校で学ぶ”ということが本来どういうことなのか、少々考えさせられた。昔は日本でも、たとえば農学校出の人は地元に戻って学んだことを還元し、また他の学校でもそうだったろう。
その後バナナ、ゆで玉子、豚のレバーや肺の腸詰めの食事がふるまわれた。
ある人が一行の団長に子供の名付け親になってほしい、と言いだし、引率の学院の先生が名付け親となって、奥さんの名前にちなんでミチコと名付けた。日本の皇后の名前でもあるときき、一同非常に喜んでいた。
そしてこの地域集会所の向かいにある農場を見学に行く。この農場はリアルソン氏が何カ所かに持つ農場の一つで、畑は山上の斜面に広がり、見晴らしがよい。チリ、ハト麦、豆、ゴマ科の植物、バナナ、粟などが植えられている。畑の端まで行ってみると、その先は急斜面となって谷へ落ちていた。
私も日本で畑を借りて粟、黍、稗、高黍などの雑穀を栽培しているので、ナガは焼き畑をやっていると聞きひょっとして、とは思っていたが、やはり粟を栽培していた。ここの粟(Langzak)は穂先が5〜6股に分かれたタイプで、私が岩手の農協から手に入れたタイプとは異なる。しかしその後岩手のバッタリー村で、様々な種類の粟や稗を県立農業大学校と協力して栽培している農家を訪ねたとき、山口県の粟としてこのシナラコンの粟そっくりの粟を見かけた。ただ岩手では気候が冷涼すぎるせいか、この粟はうまく実らないまま秋が来てしまった、と言っていた。
リアルソン氏のパイロットファーム
お昼過ぎ、シャンシャクまで戻り脇道に入ってニンタラさん夫妻が経営する学校を訪問。校庭で生徒から花のレイをかけてもらい、歌の歓迎を受ける。たまにアーリア系の顔立ちの生徒が混じるが、ほとんどがタンクルナガ族。先生はナガとアーリア系の2名が同席した。山上の広い校庭にバラックの校舎が2棟、校長室や食堂を備えた家がある。
時間がないので、すぐに昼食となった。学校のオーナーであるニンタラさんのご主人と校長先生が挨拶をして一緒に食事をとりつつ話す。この学校はキリスト教の学校で、8年生まで教えている。私立なので学費が必要であり、払えない場合は試験を受けられない。ご主人は第二次大戦中8歳、お父さんが牟田口中将にビルマで3カ月仕えた、という。General
ムタグチ、という時誇らしげだった。
ここの食事も大体同じ内容だが、からし葉をゆでたものと納豆が出た。納豆はねばねばしたものではなく大徳寺納豆系の乾いたもの、どちらもご飯のつけあわせに合う。味噌になる一歩手前の味で、静岡の浜納豆がこのときの納豆とほぼ同じ味だ。
校舎を見に行くと、椅子だけの教室に先程の子供達がびっしり座っていた。少子化なんてどこのこと、という感じで、皆あどけないがきまじめな表情で先生の話を聞いており、立ち歩いたり騒ぐ子供もいない。その行儀の良さに、ナガの家庭や社会は、たとえ貧しくとも最低限のしつけはきちんと行っているんだな、と感じる。戦前のニュース映画や、高度成長期、教室が足りなくて机のないまま廊下で椅子に座り、真剣な表情で授業を聞く子供達のようだった。
2時半に学校を出て三叉路まで戻り、ウクルルへ向かう。(右写真に見えるのがインド桜)
3時過ぎについたが、もう夕方の光だった。ウクルルは山上に広がる人口3万(研修生の話。彼らの数字はときどき実際と異なるので一応参考まで)の街。戦後10年たって中根千枝女史がこの地を訪れたときには、戸数300戸の村落だったというから、随分大きくなっている。第二次大戦当時英軍基地があったが、烈師団が入りウクルルを占領した後ここからコヒマへ向かった。ちなみにウクルルは戦士として名高いタンクルナガの中心地。
一口にナガと言っても、XXナガごとにけっこう容姿が異なる。タンクルナガの人達は身長も高めで、色黒、面長で鼻筋が通ったハンサム系が多い。パレル地方のモヨンナガは小柄、顔も体つきも丸っこく、肌も小麦色でビルマ人のようだ。セナパティから北、さらにナガランドの人達は、人によってはかなり色白で中国、韓国、日本人とほとんど変わらない。
タンクルナガの少女
ウクルル中心の高台。この奥が日本軍がコヒマへ進軍した道
かなり大きい街だが歩き回る時間はなく、バスを下りるとすぐにアノットさんが教師をしている学校へ向かう。途中の家に水牛の頭蓋骨が飾ってあり、水牛の骨が沢山捨ててあった。水牛は食用になるが、日本人には硬くてまずい、とここに在住する日本人の言。
予定どおりなら2時頃ついて生徒の歓迎会があるはずだっだのが、許可証の問題で出発が遅れたり訪問地での歓迎が長引いたりで、到着が遅くなったため、生徒達は帰った後だった。
アノットさん(右写真)の説明を校長室で聞く。生徒数千人、先生28人のキリスト教系の私立学校で、校舎も2階建て、シャンシャクの学校よりも規模が大きいが、町の人口が多いというのもあるだろう。アノットさんは気さくでバイタリティーのある女性。地元のタンクル語による教科書作成委員会のメンバーで、去年(訪問当時)からこの教科書を使い始めているという。大臣パンメイ氏もそうだが、学校の仕事に携わる卒業生が多いのでそのことを尋ねると、この地では義務教育はほとんど無いに等しい、公立校は数が少なく質もよくないという。確か1カ月の授業料は70ルピーと言っていた。
学校の隣の棟では、ジミックさん(右写真)が女性の収入向上を図って食品加工プロジェクトを行っており、アジア学院の実習で学んだケーキを地元の女性達と作って販売している。1ホール40〜70ルピーだが、翌日タメンロンから戻ってきたベンガル人ガイドはこのケーキを見て「これはいいケーキですね。インパールで売れば150〜300ルピーになりますよ」と言った。
インパールまで持っていけばより良い現金収入になることは、彼女のような食品加工に携わる人も農業関係者もわかっているが、輸送手段がないと言っていた。車そのものがまだ少なく道もよくないのだ。あと、ウクルルは海抜約2000メートル、インパールは785mなので、おそらく頻繁な往来は意外と体の負担になると思う。というのは、福島の山村で、毎日町へ車通勤していた人が体調を崩し、医者の診断で高度差から耳を痛めたのが原因だと言われて、町へ越した人を知っているからだ。
ジミックさんはもともとナガランドのディマプール出身。しかし民族紛争のためウクルルに移住してきた。逆に民族紛争でマニプールからコヒマに移動したナガ族研修生や、コヒマからディマプールに移動したナガ族研修生もいる。ナガとクキの抗争については後述するが、それでもなお誰と誰が争っているのか、こうした移動も種族等によって行く場所が限定されるのか、単につてを頼って動いているだけなのか、タイムラグによるものなのか、今一つ状況がわからなかった。
このとき、アノットさんの学校の入り口から、タンクルナガ戦士の正装姿に身を整えた老人がずっと一緒だった。彼は校長室で、自分はヤマグチという軍曹に仕えていた、今日日本人が来ると聞いて正装して出てきた、という。皆と一緒にジミックさんのプロジェクトまでついて回り、集合写真に収まったあと、皆と握手していつのまにか立ち去っていった。
4時半、もう薄暗い中(時計の時間が本来の時間と1時間程ずれている感じ)アチャン氏の農場へ向かう。彼はアジア学院で知り合った日本女性と結婚して、ここに8エーカー(3町2反)の農場を開いた。
本道から斜面を下ったところにある自宅への側道も自分達で作ったという。農場はかなりの傾斜地で、土止めをしてキャベツの苗等が植えられていた。大戦中日本兵が懐かしんだという、インド桜が1本咲いている。ちなみに桜は同じ東北インドのアッサム州が原産地。
アチャン氏はもともと公務員、その父親も公務員というから、奥さんも彼も農業経験はアジア学院が初めてだ。二人ともまだ若く、小さい子供が二人、慣れない農作業は大変だろう。アチャン氏の両親も来ていて歓待してくれた。日本人の奥さんのウクルルまで来る決断とその後の体験も相当のものがあるが、彼の親のほうでも息子の方向転換は不安だったのではないかと思う。
アチャン氏は過疎化問題(ウクルルにもあるのだ)やナガの若者が楽な仕事に眼を向けがちな風潮を憂慮していた。農場の説明をしているとき、「NAGA people are so lazy people」と何度も言っていた(このセリフは他の研修生からもよく耳にした)。ナガ人は自立心に欠け保守的だ、と言い、ゆくゆくは複合農業による自立した生活を手本として示せるようにしたいようだった。熱っぽく雄弁に語る姿には、古風な男らしさがあった。
ミルクティー、クッキー、そして餅米を油で炒めたスナック類を出してくれる。もちろん手作りで、特に餅米を使った地元のお菓子はほの甘くておいしい。これは絶対日本人が好むから、とお母さんに頼んで作ってもらった、と奥さん。彼女によれば、普段のお昼はこんな贅沢はせず、米と塩と唐辛子だけで他は何もないそうだ。
この話に、学生時代中国語の教科書に載っていた物語に、チベット人が八路軍のために米と塩と唐辛子を準備するくだりがあったことを思い出した。なぜこの組み合わせなのかずっと不思議で、おかずは軍が自力で調達し、ご飯と調味料なのかと思っていたが、本当にそれだけで食事をする生活があるのだ。しかしイタリアのスパゲッティの基本ペペロンチーノも似たようなものなので、もともと日常の食生活はどこも質素だったのだろう。
すっかり暗くなり、インパールに今日中に戻らなければならないのでおいとまをする。リタンの検問所で再び時間がかかり、男性陣はここで地酒を買う。日本酒とほぼ同じ透明な蒸留酒だったそうだ。ちなみにマニプール州は禁酒州なので、おおっぴらには売っていない。
(写真はウクルル市内。インパール方向への道)
New Heavenでは道が封鎖されたまま駐在の人が奥に引っ込んでしまっており、呼んできてあけてもらうまで休憩。脇に一軒家があり、竹を編んだ筵壁の隙間からゆらめくランプの灯がもれラジオの音がジージー鳴っている。何やら奇妙に懐かしい光景だ。山中、バスは車内の電気を消して走るので、折からの月夜に山の稜線がよく見える。昔この道を日本軍が通ったというが(空襲を避け夜行軍したという)遠い話のようで実感がわかない。しかし同行の人の中にもナガの人の中にも、まだ確実な体験として心と体に記憶している人々がいる。
9時頃ホテルに戻り、食事をしつつ東京農大卒で農業技術指導員をしていた男性と農家の人と話す。農家のおじいさんはウクルルの若夫婦について「大変なこと始めちゃったな、と思ったね。あんな傾斜地じゃ全部土が流れっちまう。逆傾斜の段畑にしないと」と言い、元指導員は「僕は果樹がいいんじゃないかと思うね」という。