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2.4 チュラチャンプール県
11月12日(水)
この日本来ならばクキ族トータン氏のプロジェクトのある(あった)チュラチャンプールへ行き、彼がその一帯を案内してくれるはずだった。しかし民族紛争が続いているとのことで、結局チュラチャンプールへ入る許可が下りず、モイラン止まりとなる。引率の先生の話では、シャンシャクで少し無理をしたので、今回は無理をしたくなかったという。
7時半に出発、最初に地元の病院を訪ねて、宇都宮のNGOから贈られた車椅子を2台贈った。このNGOの会員で学院の後援会にも入っている人の話では、アジア・アフリカ諸国では車椅子が足りないという話を各国の研修生達から聞き、一方日本では車椅子が傷んでいる場合は行政から4年ごとに支給されるため、中古の車椅子が余っている状況がある、そこでこうした車椅子をアジアやアフリカで有効活用できないか、と考えてこのNGOが設立された。今では中古の車椅子を集めて栃木工業高校の生徒達に修理してもらい、こうした国々を旅行する人に税関に引っかからない範囲で運んでもらっている。
すでにこの5年間で400台以上の車椅子を贈った。今回の旅行でも、7台の車椅子を持ってきている。病院では、贈呈式に出席した医者と看護婦さん達が、こんな最新式の車椅子をもらえるなんて、と喜んでいた。
次にタビタさんの知り合いの牧師の家庭を訪問して、彼の脳性麻痺の次女に子供用車椅子を贈る。車椅子がほぼ体に合った大きさだったので、家族の人達は大いに喜ぶが、娘は大勢の人に怯えて泣きどおしだった。この家には民族紛争で難民になった人が匿われており、彼の子供も同じ病気だと言っていた。障害者の世話は各家庭で見ており、施設等がないので大変だという。
病院や個人宅を訪問するときに裏通りを通ったが、こうした道はまだまだ狭く未舗装で、10年前のカルカッタのようだった。またガスボンベを持った人々が行列を作っているのもよく見かけ、ガイドの話では現在燃料不足でLGガスが足りない、これがインドの現状だという。今回最後にカルカッタにも寄ったが、カルカッタは今では裏通りもすっかり舗装されてきれいになっており、見違えるようだった。
インパールを抜け、田圃の続く中を走り、まずロクパチンにある第二次大戦の慰霊碑のあるインド平和記念公園(下写真)を訪れる。これが東北インドにある日本側唯一の公的な施設。1993年、故渡辺美智雄氏が外務大臣のときに、当時の首相インディラ・ガンディーとかけあって実現させた。施工は三井建設。ちなみに渡辺美智雄氏はアジア学院のある西那須野が地元で、私のいた当時も学院の入学式や卒業式に電報を寄せていた。
栃木の戦友会の人が靖国神社と栃木護国神社の木札、そして線香やお供えをたくさん持ってきていて並べる。研修生も花や果物を用意していた。朝から降っていたこぬか雨がこの頃になってあがり、戦友会の人が挨拶に立ち、英霊たちは皆さんがこうして訪れるのを待っていた、こうして皆さんが来たら雨があがった、こういう不思議なことがいつも起こるんです、と言った。そして一人一人お焼香、研修生やいつのまにか集まってきた地元の人達も焼香している。子供達も大勢来ていて、両手を合わせて拝んだ後お供えのお菓子や果物を貰っていた。沿道にはコスモス等の花が植えられており見事に満開で、雑草もなくよく管理されていた。花など一朝一夕に用意できるものでもないので、日頃から村人が守っているようだ。
この記念碑の参道の入り口には村に入る道があり、その脇に別の小さな慰霊塔がある。これはもう少し古く、墓参団の入境が認められた70年代後半に建てられたもの。「英霊よこの地に安らかにお眠り下さい」と書かれた板がはめこまれていた。村人が集まって、この塔を建てるときに日本人が遺骨を持って行った、今ここには入っていない等々話してくれる。ここも雑草がほとんどなく、よく管理されていた。
さらに南へ下ってビシェンプールへゆく。それまでは、山の稜線が幹線道の西側を遠く離れて平行に走っていたのが、ビシェンプールに来ると急に道路ぎわまで迫ってくる。東側は道路沿いに家が立ち並び、一歩中へ入ると林の中に畑、農家が点在する風景。
ビシェンプールは弓師団の激戦地で、同行した戦友会の人はここで戦い負傷したところを地元の人に助けられた。幹線道から東へ100メートルほど入ったあたりが戦場の一つで、彼は右手の林で足を撃たれた。さらにその奥左手へ折れた先の畑の脇が、地元の人達が戦死者を埋葬したところだという。もちろん今では遺骨収集団が日本に持ち帰っている。
このとき、彼を助けた、当時は少女だったお婆さんが出てきた。すでに回りには村人が大勢集まっている。やはりほとんどはモンゴル系で、たまにアーリア系の顔が混じる。お婆さんは、70年代おわりに彼らが再び訪ねてきたときに写した写真を手にしており、二人とも目に涙を浮かべていた。戦友会の人は彼女や戦友を埋めた場所に向かって深くおじぎしていた。彼はロクパチンでもビスウェマでも、自分達はインド独立の志に燃えて戦った、と語っていた。同室の牧師は、日本は戦争責任をきちんと処理する必要があると考える立場の人だが、「思想はどうあれ彼は人格者ね、個人的にはいい人だわ」と言っていた。また何かこう、はっきりしたものがある、曲げないことろは曲げない、とも評していた。
ここでも供物を捧げて焼香した後、モイランへ向かう。ビシェンプールでいったん接近した山系は、モイラン方向へ下るにつれ再び遠ざかる。あたりは一面田圃で、雨水につかった株の上に、刈った稲がそのまま並べられていた。バスにはトータン氏と一緒に働いていたクキ族のワーカーも何人か同乗しており、あの山のこうにも戦場があった、あそこには水力発電所がある、等々解説してくれる。
モイランには、インディラ・ガンディーの建てたインド国民軍の博物館があり、入り口にはチャンドラボーズの銅像が立っている。中に入ると、ボーズの閲兵風景や東条英機その他との会見写真などが飾られ、日本軍とインド国民軍の小銃や手榴弾などが並び、各種書類も展示されていた。中に、チャンドラボーズが各支部にあてた「戦況について色々うわさが流れているが、まどわされぬよう、もし重大な変化があれば自分が一番にそれを知りうる立場にあり、一番に皆に知らせるのだから」という内容のShonan発(昭南−現シンガポール)、1945年8月14日付け(!)の手紙が何とも言えない。小銃類はほとんどが錆びていた。このモイランの地は、インド国民軍が初めて旗揚げしたところで、研修生の話では、マニプールではチャンドラボーズは今でも評判がいいそうだ。
ロクタク湖畔で昼食。ロクタク湖は、いびつな円形の緑の小島がいくつも浮かんだ、不思議な景観をなす湖で、周囲が堤のように小高くなっていて、その上を歩けるようになっている。観光スポットらしく、アーリア系インド人を乗せた観光バスも何台か来ていた。 本来行く予定だったチュラチャンプールはこの道のさらに南。残念だがここで引き返すことになり、トータン氏のプロジェクトについては、ホテルに戻ってから説明を受けることになった。
この旅行では雑穀の存在を調べるため、粟、黍、稗、高黍の種を持ってきて研修生に聞いて回っていたが、帰りのバスでクキのワーカーに見せると興味を示し、栽培してみたいという。そして、どうやって栽培するのか等々熱心にきくので、ナガランドで尋ねるために少量残し、後は全部彼に渡すことにした。結局マニプールでは、ウクルルの粟を見たのと、高黍を見たニューメイ氏がこれはよく見かける、と言っていたのが成果。
途中道路端にバスが見事に逆さにひっくり返っており、一行の男の子達が「お、パパラッチ、パパラッチ」とバスを駆け下りて写真をとっていた。バスの回りには人々が呆然と(或いはのんびりと)座り込んでいる。クキのワーカーの話では、スピードがさほどでないので死者は出ないが重傷者は出る、という。コヒマへ向かう山道でも見かけ、同じ事を聞いた。バス同士競争しあうこともあるそうで、危険らしい。
3時頃ホテルに戻り、4時半から説明会なのでまた外に出てみる。南へちょっと下った先に大きなバスターミナルがあり、頻繁に発着している。この時また町にたむろっている感じの男の子達から声をかけられた。着いた当初は気付かなかったが、確かに荒れた感じが多少あるようだ。
インパール市内にて
4時半からトータン氏のプロジェクトの説明。彼はキリスト教系のNGOジャムテプランテーションで働いており、チュランチャンプールにあるサドー(Thadou)クキ族のモレン(Mollen)村で活動し、村長も務めたという。果樹を種から植え付け、長期的栽培計画を立てて軌道に乗りはじめていた。それが84戸の村全部がある民族の焼き討ちに遭い、チュラチャンプールの町に焼け出されている。
「その民族とはビルマからの侵入か。以前にその問題を聞いたことがあったが」と一行から質問が出、違う、隣の民族だ、とトータン氏。隣の人がなぜ、プロジェクトの成功を妬んでか、と海外青年協力隊経験のある青年。トータン氏は観念したように、違う、具体的にはタビタさんの民族パテイナガです、と答えた。どうしてそうなったのか、と次々に質問が飛ぶ。「自分にもわからない。でもとにかく状況は悪い、様々な地下組織ができて憎しみあっている」と彼。
この4日間、彼はずっと暗い顔をしていた。もう一人、同じ村出身のクキの女性研修生がいて、やはりチュラチャンプールに移り住んでいるが、彼女は努めてだか、いつもにこにこと笑顔を浮かべていた。この紛争を政府に調停してもらえないのか、という声に、農大の先生が、インド政府としては少数民族がお互い対立しあってくれれば好都合、みな武器はいいですよ、対政府ゲリラだと高射砲も出てきますしね、と言う。昼間話したクキのワーカーも、民族紛争ではマグナム16などいい武器が使用されている、と言っていた。この地に何度か足を踏み入れている戦友会の人も、クキとナガの抗争については「大変なことになっちゃってるな、と思いましたね」と言っていた。ちなみに一行のうち幾人かの人が、焼け出されて仕事も見つからない彼にいくばくかの援助をしてきたことを後で聞いた。
この後、プロジェクトまで来てもらえなかった他の研修生達からも解説があった。まずニューメイ氏(上写真中央、右はトータン氏)が話す。彼はアジア学院の上級コースの研修にも選ばれて再来日したくらいで、地元で良い活動を行っているのだが、何しろタメンロンのさらに奥のタメイ村なので訪問できなかった。
彼はリャンマイ(Liangmai)ナガ・バプテスト協議会のチーフ。西ドイツのNGOがドナー団体となっているデリーのAction of Production というNGOのもとで、リャンマイナガの全村落を対象に畜産園芸の技術指導やパイン・パパイヤの栽培奨励、飲料水確保や肥料作成指導を行っている。1世帯に1エーカー(3反)の土地を渡す運動、焼き畑をやめさせる指導、山をトイレにしないよう簡易トイレの配布も行う。また個人プロジェクトとして、足利銀行が毎年卒業生に送る国際交流基金を元手に牛6頭、母豚2頭、雄豚1頭を飼育して、村人へのデモと指導を行っている。さらにアジア学院に来る前から孤児院も兼ねた児童保護センターを開いているのだが、家畜の糞からバイオガスを作ってセンターの給食を調理する燃料に使っている。
(写真右下:ニューメイ氏は学校も運営している)
この後質疑応答があり、牛よりも豚のほうが飼料代がかからず良いのではないか、豚は人糞を食べるが牛は広い草地を必要とするから、という問いには、牛のほうが高く売れる、また牛は放牧するので飼料がいらない、との答えだった。ちなみに牛の値段は5〜7000ルピーだという。彼の説明は具体的でわかりやすく、元指導員は今までで一番よかったと言っていた。以前ニューメイ自身はロンマイナガだと綴りを示しつつ教えてくれたことがあるが、違うナガでもチーフになれるものなのか、ロンマイナガとリャンマイナガは同じなのか、その関連はわからない。
マヨンシン氏は今回スタディーツアーのマニプールでの世話を一手に引き受けてくれたが、本来はリーダーシップトレーニングセンターで活動し、バンブークラフトのプロジェクトも持っている。そこで作った椅子を持参して皆に回したが、腰かけ部の端の縫い込みが古タイヤを再利用したものだった。「こういうところをきちんとすると売り物になるんだが」とおじいさんたち。彼も民族紛争でナガランドとマニプールの間を何度も引っ越している。
この後研修生達と夕食兼交流会があった。アチャン氏の奥さんと、元指導員、農家の人を交えて話す機会があった。果樹がいいんじゃないか、という元指導員に、苗を植えると近所の人がみんな持っていってしまう、キャベツの苗がそうだった、だからとても無理という。回りでは何を作っている、と農家の人。
「ウリを作っていてそれはよく採れています」
「あそこの平均、最低最高気温は」と元指導員。
「よくわからない」
「冬は雪降るの」
「雪は降らないけれど霜は下ります」
「最低最高くらい知っといたほうがいいよ、そうすれば何が栽培可能かわかるでしょ」。
そして傾斜地農業の話になり、逆傾斜にして溝を切る、土を押さえるためカバークロップとして豆科のクローバー類を使う、多分山間地なら里芋もできるはず、と言った。
「あのトウモロコシは貧弱だったな」との農家の人の指摘に
「うまくできない、山の上のほうは実が入らなかった」
「トウモロコシは一列だけ植えるとうまく受粉しないことがあるからな」
初めての土地で素人なら、専門技術のいらない畜産も野菜も兼ねた粗放複合農業がいいだろうな、と元指導員が言うと、ひよこを200羽購入したが急に足がよたよたしてきて全滅してしまった、苗代も含めて持ち出しばっかりだ、と彼女。
この後コヒマから駆けつけた同窓のマシャンガン氏も加わって、ニューメイ、セレナ達と話す。彼らはスタディーツアーがあると研修生も一堂に集まれるので嬉しい、と喜んでいた。マニプールにはマヨンシン氏の組織する卒業生の会があるのでまだ連絡が密だが、ナガランドやカルカッタでは特に旧交を暖めるケースが多かったようで、研修生達も楽しんでいた。
セレナは今は専業主婦で、それを少し恥じているようなところがあった。子供を育てることは一番重要で大きな事業、再生産だよ、というとありがとうと笑っていた。
マシャンガンもセナパティ県サイクルで農業プロジェクトを持ち、2年間に果樹を2000本植えてとてもうまくいっていたのだが、クキ族との抗争で、ナガ族の彼は妻の実家のあるコヒマに逃れている。今は学校の先生をしているが本当は農業プロジェクトをやりたいんだという。10年前は少年のようだった彼も、今は二児の父親だ。
ニューメイは、タメイまでタメンロンから車でわずか1時間半、そんなに遠くないから今度スタディーツァーが来るときは是非寄ってもらう、と言っていたが、地図で見るとどう見たって3、4時間はかかる距離だ。こうした距離の過少申告は今回よくあってどんどん予定がずれこみ、いつも宿に着くのが遅くなった。それだけ皆自分のプロジェクトを見てもらいたがっているわけなのだが。
彼は、普段はオフィスの車でタメイ−タメンロン間を移動している。またニューメイは、3人の子供をマドラスの学校に通わせている。年2回帰省し、彼らだけで帰ってくるときもあるが、最近は危いので迎えに行くという。大変でしょ、と言うとカルカッタからマドラスまで just 2 days' trip だと言った。お金がかかりそうだが、地元の学校は信じていない様子だった。ただし卒業後はタメイに戻してプロジェクトを続けさせるという。
このように外地の学校に子供を通わせている研修生は結構いて、ニンタラさんも4人の子供をデリーの学校に通わせていて、ご主人と交替でデリーへ行って面倒を見ている。小さい頃からマニプールの外で教育を受けると、ナガの文化を忘れてしまうからだそうだ。パンメイ氏の子供達も、メガラヤ州都シーロンの学校に通っている。ちなみにこのシーロンはとてもいいところだそうで、同室の牧師がインパール行きの飛行機で隣席になったフィリップスに勤めるインド人から、「シーロンはイギリス風の街並みで美しいところだ、是非行ってみてください」とさかんに薦められたそうだ。シーロンは東北インド全土がアッサム州だった頃の州都。