東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)
カルカッタ旅行記
  (1997年)

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2.マニプール州


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インパールウクルル県チャンデル県チュラチャンプール県セナパティ県

2.3 チャンデル県

11月11日(火)

 6時出発でパレルへ向かう。ここもチャンデル県なので許可がいる。この日は、タビタさんのプロジェクトを訪問するので、彼女が案内役を務めてくれた。インパールの町を南へくだり、シンジャメイバザールとコンババザールを通ったとき、「ここがインパールで一番賑やかなところ。何でも手に入ります。麻薬も。危険なところでもあります」と言う。この両バザールを結ぶ界隈がメインストリートのようだ。

 バスは一路南東へ向かい、パレルに到着。三叉路になっており、直進すれば祭師団の激戦地テグノパール、その先モレはもうはビルマ国境の町だ。この道は今やビルマからの麻薬街道になっている、とタビタさん。

 バスは南へ折れ、2キロ先の村に入る。手元の資料ではこのあたり一帯はコムラタビという地名だが、朝食をご馳走になった村の人達は自分達の村をMonsang村を呼んでいた。あたりは未舗装の車道の周囲に多少平地(田圃)が広がり、その周囲に緩やかな丘陵地帯が続いている。アラカン山系の西の端にあたるようだ。まだまだ草葺きの家が多く、屋根は大抵入母屋式、少しいい家だと道路側にベランダがついている。

 丘をあがった上に、リワチャンニン・バプテスト教会があり、ここで8時半に朝食。マニプールのナガはほぼ全員キリスト教なので、村長さん、長老を始め大勢正装して教会で出迎えてくれる。ここはモヨン(Moyon)ナガの村、皆独特の青いショールで、これが色も鮮やかでなかなか素敵だった。ショールの色や模様はXXナガによって異なる。教会の庭で一行の紹介、挨拶が続く。


 村長(上写真右端)が、第二次大戦中日本人が来た、規律正しく立派な人達だった、何も私達に悪いことしなかった、自分は英軍の密偵として日本軍の動きを見ていた、何人くらいいつどこへ行くかを見て報告していた、しかしチャンドラボーズのインド独立の思想に共鳴して、日本軍に密かに会っていた、と話した。この村長もシナラコンの村長も、この後ビスウェマの歓迎会で話した長老も、戦争と日本の話をした後、必ず"That's all" とだけ言って何の感想もまとめも言わずにいきなりぶつりと話を終えた。その唐突さが逆に言葉には置き換えられない、胸の奥にしまわれた幾多の思いを感じさせられた。

 モヨンナガの村長さんは英語で話したが、シナラコンやビスウェマでは現地語で話し、それを研修生が英訳し、それを引率の先生が日本語に訳して聞くかたちになった。研修生は皆英語ができるが、日本人にときどきいる英語をワンセンテンス喋った後「ね」や「でしょ」をつけるしゃべり方に似た話し方をする人がいる。そのことを指摘すると、彼らのナガ語でも語尾にノがつくので、ついつい "XX・・・ノ" と喋ってしまう、という話だった。一緒にいたアメリカ人の先生が、「そうだったの。日本人のクセがうつったのかと思って心配していた」と言った。

 食事のとき、村長さんがあの山を横切って見える道が日本軍が敗走していった道、White bone road だ、と言った(右写真山の道)。祭師団の悲惨な退却行については、従軍記者だった丸山静雄氏の『インパール作戦従軍記』に詳しいが、同著の退却行の開始地点はほぼこのあたりである。南北に伸びる山系を東西へ抜ける道筋だったため、何度も深い谷を下りては、雨季で増水した川を渡らなければならなかった。

 インパールへはバスが出ているというので、1日に何本か聞くと、村長は5分ごと、と言い、回りの人達は「そんなに出てない」と大笑いになった。しかし割と行きやすいようで、距離的にも道路状況からもウクルルより便利な感じだ。

 朝食後、歩いて数分のところにあるタビタさんのプロジェクトを見に行く。タビタさんはアメリカで設立された現在世界100カ国で活動する国際的NGO、World Vision の職員で、まだ20代前半と若いが意欲的。彼女はパテイ(Patei)ナガ、小柄だが目鼻立ちのはっきりした、意志の強そうな大きな瞳が印象的な女性で、インパールからこの村に通って活動している。

 村の飲料水確保のために掘った井戸、福利厚生のために建てたコミュニティーセンターと図書館を見学。井戸を見た元農業技術指導員は、「これもっと深く掘んないと雨季には濁るぞ、飲めんぞこれ」と言った。確かに井戸はつるべの滑車が錆びていて、あまり使われていない感もあったが、彼女は今でも使っているという。図書館には現在英語の本や雑誌が多い。モヨンナガ語の本があるかときくと、無い、でも必要だと思っているとの話。ウクルルでもそうだったが、いずれ自分たちの言葉で教育を行い知識を得られるようにしていきたい感じがある。

 図書館にいるとき、一人の村人が紙切れを手にして、これには何と書いてある、と尋ねてきた。見ると「右の者は休暇で村に帰ることを許可する」という内容の旧日本軍の休暇証明書。タメンロンに行った人達は軍票を見た、という。また引率の先生の話では、アジア学院に来る東北インドの研修生も、おじいさんやお父さんから「大切なものだと言われた」とこの手の紙切れを預かってよく持ってくるそうだ。今回会った研修生の多くも、お父さんかお爺さんが何だかのかたちでインパール作戦と関わっていた人が多かった。日本軍に食料を提供したり荷物運搬を引き受けたりで、代価として軍票類を受け取ったり現物支給を受けている。このコムラタビの証明書も保存状態がよかった。学院に持ってくる人達もこうした人々も、見せるだけで何も要求はない。

 見学を終えた後、いつのまにか村人が大勢集まっていて、村のつきあたりにある記念碑を見に行くことになった。何やらモヨンナガを一つにまとめた人の記念碑だ、等々説明してくれるが、あまりナガやマニプールの歴史に詳しくないため、いまいち内容がよくわからなかった。この時また、自分は日本軍のGeneralに仕えていた、会いたい、生きているだろうか、というおじいさんが来た。祭師団は全滅に近かったと本で読んだので無理じゃないかと思うが、引率の先生は丁寧に当時の年齢を尋ねる。4、50歳の人だったというので、戦後もう50年以上、「生きていても90かover 100。無理かなあ。でも一応戦友会の人に聞いてみます」とこうした話もきちんとメモに取る。

Monsang村からパレルへの道
パレル奥が祭師団と英軍との激戦地テグノパール

 このときだったかウクルルかシャンシャクだったか忘れたが、回りにいるナガ人から、「日本人とナガは兄弟だ」という話を聞いた。なぜか聞くと「ある先祖に二人子供がいて片方がナガになり、片方が東へ行って日本人になった」と言う。誰がそう言っているのか聞くと、「ナガの有名な人がそう言っている」と言う。そういえば台湾の友人からも、「台湾人と日本人ルーツ同じね。徐福が日本へ渡ってその子孫が日本人になった。台湾の小学校でそう習うよ。だからあたし達兄弟ね」と言われたことがある。一方北京の知人にこの話をしたら、「違う、中国人と日本人は兄弟じゃない。全然別、そんなこと学校で習わない」と言下に否定された。

 この記念碑からバスに戻る途中、何人かの人から住所を聞かれた。中には軽いノリや文通めあての人もいたが、一人得体のしれない感じの人がいた。妹の文通相手と言っていたが今一つ目的がわからず、不完全にしか教えなかった。村人は素朴だが、麻薬街道に近いこともあり多少ウクルルと雰囲気が異なる。こうしたことはこの後もときどきあり、ナガランドではあきらかに一人の男性が指示してナガの女性や若者に日本人(特に若者)の住所を集めさせていた。
(右上写真:竹を編む人)

丘の上にある教会からの眺め

 バスでパレルまで戻り、そこからビルマ方向へ折れてヌンゴーロク村へ。ここはマリン(Maring)族の村で、コミュニティーセンターを建てて啓蒙活動を行っており、マリン族得意の竹細工で副収入を得ようとしている。母体となっている団体はインド政府公認の地元NGOで、マリン族に限らず周辺諸族の92の村で活動を行い、農村の生活向上と各部族の融和をはかっているという。

 センターには正装の村長、長老をはじめ大勢の村人が集まっており、手作りの軽食がふるまわれた。マリン族は容姿がモヨンナガによく似ている。黒いショールの人が多く、女性の巻スカートも鮮やかな原色の地に細かい格子模様の入ったもので、ナガに多い赤黒白の色使いや縞模様と異なり独特な感じだ。

マリンナガの女性たち

 センターの資料では、アイモル、ラムカン、クキなどと同列にマリン、モヨンを並べている。しかし、モンサン村の人達は自分たちのことをモヨンナガと言っており、マリンナガというナガの支族もある。どこまでがナガでどこまでが別種なのか定かでない感じもある。(1999年、この村からアジア学院に研修生が来た。その際に尋ねたことろ、ここのマリン族もマリンナガであることがわかった。)

 この村にもタビタさんの World Vision の作った、先程よりは規模の大きい井戸があり、その前で写真撮影。彼女いわくこうして日本人等外国人が訪問した写真を欧米のドナー団体に送ると効果があるので、とのこと。

 この後バスで再び移動して、ロンロさんが働いているNGO(WSDC)が活動を行っている村へ行く。NGOの資料では、住所はカンシム村だが、オフィスの女の子はここをSiddarth村と呼んだ。インドの地方の住所は、郵便のP.O.Boxのあるところまでしかないため、本人が住む村の名と住所の村名(郵便局のある村名)とが異なる場合がある(あるいは大字小字の関係か)。

 この村もマリン族の村でロンロさん(下写真の説明している女性)もマリン族、彼女はアジア学院で堆肥作りとボカシ作りを学んだのが今非常に役に立っている、と言う。森林を守るために、村人に焼き畑をやめさせ定住化をすすめているのだが、回りは山が多く地力がない。肥料を使うという考え方は日本に来て始めて知った、堆肥を使ってじゃがいも、ショウガ、地元の独特な豆類等を育成して村人にその成果を見てもらっている。堆肥は積上げ式と土中の穴で熟成させる方法の両方で作っており、切り返しは3回、5〜6カ月で完熟するという。ちなみにマニプール州の一般的な気温は夏で30℃ちょっと、冬の最低は零℃。現在月1回半年のコースでマリン族に堆肥作りを指導している。このほかこの実験農場では鶏、豚、牛も飼っている。ショウガはこの土地にあっているようでよくできる、高く売れるので今後こうしたものを増やしたい、と言っていた。彼女が、自分は今まで大した人間じゃなかったが、アジア学院に来て堆肥とボカシ作りを知り生まれ変わった、自分も有用な人間になることができた、と一生懸命に話す姿は心を打った。

 その後質疑応答があり、その中で元技術指導員が山羊を飼ってはどうか、戦後日本の農村でも食生活向上目的でよく飼った、と言うと、山羊は何でも食べるので一番困る動物だ、との返事。つないで飼うものだ、という彼にここでは動物を繋ぐ習慣がない、と彼女。ナガランドでも同様の返事だったが、アッサムの農村では山羊を繋いで飼っているのをよく見かけた。植物の繁殖力にも関係があるかもしれない(日本は1年に何度も野菜が収穫できるほど肥沃。ゴルフ場で農薬が必要なのも、この肥沃さでイギリスハイランドの景観を実現させるのに無理があるからだろう)。また彼は、日本では展示方式といって堆肥なら堆肥でうまくできた作物をならべて、農民にその効果を示してみせるが、ここでもそうしたらどうかと提案した。

 NGOのオフィスでお昼がふるまわれる。いずれアジア学院で学びたいという若いノーブルな顔立ちの女性ワーカーと話す。焼き畑は必ずしも森林破壊につながらないのでは、と言うと、彼女は人口が増えていて焼き畑では生産力も低く土地もいる、常畑で肥料を使えば小面積で一家が養える、という。環境よりも、そのあたりが本音かもしれない。

 日本でも昭和30年代までは全国あちこちで焼き畑が行われてきた。宮本常一氏の本を開くと、東京の西高尾の裏でも昭和20年代まで焼き畑を行っていたことがわかる。それが今ではほとんど消えてしまい、四国に焼き畑村を見に行くというと会社の女の子に「えー、日本でも焼き畑なんてやってるんですかー」と言われるくらい異次元の話になってしまった。私自身、3、4年前までそう思っていたし、今の30代以下はおおかたそうした感覚だろう。たまたま新宿の民俗学映像研究所の上映会で記録映画を見ているうちに、焼き畑の記録フィルムを何本か目にすることができた。高知県椿山、宮崎の西米良、長野の奈良田、福島の茂庭の4本である。自分でも畑を借りて雑穀を作っていることもあって興味を持った。

 民映研ではスウェーデンの研究所と共同でスウェーデンの焼き畑について調査を行っている。一時期焼き畑は熱帯雨林等の環境破壊の元凶のように言われていた。しかしその場合の”焼き畑”とは、一度焼き払った後永続的な牧草地等にしてしまう、本来の焼き畑とは全く異なるものを指すことが多かった。また、本来の焼き畑を問題にする場合でも、人口が増えサイクルを無視した過剰なものになっている場合だった。

マリンナガ族

 今焼き畑は、もともとはきちんとしたシステムに基づいており自然破壊ではない、という考え方が出てきている。日本の焼き畑について調査したものを見ても、15年〜30年のサイクルで何百年、数千年と続いてきた。焼き畑をやらなくなったのは、環境破壊や”遅れてる”という理由からではなく、ここ3、40年で生活が大きく変わり自給自足の生活がくずれ、現金が必要になったがための自然消滅、といってよい。
(右下写真はWSDCのコミュニティホールにて)

 高知で最近まで焼き畑が行われていたのはお金になったからで、お金にならなくなった今、訪問したほとんどの村で焼き畑をやめていた。「以前は焼き畑で三椏(みつまた)を作っていい収入になった(かつて四国山地の焼き畑村はお金持ちの村だった、という話を民映研の人から聞いたことがある)。今はもう三椏は売れないので、1980年代から焼き畑の後に杉や桧を植えていった」という。今山は針葉樹林でおおわれているので、恐くて火をつけられない(針葉樹は燃えやすい)。この話は複数の村で聞き、「今の農業は昔の農業とすっかり変わっちゃったから」という。このセリフも、私が現在週末コースで農業を学んでいる茨城の鯉淵学園の先生や、畑を借りる茨城や群馬の農家でよく耳にする。農業だけでなく生活全体が、ここ30年ばかりの間に大きく変わった。

  テレビ東京で1999年1月6日に九州椎葉村で今でも焼き畑を続けている老夫婦の話を放映していたが、回りが焼き畑をやめていったのは「子供を皆大学まで出したいと思うと焼き畑では難しい」、また体力的にきつい仕事だから、と言っていた。夫婦は黍や稗の種を残しておく必要もあるし、と今でも続けている。高知県梼原町役場隣の町営資料館の職員によれば、梼原では今でもときどきやっているという。民映研の職員の話では、山形の温海地方ではおいしい大根を作るため今でも焼き畑を続けているそうで(温海大根として売れ、ときどきテレビでも放映される)、礪波平野ではおいしいカブを作るためわざわざ平地も焼き畑にする地域があるという。焼き畑の大根、カブ類の美味については高知でも耳にした。

シダース村の子供たち

 話を戻してシダース村。昼食後、時間があったので回りを歩いてみる。オフィスは丘のふもとにあり、前の道を奥へ登ってゆくとマリン族の住む丘陵地帯に入る。逆に行くとすぐにインパールとモレを結ぶ幹線道路にぶつかり、平野が広がる。

 幹線道路から村に入る口に、中央政府軍がいた。道路脇に二人の兵士がライフル片手に立っており、道路をはさんだ向かい側に草葺き家があって、廂の下に5、6人いる。この家に常駐している感じだった。アーリア系兵士の他に、何州出身かわからないが独特の黒いターバン姿の彫りの深い顔立ちの兵士もいて、長身足長とやたらスタイルがよい。警察はモンゴル系が多いが、軍隊はいかにも日本人の考えるインド人、という顔立ちばかりだ。マニプール州やコヒマ周辺では、バスの車窓から各村の出入口に軍が駐留しているのをよく見かけた。アッサムに入るとそれがかなり減り、カルカッタ郊外では目にしなかった。

 田圃ではモンゴル系の若者達が収穫に励んでいる。マリン族ではなく、やや長身で東アジア系に近い顔立ちの平地民族だが、何族か聞いていない。刈った稲は束ねずにそのまま田圃に並べて干している。この時期風があまり吹かないためかもしれない(滞在中ほとんど風を感じたことはなかった)。顔に黄色い染料を塗っている女性や子供が多いので尋ねてみると、タダミといい日除けだと言う。ウクルルでも見かけ、セレナにきいたときも日除けだと言っていた。しかしたまに模様を描いている人もおり、あれではムラ焼けしてしまう。しかし逆にそれが目的なのかもしれない。翌日ロクパチンの村でみかけた老人は顔に見事な模様を描いていて、聞くと模様だと言っていた。このとき、お昼一緒だった女性ワーカーが探しに来て、危険だから一人で歩かないほうがいい、と言った。

 

インパールの平野はヒンドゥー教徒のメイテイ族が住み、稲作をしている
ナガ族は基本的に丘陵地帯や山岳に住んでいる

 バスでインパールに戻る途中、道路脇で脱穀をしていたのでバスを停めて見学に出る。元指導員が一見して、「ひどい田圃だ。ヒエが相当混じっとるねこれ。どうやってのけてんのかね」という。農業大学の先生がヒンディーで尋ねると、脱穀時に風に飛ばしてよけるとの答えだった。黒いイモチ病に罹った米も混じっていた。

 インパールに戻り、World Visionのオフィスに寄り、その後第二次大戦のイギリス軍墓地へ行く。オフィスには Windows 95の動くdigitalのパソコンが何台かあったので、さわらせてもらうと、会計処理やプロジェクト管理、報告書作成等を行っていた。墓地へゆくと入り口に若い男の子達がたむろっていて声をかけてきたが、マヨンシンが「よくない連中だから相手にしないように」と言う。彼はしょっ中インパールは危険だから見知らぬ男に声をかけられても無視するように、と言っていた。墓地に眠る人の多くはイギリス兵だが、グルカ兵、セポイと書かれたものや、A soldierというのもあった。

  一行の中には従軍経験者も何人かいて、夫を戦争で亡くしたお婆さんは A soldier の墓碑銘に「かわいそう・・・」と絶句していた。小さいお堂にノートが置いてあり、めくると訪れた人の感想が well maintained などと書かれている。住所から見るとイギリス人の他にフランス人も多く、漢字は無かった。

 この日の最終の訪問地は、クキ・バプテスト教会で墓地のすぐ南にある。この頃急に雲行きが怪しくなり、コンクリート3階建ての立派な建物に入った頃、かなりの雨が降ってきた。クキの人達もこの時期にめずらしい、という。昼間は丁度稲刈り日よりであちこちで刈っていたので、どうなったか心配だ。

 この日本当はセナパティ県サイクルにあるハオキップ氏のプロジェクトを訪問する予定だった。彼もサダル丘陵地域開発プログラムの責任者として World vision で働いており、急に都合でカルカッタへ行くことになったため、このプログラムのオフィスのあるインパールのクキ族教会でプログラムの説明兼夕食会となったのだった。ただ13日にセナパティ県に入ったとき、このあたりを民族紛争の激しい地域であるからと軍隊の護衛付きで通過したので、このことも行かれなかった遠因ではないか、という気がする。

 ハオキップ牧師(別人)によるお祈りと簡単な礼拝の後、クキ側の人達の挨拶や一行の紹介があり、卒業生のハオキップ氏の代理がプロジェクトについて説明した。サイクルの約120の村を対象に、村ごとにその地にあった開発プログラムを行っている。ここでもショウガの栽培を奨励しており、他にサトウキビやレモンの苗を分けたり、リーダートレーニングや学童の奨学制度、農業・園芸の技術指導を行っている。将来的には養鶏養豚の導入から、大工仕事、手芸、英文タイプなどの職業訓練も行いたいという。

 この後、クキの人達から男性にはネクタイ、女性にはマフラーがプレゼントされた。もちろん柄はクキ族の模様。アジア学院の東北インドの卒業生はナガ族が多いので、クキ族の存在が薄く(研修生として来日しない年も多い)少々かわいそうというか、こうして一行の半分の人達に大きなプレゼントをくれたこともあり、申し訳ない気がした。今回も民族抗争その他で、結局クキのプロジェクトは一つも訪問することができず、彼らもとてもがっかりしていた。クキは肌は焦げ茶、タイ人のような感じだがさほど濃い顔立ちではなく、すっきり系も多い。プレゼントの後、若者や子供たちなど大勢クキの人達が入ってきて、机を並べ夕食のメニューを次々に運んでくれる。人なつこい人達で、みなでしゃべりながら賑やかに食事、最後はあちこちで写真大会になった。

 ホテルに戻るとタメンロン組が戻ってきていた。同室の女性がタメンロン組だったので、色々話を聞く。彼女は、自身が20年以上前にご主人のキリスト教牧師とともに福島県の山村で農村開発に携わっていたことがあり、そうした経験から研修生の仕事を見て批評するので勉強になった。農村女性の収入確保のため、ハンディクラフトの事業を軌道に乗せた実績もある。現在は彼女自身も牧師の資格を持っている。

 タメンロンへの道は舗装されているものの決して良い道ではなく、しかもバスでなく乗用車に分乗したので大変だったそうだ。パンメイ氏に軍の護衛が付いたため、検問所でひっかかるなどということはなく、延々7時間200キロの山道を走り、疲れた、でも景色はきれいだったという。

 タメンロンは美しい峡谷や滝、洞窟などの景観を誇り、野生のランでも有名な地域。途中ロンメイ(Rongmai)ナガのパメイ氏のところで昼食。パンメイ氏はロンメイナガ・バプテスト協議会の職員で、16、7町歩の牧場と果樹園も経営している。タメンロンに到着すると、まず県庁舎に案内され、その後教会で大勢の村人が出席する中歓迎会がもたれた。その夜は教会に分宿。翌日は、パンメイ氏の運営する全校生徒約650名のクリスチャン中学校を見学した。

「パンメイさんは村の出世頭、頭のいい人ね。もし日本に生まれていたらもっと色々なことができただろう、て言っていたけれどそれ、て自信のある証拠よね」と言う。そしてこの中学校運営の成功例があるから、他の研修生も学校をやる人が多いのではないかという。「みんな人のやることを見ていて、まねするところあるでしょ」土地がら柑橘類がよく出来、パパイヤ、インドりんご等各種果物もおいしかったそうだ。お茶をおみやげにもらい、私にも分けてくれたがウーロン茶のような風味の茶色いお茶。そのほかタメンロンでは赤米も栽培している。

 明日訪問予定のチュラチャンプール県はクキとナガの抗争が激しいため許可が下りるかどうか微妙な情勢。夜9時半に結果がわかり、役所に詰めているタビタさんからマヨンシンに連絡が入るとのこと。

タダミをつけた少女達

写真:モヨンナガの女性たちとシダース村の子供達は「写真家」氏撮影

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Last updated:07/02/15 .  First uploaded:01/02/23 .  ©1999-2010 XIER, a division of xial. All rights reserved.