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宮崎椎葉村
執筆日:2001公開日:2003/3/29
日向市からバスで上椎葉へ向かう。おじいさんお婆さんでほぼ満席、途中からも次々乗ってくる。話を聞いていると、温泉に行くらしい。西郷温泉で一気に空いた。椎葉村の人は、普段バスに乗るのは温泉かせいぜい諸塚まで、そのあとは貸切になる、と言っていた。諸塚までは2車線のいい道だが、それ以降は山道。山の中腹を川沿いにうねうね行く。沿道の崖側にときどき家があり、ときに足場を組んだ上に建てている。山向いの中腹にも集落が見える。
2時間半かかって上椎葉着。ここから椎葉村の各方面へ、村営のワゴンバスが出ている。乗客は買い物か病院で、みな元気によくしゃべっている。最終バス停までは40分、さらにその奥にも集落が続くが、時間があるので目的地よりも手前で降り、少し歩く。谷底と山上との高低差はかなりあり、道から入った高い斜面に集落がある。地元の人の話では、道路ぎわにたまにある家は分家筋、土地がないから道ができたあと建てたうちが多い、とのこと。尾前の小学校には、焼畑資料館がある。
菅の迫へ行く道を聞くと、「昔はあった。そこに小学校があった頃は立派な道があったが、今はない」「下の店の脇に、小学生が通る道が今でもあるはず」「今は夏休みで子供が歩いていないが、一本道だから迷わない」と言う。行ってみると、完全な登山道、毎日歩いて通っている子供たちに脱帽。高知の東祖谷村村長が東京新聞に書いていた、朝早く村を出て尾根道を歩いて昼11時頃学校に着き、また2時頃学校を出て帰っていった、山から通ってくる同級生たちの話を思い出した。この道はそれほど遠くないが、30分弱かかって林道終点という舗装道路に出た。ほかの集落からも、子供たちは歩いて尾前の小学校まで通うと言っていた。
ここからは山腹を平行に行く。日当たりのよいところにぽつぽつ集落がある。城跡もあった。倉の迫には、立派なハウスが幾棟もあり、黒い寒冷紗で覆ってしめじやきのこを栽培していた。四国で見かけた、例の丸太にトタンを乗せ石を重しにした、道端のミツバチの巣もあちこちにある。畑やしいたけ栽培をネットでおおっているところがあるが、鹿よけだと言っていた。
椎葉村で聞いた話:
ここでは中学生は寮に入る。上椎葉周辺は自宅から通うが、それ以外の東西南北に広がる地域の子供たちは寮生活を送る。土曜のバスで自宅に帰り、日曜のバスで学校へ行く。かつては5〜600人の生徒が大きい体育館のようなドームで寮生活を送った。松尾にも中学があるが、その2つしかないので、上椎葉は日本一の寮と言われていた。3年生が1年生のご飯をよそうしきたりがあった。20人一組が同じ部屋で室長がいた。ホームシックにかかった女の子もいたが、うまいもんが食えるから嬉しかった。水無までは比較的早くバスが通ったので、水無までバスで来てそこから歩いた。日曜の昼、皆でバス停で待ち合わせてまた学校へ行った。大河内の連中はほとんどすべて歩いた。朝早く向こうを出て学校へ戻り、土曜も学校を昼出て夜着いていた。
三十年前までは中卒がほとんどで、いわゆる集団就職で岸和田だの和泉だの大阪に出た。紡績企業が多かった。当時高校に進むのは珍しく、親戚中でお祝いをした。中学の寮も多少寮費がかかったし、高校から下宿だと月5万かかる。二人三人子供がいると大変だ、田舎は他は安いが教育にお金がかかる、子供を教育するにはよくない、という(これは別の女性からも聞いた)。
今の子はちょっと雨だったりするとすぐ車で送り迎えされているから、軟弱になった。子供の数も減り、人ともまれていない。けっこう若者が村に戻ってきていて、それが問題になっている。「都会の人間関係に疲れたから」と戻り、親のところにいれば食うのも寝るところも困らない。親も困ったと思いつつおいてやる。でも村に仕事はない。バイトやときどき賃仕事をしている。
外国人の嫁さんはいるが、月何万だか仕送りしたり、ある程度お金が貯まると別れたりという話は聞く。
(別の山村出身の知人も、隣家の男の子が戻ってきてひきこもっている、卒業後町に出て働いていたが何かあったらしく戻ってきた、子供の頃はよく一緒に山で遊んだし勉強勉強言う家でもなかった、と言っていた。別の地方出身の友人は、「そういう話やいじめの話は、都会よりむしろ地方のほうがあると思う」と言っていた。)
もともと椎葉村は尾前の北は宮崎の藩、尾手納の奥は熊本の人吉藩、大河内など南は島津の藩だった。風習も言葉も違うから、たいていどこから来たかすぐわかった。
また焼畑で有名なところでもある。今でも続けているところがあるが、それは広い土地持ちだから可能だった。大分から30年、ずっと通っている大学の先生がいる。だから彼は焼畑のことは何でも知っている。ただ、近年は鹿の被害がひどい。
椎葉神楽も有名で、博多や宮崎から毎年見に来る人もいる。5地区あり、11月末から12月の土日にかけて次々奉納してゆくから、毎週見る人も、見るところを決めて来る人もいる。たいてい一晩中やって、飲み食い自由の無礼講、出し物は同じだが33曲あり、それぞれ地区によってまったく違う。
冬は雪が昔は1m積もった。峠は2m。今は暖冬だから30cm。(昭和20年か30年頃仕事で何度か椎葉村に行ったという鹿児島の人も、あそこは雪が深い、当時は道も未舗装ですごかった、と言っていた。)
ちょうど、同じ宮崎県の綾町に寄ってきたところだったので、その話をすると「夜逃げの町を復興させたそうだが、でもあそこは町に近いでしょ。宮崎から車で30分だし平地に近いし。だからいろいろできる。ここは厳しいよ。上椎葉まで出るのに車で40分。そこからさらに駅まで2時間かかる。つくづく大変なところだと思う」
むかしは小さい集落にもおまわりさんがいた。尾手納あたりだと分署があって5人くらいいたときもあったが、今は上椎葉にしかいない。人口が減ったからじゃないか、何人あたり何人と決まっているのだろう。時々回りにはくる。尾前の小学校も昔は300人いたが今は20数人で複式だ。
耳川はダムの多い川だが、その一つのダムの対岸の集落は陸の孤島のようなところだ。入り江になっていて、ぐるっとまわりずっと奥まで行かないと道からは行けない。今道を作っているところだが、前は船で物資を運んでいた、このダム湖にもポンポン船が出ていて、大河内のほうへ行っていた。今はダムはボート禁止になっているが、入り江が深いからその方がずっと速かった。まだ段段畑が残っており、3軒ある、みなおじいさんたちだ。
選挙では誰がどこに入れたか大体わかる、投票率99.99%だ、山行って忘れとっても電話だので呼びに来る、昔は担架にのせて文字書けんでも何か書かせて投票させたという。
伊豆
執筆日:1995/5公開日:2003/3/19
須原で聞いた話。
このあたりは夏でも涼しく、夜は窓を閉める。冬は雪が降る。
以前は山の上まで段段畑があったが、今は放棄されつつあり、水害が出ている。昔は田や畑もあり、養蚕もやっており、農業で食べてゆけた。炭も焼いていた。今でも、ここなら何が起きても生きて行けるよ、と子供たちに話している。
みかんは海沿いに多い。海風があたらないと甘くならず、山のみかんは猿も食べない。
東京から山の家の管理人として移ってきた人の話では、山へ入ると村人が必ず見ており、何取ったときく、山菜も取りにくいし、なかなか溶け込めない、と言っていた。
福島昭和村
執筆日:1996/5公開日:2003/3/19
昭和村は有名な檜枝岐村のさらに奥に位置する村で、古い風習を残していることでも有名。NHK仙台などが定期的に記録を撮っており、いまも残る座棺による土葬の風習が紹介されたりする。特に大内地区は民俗学者垂涎の地という(大内地区にて)。
高名な民俗学者が一時期この村に拠点を構えていたことがある。その学者の教え子にあたる人の話では、「やっぱり閉鎖的でいろいろ難しくて、あきらめたみたいだよ」という。一方、この村出身の友人は、「廃校になった小学校に蔵書とか置いていたらしいんだけど、なんか村のおやじとかが学校が懐かしくて訪ねてっても、入れなくしてあったりしたらしいんですよねー。それもちょっと困るかなー、て」。大切な蔵書というのもわかるが、閉鎖的と言われる側にも、それなりの理由はある。
本土で唯一カラムシ織(古代の布)の技術を残しており、カラムシ織を村振興に活用しようと、「織姫プロジェクト」で都会からカラムシ織を学ぶ若い女性を受け入れている。村出身の友人は「絶対来ても定着しないよ、て思っていたんだけど、結構その後も残っているみたいなんだよね。結婚した人もいるらしいよ」
友人はこの村を出たくて仕方なかった、という。中国から来た嫁が逃げたり、日本人の嫁も「クサムシがきらいだ」と去っていったり、という。隣の只見出身の知人も、うちの町でもタイから来た嫁が国に豪邸を建てたあと逃げた、計画的だったのだろう、と言っていた。
冬には2、3メートルの雪が積もる豪雪地帯で、積もれば二階の窓から出入りできるほどで、近年(2000年)も週刊誌で特集されていた。一階の窓には雪囲い用の板をはめるところがついている。昔は雪囲いが木の板だったため、冬になると一階は昼間でも夜のように暗くなり、あかりをつける必要があったが、いまは半透明のプラスチックの波板を使っている。
村へ通じる道路は東西南北に4本あるが、冬は会津柳津からの道路以外すべて冬季閉鎖になる(現在は博士山のトンネルが開通した)。昭和40年代生まれの友人が子供の頃、記録的な豪雪に襲われたことがあり、そのときには会津柳津の道路も閉鎖され、ヘリコプターが出たという。
人家のあるところは密集しているので、雪降ろしのやり方で、うちのほうに捨てただの、もめることはよくある、とのこと。
村に高校はなく、会津若松に出るため、高校から下宿することになる。
東京方面から村へ帰るときは、野岩鉄道で只見に出て、そこからバスか車だが、
「只見まで来ると、ずいぶん山の中まで来たなあ、でもあたしの村はあの山のさらに向こうなんだ、ていつも思う」
訪問したとき、知人の地元の友人も訪れて子供の頃の話に花が咲いた。そういえば小学生の頃、大内の子供たちは冬は雪で来られなくなるため、寄宿舎という冬場だけの合宿所で寝泊りしていたね。いまは除雪されるので大丈夫だが。低学年の頃までは、学校まで歩いて通ったが、途中からスクールバスが拾ってくれるようになり、何キロも歩かなくてよくなった。小学校前には村に唯一の信号機があるが、あれは子供に教えるためだ。中学校になると、なぜか野尻、喰丸といった両脇の集落の子達はバスケ部か卓球部に入り、中心部の人はバレー部、体の弱い子は美術部、と決まっていたね。あれって面白いね、地区で代々しっかり受け継がれているのよね。
「たとえば中心部の子でもバスケがしたいから、てバスケ部に入って来たりしないの?」
「なんかないねー」
「そういうことをする子がいない」
寒い地方には、固雪渡り、しみ雪渡り、という現象がある。寒い日の翌朝は、雪が固まって足が沈まなくなる。すると田んぼでもどこでも、固雪渡りで歩いて学校まで行くことができる。
ところで不思議なことに、この村からは誰も戦争に行かなかった、と知人はいう。そんなこと、て、あるのだろうか?
(写真は村内に残る双体道祖神)