君 ヶ 畑 / 蛭 谷

2007年11月          

 かつて日本には、土地に定住して農業工業商業を営む人々のほかに、「道々外才人」と呼ばれ、定住せず、山野市町に漂泊する人々がいた。歩き筋とも呼ばれる彼らは、行者、山伏、聖、毛坊主、御師、巫女、比丘尼、遊女、猿回し、傀儡子、人形回し、万歳、タタラ師、マタギ、サンカ、博労、杜氏、木地師などがおり、生業的に未分化であるジプシーと異なり、日本の歩き筋は職業分化していた。
 それぞれ特異な生業者技術をもって遍歴しながら、体得した知識や情報を、閉鎖性の強かった定住者社会にもたらす、文明の伝播者だった。
 特に木地師は巡国制度があったため、よく記録が残っている。山の八合目以上の木は切ってもよいとする木地屋文書などは、「関渡津泊の煩なく自由な諸国の往反遍歴を天皇によって保証された前代の供御人の生きざまに脈絡すると考えられる」。
以上、網野善彦「中世における天皇支配の一考察」岩波書店、渡辺久雄「木地師の世界」創元社から抜粋

 このほか、このページの内容は、橘文策「木地屋のふるさと」未来社、文化庁文化財保護委員会「木地師の習俗1」平凡社、文化庁文化財保護部「木地師の習俗2」平凡社、橋本鉄男「木地屋の習俗」岩崎美術社、橋本鉄男「漂泊の民」白水社も参考にした。

永源寺

近江八幡から、木地屋のふるさとの君ヶ畑、蛭谷へ入る途中にある寺。
紅葉で有名。










君ヶ畑への道

 木地師は、惟喬親王を祖と仰ぎ、近江国愛知郡小椋庄に住む木地師一門を本家とし、地方に散在する木地師すべてを分家とみる、擬制的同族組織だった。小椋庄でも、もとは一年交替の輪番制神主だったが、17世紀頃より特定の家筋に固定し、筒井公文所、高松御所となる。

 近江の本元からは地方へ勧進に出る巡国、巡回りが行われた。5〜10年間隔で通常二人、3〜6ヶ月で一地方を回る。
 一方、地方の木地師は本山(オヤマ)である君ヶ畑、または蛭谷を一生に一度訪問することを願った。

 明治に入り、社会制度が大きく変革し、木地屋社会も影響を受けるようになる。明治15年、蛭谷が筒井八幡宮、帰雲庵を中心に惟喬親王千年祭を営み、全国各地から何千の木地屋が集まり、壮観を極めたという。翌年、君ヶ畑が大皇大明神、金竜寺を中心に千年祭を執行した。このあたりを境に、オヤマの威光も木地屋の生業も大きく変貌し、木地屋社会は終焉を迎えた。

 今では永源寺の先にダム湖ができている。右は茶畑。








蛭谷

 木地屋のふるさとは、蛭谷と君ヶ畑に分かれる。蛭谷側が先に氏子狩をはじめ、その後君ヶ畑も対抗して独自の氏子狩を行うようになった。
 蛭谷には筒井公文所、筒井八幡宮、帰雲庵があり、吉田神道家の系統。5月5日大祭、7月惟喬親王祭。
 かつては筒井千軒と言われるほど人口が多かった。右下の写真は筒井神社(筒井八幡宮)入り口。







 全国に散在する木地屋が増えるにつれ、本山との連絡もとりにくくなったため、天正・永禄の頃より、宇佐八幡宮の氏子巡回をまねて氏子狩が始まった(巡国制度)。複数の巡国人が人口調査を行い、木地屋の来歴と祖先信心を説き、木地頭を設けて初穂料を集め、隠れて仕事をしたり別家して届けない者を監視した。




 轆轤は二人挽きで、たいてい夫婦で作業する。用器の古さは家系の古さ、源流の神聖さを示すとして誇りにしたため、新しい用器を進んで取り入れることはなかった。
 ただし幕末から明治に入ると改良が盛んになり、足踏み式(非常に作業が楽になる)、大車ろくろ、水車ろくろ、ハズミ車付きと出てくる。
 左の写真は伝統的な二人挽きの手挽きろくろ。

 かつては、庶民の食器は白木の器だった。これを作っていたのが木地屋だった。東北のこけしも木地屋の仕事。資料館のこけしは、東北地方の木地職人から納められたもの。





 木地屋は「日本全国入山勝手次第」の御綸旨を保持し、山の八合目以上の木は切ってよいことになっていた。所有権のない山などないので、それなりの手続きが必要であり、その際に木地屋文書が必要とされた。

 木地屋は誇り高く、農民との結婚を位落ちするとして好まず、同族婚だった。仕事が難しく、農家の娘では役に立たなかったこともある。
 転職も祖先の伝統を捨てると嫌われたが、幕末に頻発した大飢饉と慶応年間以降の世相の変化に、自尊心よりも日々の糧のほうが大事になる。
 天明、天保の大飢饉では風来坊扱いで食料を分けてもらえず、餓死者が相次ぎ、全滅した集落も多い。




 氏子狩(氏子駆)は蛭谷で32冊、49990人、29回(1647-1882)、君ヶ畑で51冊、9734人、22回(1694-1873)、不定期に行われた。
 木地屋には移動しない者もいるが(地木地)、移動するほうが多かった(渡−わたり−木地)。5〜60年で回帰、10キロ圏内を移動する(この項「木地師の世界」渡辺久雄氏による)。

 18世紀に入ると、豊富にあった資材が枯渇しはじめる。尽きたところとまだ残っている地域との差が大きく、特に近畿は枯渇したため、よそへ移動したり百姓になる者も出てきた。
 巡国人が訪ねても、百姓になるなど転業した者は次第に寄付を断るようになってゆく。巡国人も次回からは巡回してこなくなっていった。




 江戸末期、陶器の食器が一般にも普及しはじめる。さらに統制が崩れて、一般の百姓も勝手に木地製品を作って売り歩くなど、木地製品の値下がりに直面する。木地挽きでは暮らしがたちにくくなって植林、炭焼き、野良仕事で稼ぐようになり、さらに転業する人が出るようになった。




筒井公文所と木地屋資料館。要予約


君ヶ畑への道

 木地屋道は尾根伝いの間道。通常に比べ、短時間で完走できる。巡国人が回る際は、山道に詳しい木地屋が次々案内に立ち、送り届けたという。
 昔の山住みの人たちが尾根道を利用していた話は、木地屋以外でもよく聞く。「峠の村へ」(飯田辰彦著 NTT出版)には、昭和になってからも信州から福島まで女の足で3日で走破して嫁に来た話が載っている。
 尾根道を好む別の理由として、冬に雪崩で大勢木地屋が亡くなった事件がきっかけで、尾根道を使うようになったとの話もある。

 中世以前の日本の山間交通は、冬季積雪の害を避けるためと最短距離という理由から、尾根道が最高度に利用された。彼らはきわめて健脚で、日に三十里の往復を意に介さなかったという。








 君ヶ畑の集落のお墓。関東とは違っていたので珍しく、写真に撮った。
 木地屋はいったんその地を去れば、二度と墓参りにこないのが普通だという。祖先の墓を軽んじるようだが、一代のうちに山々を渡り歩く生活では、墓参は事実上不可能。



君ヶ畑

 君ヶ畑には太皇器地祖神社、金竜寺、惟喬親王御所(高松御所)があり、白川神祇伯家の系統。4月3日、9月11日が大祭。














太皇器地祖神社


 明治の世になると、世の中が大きく変わった。
 明治4年、明治政府は太政官布告をもって官有地民有地を区別して国民に土地の私有権を与え、入会山も共有となる。一方、木地屋には寸地の既得権もなく、これまでのように資材を追って自由に山から山へ移住できなくなり、大恐慌をきたした。
 地租改正事業に関連した地券交付にあたり、「日本全国入山勝手次第」の御綸旨は一片の空文となって、官民いずれも所有者の許可なく一木一草たりとも自由にできなくなった。
 筒井八幡宮と善後策を協議し、御料林の払い下げを願い出て許可されたところもあったが、各地で地元と木地屋の間に摩擦が生じるようになる。

 明治5年、戸籍調査が行われる。当時、全国の木地屋は蛭谷か君ヶ畑の支配下にあり、原籍を滋賀県愛知郡東小椋村大字蛭ケ谷、君ヶ畑としていた。戸籍制度が始まると、移動・流浪の民は徴兵忌避、義務教育放棄、納税義務違反の三大義務の放棄を問われるようになり、徴兵令違反、官林伐採の軽犯罪の宣告を受けることもきわめて多くなる。
 こうして、全国の木地屋から無籍無産に関しての問い合わせが、小椋庄の戸長役場へ送付されてくるようになった。役場でも手を焼き、県令あてに伺い書を出す。滋賀県では、各地の県庁へ願い出るべしとする。小椋庄では、できる限り木地屋が現住地で入籍できるよう、送籍し続けた。

「明治維新は日本の近代国家発展への暁鐘、木地屋にとっては死命を制せられた挽歌であった」
     −「木地屋の習俗2 愛知県・岐阜県」文化庁文化財保護部編 平凡社

 昭和32年に文化庁が行った調査では、木地屋系の集落を訪ねても木地業は跡を絶っており、存命中の老人の話を収録するしかなかった、過疎化の影響は天明・天保の飢饉の比ではないとする。



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