北海道(平取とジャッカドフニ)

2011年11月          

平取

平取はアイヌ民族の人々が数多く住んでいる町。トマト栽培で有名な町でもある。
平取への道  沙流川沿いに上る  右下は二風谷の民宿チセにあるアイヌの神様オキクルミの像





左上 二風谷ダム湖 反対運動もあったが平成4年に完成
右上 周辺の山にはブナや落葉針葉樹のカラマツ林が広がる
下:ユオイチャシコツを復元した公園(二風谷) 案内板によれば”チャシコツとは「城」「砦」とも呼ばれたが、もともとは「柵」の意味で祭祀を行ったり見張りをしていた”とある。17世紀中ごろまで使用されていたという。





上:二風谷アイヌ文化博物館(町営) 左写真は高床の穀物貯蔵庫と熊を飼う檻(写真奥の2つの木枠)
家(チセ)の入り口は西端にあり(南向き)、窓は南に2つ、東に1つ、北と西にはない

下:萱野茂二風谷アイヌ資料館  右下はバッタリー。岩手でも見かけた(木藤古





右上:チセ(家)の内部(アイヌ資料館) 囲炉裏の上の貯蔵棚は本州でも見かける
左下:トイレ 小さい三角がメノコ(女性)用 右隣の大きいほうが男性用
ただし文化博物館の説明によれば、通常は女性も男便所を使い、メノコ便所は悪さした熊の死体を入れ神へのお仕置きとしするなどに使ったという
右下:アツシの織り機(アイヌ資料館)





左上:イヨマンテの祭壇 イナウは御幣の原型とも言われる
左下:アツシ オヒョウの木の皮から作った糸で織った衣装 そこに和人から手に入れた藍染の木綿布を縫いつけさらに刺繍をして紋様をだしていた(いずれもアイヌ資料館)



草や木の皮で編んだ籠  右下:粟、高黍(モロコシ)などの雑穀とアオダモで作った農具(アイヌ資料館)





左上:沙流川上流看看橋近くの牧場  右上:看看橋近くチャシ(中央の岬の突端にある)



網走

 網走は北方民族色の濃い街。
 まず、網走には5世紀頃から8世紀頃まで栄えたオホーツク文化の遺跡が残っている。
 北海道の歴史は縄文時代のあと、続縄文時代(弥生、古墳時代頃)、擦文文化(奈良平安時代)と続き、12世紀頃からアイヌ文化期になる。オホーツクの民族が一時的に道東に来て住んでいたことがあり、オホーツク文化と呼ばれている。彼らはその後忽然と消えた。

右:網走駅 左にオホーツク文化を担ったオホーツク海人の像がたっている

南樺太が日本領だった時代、南樺太には樺太アイヌやロシア人のほか、樺太五種族とされたウィルタ(オロッコ)、ニブフ(ギリヤーク)、エベンキ(キーリン)、ウルチャ(サンダー)、ヤクートの人々が住んでいた(括弧内は当時の名称。他民族による他称のため、現在は当該民族の自称が名称となっている)。

彼らは第二次世界大戦末期、旧日本軍の情報機関に召集され道案内や戦闘に駆出されたため、戦後ソ連によって戦犯の判決を受けシベリア送りとなった。その後、一部が日本への移住の道を選んだ。

1980年代になって網走在住のゲンダーヌ氏とアイ子氏がウィルタ民族であることを公表して表に出るようになり、網走にウィルタ協会が設立される。さらに北方民族に関する日本初の資料館ジャッカ・ドフニも網走に開館した。(詳細は田中了氏や波木里正吉氏らの本に詳しい)

30年たった今、ゲンダーヌ氏もアイ子氏も亡くなり、ジャッカ・ドフニも2010年に閉館した。しかし網走ではウィルタ刺繍の教室が今も開かれ、学んでいる人も多いそうで、みな日本人だという。また市内でポスターなどにウィルタ紋様が使われているのをときどき見かけるが、ウィルタ協会関係者いわく、著作権が気になるから最初は注意していたが、今では黙認しているとのことだった。
ジャッカ・ドフニはなくなったが、道立の北方民族博物館が天都山に設立され、サハリンだけでなくロシア北米などの諸民族についても展示されている。流氷まつりなどに花を添える網走市の観光案内嬢を流氷パタラと呼ぶが、このパタラはウィルタ語で”娘”の意味だという。

北方民族を意識した観光イベント”オロチョンの火祭り”もある(オロチョンはエベンキの1支族名との説もあり、この名称には批判もある。個人的には、エキゾチックな語感から決めたのでは、という気がする)。

写真上:網走市内 アプレフォーの通りだが、今繁華街は国道沿いのショッピングセンターに移っている
左下:屯田兵上陸記念碑  「屯田歩兵第四大隊第一、二、三中隊597名の兵員とその家族が4つの団体に分かれ英国汽船武揚丸、武州丸、東都丸(再航)に乗船、波濤を越えオホーツク海網走沖合に到着、はしけをもってポンモイを含む網走港に上陸した」とある。その後野付牛、ム力両原野に入植、開拓した。





天都山への道  左上:吹雪避け柵  右上:道端にあった馬頭観音 周囲は酪農家が多い
左下:針葉樹の森  ただ車道を歩いているだけなのにエゾシカの群れをよく見かけた
右下:道立の北方民族博物館  ビデオ資料も豊富で、イヌイットの狩猟の様子、ツングース系シャーマンの踊りなど興味深い映像も多い
学芸員の話では、木綿や鉄製品は交易で手に入れていたという
アイヌ民族にも、山丹交易で手に入れていたきらびやかな絹製中国服をアイヌ風に仕立て直した衣装がある





左上:天都山頂上より 網走湖方向  右上:天都山頂上より 右がオホーツク海
流氷館の説明によれば、オホーツク海は、北3分の2は浅い海、千島列島が海山脈として壁のようにそびえ海水の移動を妨げる地形で水の入れ替わりが少ない。さらにアムール川から真水が大量に流れ込むため、表面の塩分濃度が低く、このため流氷ができやすいという。同緯度のイタリアやアイルランドは暖流が流れ込むなどで流氷はできない。

左:天都山の落葉樹の林

下:少数民族ウィルタ・ニブヒ戦没者慰霊碑





国境の民
 国境には、両国にまたがって居住する少数民族の存在することが多い。国境の両側を行き来する民族は、国境を明確に確定したがる近代国家にとってはやっかいな存在であり、一方スパイ活動に利用されることも多かった。
 戦前、中国大興安嶺のオロチョン族や、樺太のニブフ、ウィルタが旧日本軍の対ソ戦情報工作に利用された。国境にまたがって居住していた少数民族を情報戦に利用したのは日本だけでなくソ連側も同様だった。北サハリンのウィルタは戦前は対日待遇格差を見せるため優遇されたが、戦後は冷淡になったという(田中了氏の本による)。
 『邦領南樺太オロッコの氏族について』石田英一郎1941年によれば:
「共通の歴史と言語を有する民族が二国家間の国境にまたがって居住する場合、この民族をはさんで複雑な問題が生じる」「モンゴル人、ツングース系諸族を国境両側に有する満州、外モンゴルとソ連がそうである」「北緯50度を境に日ソ両国に住するオロッコ、ギリヤークも同様」「白人は新大陸発見以降、多くの苦しい経緯を経て異民族に対する学問が非常に進歩した。異民族統治経験の乏しいわが国は、辺境の地における土着民指導の涙ぐましい活動にもかかわらず、志とちがう結果を招来しやすいのではないか」
 中生勝美氏は『サハリン先住民の民族誌再検討:オタスの杜の戦前・戦後』で「ポロナイスク市郊に建つオタスの杜に住んでいた男性たちの戦没者慰霊碑の中に、石田英一郎の調査に協力した男性の名前が刻印されているのを見ていると、オタスの杜というロマンチックな響きの村に訪れた不幸と、近代国家の狭間で揺れ動いた少数民族の悲哀を感じる」と記す。
また中生氏は「これまで戦前に日本語で書かれた民族誌のある地域を再訪し、日本民族学の足跡を再構成する仕事をしてきたが、(中略)それはフィールドで文献調査と実地調査を繰り返しているうちに、戦前の民族誌が、植民地や占領地統治、あるいは軍事戦略的な意味があるのではないかと気になったからである」「(オタスの杜について)その軍事的な位置づけや、日本とロシアの国境を越えて分布する民族として、軍事的にいかなる意味があるかを意識して調査した研究者はほとんどいない。また、国境警備隊や敷香特務機関が、必ずしも専門家の民族誌を利用した形跡は見られない。しかし(中略)地理環境の豊富な知識。耐寒性、狩猟民としての射撃能力、ツンドラを移動するトナカイの知識など、軍隊が必要とする情報と民族学の研究対象が類似していることは、驚くべきことではない」



ジャッカ・ドフニ

上:白いテントはアウンダウ
右上:本館

ウィルタはアムール川下流に居住していたトナカイ遊牧民族。冬季は気温が零下50度まで下がり韃靼海峡が凍結する。このためシベリアからトナカイを追ってサハリンまで渡ってきた。
一方、ニブフは狩猟民族で犬を飼い犬にそりを引かせた。旧日本陸軍は、北方作戦用に極秘に馴鹿部隊を創設したが、最初犬ぞりを考えていたという。しかし犬ぞりは氷上など固い場所はよいが吹雪や山地では動きが鈍い、また鳴き声で行動が隠し切れないことから作戦上不向きであるとわかり、トナカイになったという(『サハリン先住民の民族誌再検討:オタスの杜の戦前・戦後』中生勝美)。

ジャッカドフニ本館の手前の白樺の幹が剥がされているが、これは北川アイ子氏が白樺の皮で箱を作るなどするために剥いだもの。木が枯れないように剥ぐのだが、こうした木を枯らさずに皮を剥いで利用する技術は、アイヌや日本の山村にもある

下:ジャッカ・ドフニ遠景   右下:アウンダウ内部
ウィルタはトナカイや魚の皮と丸太でテントを作った。その後ロシア人と交易するようになり、手に入れた布でテントを作るようになり1920年に一般化したと解説にある。





上:北川ゲンダーヌ氏が、故郷樺太(サハリン)の景色に似ていると愛したジャッカ・ドフニの裏を流れる川と湿地帯。彼はここでよくしじみを採っていたという。しかし必要以上には採らなかった。あるときしじみを採りに行ったがすぐに戻ってきたので聞くと「狐が来て”俺の分も残しておいてくれよ”と言ったからやめた」という。

 ウィルタ協会関係者から聴いた話では、ウィルタ民族はボー(天)の概念を大切にする、木、草、私にもあなたにもボーがあるという。
 海岸、橋、峠などに来ると必ずお祈りする、キノコ採りに山に入るときも、採って出てくるときもお祈りする、そうしないと夢に出るという。「お祈りしなかっただろう」と神が言うから橋を渡るときも止めてくれと言うが車を橋の上に止めることはできない、それでたもとに止めてお祈りをする。アイ子さんが明治学院大学に呼ばれたときも、入り口あたりに大きな木があるが、そこでお祈りしていた。

 移動生活なので死者は土葬だが(風葬は誤り)、4〜5年で墓参りをしなくなる。学者によっては弔う精神が薄い、という人もいるがそうではない、静かに眠っているから何度も行ってじゃまをしたら悪いと考える。アイ子さんも「ちゃんとやっているかと気にかけさせたら悪いでしょ」と言っていたという。(かつて日本の山中を移動生活していた木地屋も、やがて場所がわからなくなるので墓参りをしない、と読んだことがある。)
 彼らに農業を教えたとき(樺太時代か日本でかは不明)、じゃがいもを埋めれば増えると聞いたウィルタが、10日たって畑に行った、掘り出してみたら増えていないと怒ったという。アイ子さんは「本当にウィルタはばかだね」と笑ったというが、今都会の人が通う就農準備校などでもこの手の誤解による笑い話は多い。

 田中氏の本に出てくるロシアで少数民族の土地の利用が認められるようになった件についてその後どうなったか聞いてみると、かつての狩猟生活のようにはゆかず、それで生活できるほどではないようだ、という話だった。ロシア中国では少数民族政策が進んでいるという人もいるが、あれは補償金だのの面もあるとのこと。
 ロシアのウィルタやニブフの人で民族の精神文化を語れる人は6、70代、若い人はもう知らない。これは日本の農山漁村でも同様で古い生活を知る人は70代以上だ。少数民族もマジョリティ民族も古い生活を知る人は70代前後まで、しかもそれは世界的傾向ということになる。第二次世界大戦後、世界中で生活スタイルががらりと変わったのだ。

このほか、当サイト内の北方民族関連記事は、
定住革命単一民族国家単一民族国家その2にもあります。


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