かつて日本には、土地に定住せず山野や海を漂泊して生活する人々がいた。山野をめぐる人々、特に木地屋については君ヶ畑と蛭ヶ谷で書いたが、海にも家船と呼ばれる漂海民がいる。
かつて五島列島、平戸、対馬、大分、瀬戸内海などに根拠地があり、各種調査もなされている。耕地を持たない、船玉信仰に反し女子も乗船、女は頭上運搬で行商、打瀬網・手繰網・延縄・潜水・鉾突などの漁法などの特徴があるが(小笠原義勝による)、本も多く出ているので詳しくは専門書に譲る。
『日本漁業史論考』木島甚久 誠美書閣1944年によれば、(その時点で)家舟が陸にあがったのは50年前、明治36年に大村伯爵が通学のための宿舎をたてたのがきっかけだとする。それ以前の生活が真の海上漂泊生活だったが、その生活を知る人はみな60歳以上(当時の年齢)、とある(子弟の通学が陸にあがるきっかけとなることは『家船の民族誌』金柄徹著 東京大学出版会2003年にもある)。
論考によれば、それ以外にも近年、近海でとれる魚の量がどれも減っていること、新漁場に行くには動力船が必要なこと、地先専用漁業権を持つ浦が潜水海士を雇って鮑類や魚を取るようになり家船、入漁権者共通の痛手となったことなどを定住化の原因にあげている。
例として大分の家船は大村藩の保護を受けていたが(礼として干鮑を献上)、明治以降漁業法が制定され町村で漁業法第20条に基づく漁業権を持つようになり、家船の漁業権は次々と失せている、漁法に基づく漁業権も”無知ゆえ大正まで更新期の到来を知らず申請手続きを忘れそのまま流れた、申請・陳情など事務的なことが苦手で、その弱点に乗せられ生命の糧を奪われて次第に細り行く”とある。
『海上漂泊漁民の陸地定着過程』野口武徳 成城学園50週年記念論文集 1976年によれば、五島の家船は明治30年頃定着しはじめ、山階方正氏は墓の必要性、漁法の変化、学校教育をその原因にあげている。しかし著者はまず、漁業で自給自足生活は成り立たないため農家との交流が必要だが、これにはカエキ(物々交換)、トクイ、ヤド(フナダマリ=根拠地で荷物を預けたり風呂に入れてもらったりする家)がスムーズに行かないと成り立たない。現金が必要な社会になると物々交換ではすまなくなってくる、とする。
そして定着の理由として、鮑取の必要性が減ったこと、義務教育、心理的圧迫(周辺社会が文明の恩恵を受け大変化、外観上のずれの意識と、それに伴う社会的精神的差別の目が発生)、戦時体制による主食の統制(カエキに打撃、魚網も配給となり漁業組合への加入が必要、徴兵制も義務)、戦後の漁業法改正(明治の漁業法では慣行漁業権として移動漂泊漁業は認められほとんど無税だったが、新漁業法では地先専用漁業権として権利は漁業協同組合のものとなり、他から入漁する場合は入漁料が必要、このため零細な家船漁業は成り立たなくなった)をあげている。
また家族を陸に残すと船が小型化高速化し、漂泊圏を縮小せずに漁業ができるようになった。
こうして明治以降、家船は徐々に定住化、終戦頃には老人と子供を根拠地に残し夫婦が漂泊漁業を続けていたが、昭和24年の漁業法改正により決定的なダメージをこうむったとする。
しかし、瀬戸内海の一部では、今でも家船的な漁業が残っている(金柄徹氏の本に詳しい)。どんなところか行ってみることにした。