豊  島 / 能  地

2011年8月、2012年3月          

 かつて日本には、土地に定住せず山野や海を漂泊して生活する人々がいた。山野をめぐる人々、特に木地屋については君ヶ畑と蛭ヶ谷で書いたが、海にも家船と呼ばれる漂海民がいる。

 かつて五島列島、平戸、対馬、大分、瀬戸内海などに根拠地があり、各種調査もなされている。耕地を持たない、船玉信仰に反し女子も乗船、女は頭上運搬で行商、打瀬網・手繰網・延縄・潜水・鉾突などの漁法などの特徴があるが(小笠原義勝による)、本も多く出ているので詳しくは専門書に譲る。

 『日本漁業史論考』木島甚久 誠美書閣1944年によれば、(その時点で)家舟が陸にあがったのは50年前、明治36年に大村伯爵が通学のための宿舎をたてたのがきっかけだとする。それ以前の生活が真の海上漂泊生活だったが、その生活を知る人はみな60歳以上(当時の年齢)、とある(子弟の通学が陸にあがるきっかけとなることは『家船の民族誌』金柄徹著 東京大学出版会2003年にもある)。
 論考によれば、それ以外にも近年、近海でとれる魚の量がどれも減っていること、新漁場に行くには動力船が必要なこと、地先専用漁業権を持つ浦が潜水海士を雇って鮑類や魚を取るようになり家船、入漁権者共通の痛手となったことなどを定住化の原因にあげている。
 例として大分の家船は大村藩の保護を受けていたが(礼として干鮑を献上)、明治以降漁業法が制定され町村で漁業法第20条に基づく漁業権を持つようになり、家船の漁業権は次々と失せている、漁法に基づく漁業権も”無知ゆえ大正まで更新期の到来を知らず申請手続きを忘れそのまま流れた、申請・陳情など事務的なことが苦手で、その弱点に乗せられ生命の糧を奪われて次第に細り行く”とある。

 『海上漂泊漁民の陸地定着過程』野口武徳 成城学園50週年記念論文集 1976年によれば、五島の家船は明治30年頃定着しはじめ、山階方正氏は墓の必要性、漁法の変化、学校教育をその原因にあげている。しかし著者はまず、漁業で自給自足生活は成り立たないため農家との交流が必要だが、これにはカエキ(物々交換)、トクイ、ヤド(フナダマリ=根拠地で荷物を預けたり風呂に入れてもらったりする家)がスムーズに行かないと成り立たない。現金が必要な社会になると物々交換ではすまなくなってくる、とする。
 そして定着の理由として、鮑取の必要性が減ったこと、義務教育、心理的圧迫(周辺社会が文明の恩恵を受け大変化、外観上のずれの意識と、それに伴う社会的精神的差別の目が発生)、戦時体制による主食の統制(カエキに打撃、魚網も配給となり漁業組合への加入が必要、徴兵制も義務)、戦後の漁業法改正(明治の漁業法では慣行漁業権として移動漂泊漁業は認められほとんど無税だったが、新漁業法では地先専用漁業権として権利は漁業協同組合のものとなり、他から入漁する場合は入漁料が必要、このため零細な家船漁業は成り立たなくなった)をあげている。
 また家族を陸に残すと船が小型化高速化し、漂泊圏を縮小せずに漁業ができるようになった。
 こうして明治以降、家船は徐々に定住化、終戦頃には老人と子供を根拠地に残し夫婦が漂泊漁業を続けていたが、昭和24年の漁業法改正により決定的なダメージをこうむったとする。


 しかし、瀬戸内海の一部では、今でも家船的な漁業が残っている(金柄徹氏の本に詳しい)。どんなところか行ってみることにした。

豊島

 豊島は今でも家船的生活の残っているところである。ただし、金氏の本によれば豊島の家船は中世からの漂海民の末裔ではなく、近世になってから出現した、近代漁業に対応した新しいタイプの家船だという。
 なお島の人自身は「家船」とは呼ばない。夫婦船と言っていた。

 川尻からフェリーがあるとネットで見かけて、呉線川尻駅へ行ってみた。が、つい最近廃止になっていた。

右下:かつてのフェリー乗り場。斎島へ行く船のみ航行している。橋の完成でみな車で移動するようになったため呉間のフェリーも廃止になっている。今は呉や広との間を結ぶバス路線が走る。



左下:豊島の船。船尾に帆がある  右下:三角島、上大崎島の向こうに本州が見える





いかにも漁村、といった町並み。斜面に立ち並ぶ家々、山腹を行く狭い路地





以前、島の水は井戸だったが、今は広島から水道が引かれている
今も島の各地に残る井戸





豊島はみかん栽培もさかん。農家も多く、内浦や山崎は100%農家。小野浦はほとんどが漁民
今でも農家をアゲと呼び、漁師をハマという

左:この御札をよくみかけた  下:山上にある墓



下:小野浦
地元の人は、”家船”ではなく”めおと船”と呼ぶ。この船で長期間海上生活を送る。かつての船の大きさは、右下の写真の無蓋船程度で3トン、それに家族全員と舵子(漕手)も乗っていた(エンジンはなかったため)。今は10トンクラス。



地元の人によるかつての船上生活(現代ではない):
 水はあちこちで汲めるが、問題は燃料。ガソリンも戦時中、最後は配給になった。山で薪や葉っぱを取ってきて焚き付けに使う。米は海水で洗ったあと水をちょっと入れて炊くから味がついていた。
 このへんでは太刀魚、鯛などなんでも採れる。みな一本釣りで、網はやらない。
 船の底は月に一回くらい焼いて牡蛎殻だのを取る。乾燥すると船も軽くなる。稲藁を燃やしてあぶった。
 舵子はお互い子供を自分のところじゃ甘やかすからと渡して鍛えた。(金氏の本によれば、気が合わないとすぐにやめたり、合う家族とは数年共にしたり、縛りはなく割りと自由に親方を選べるようだ)
 台風のときは大変、アンカー下ろして島影島影へと逃げる。転覆したら終わり。
 海は山と違って日陰がない、ほっとするところがない。
 ここらは村上水軍の末裔で、昔は斎島に見張り台があった。商船が来ると次々と狼煙があがり、みな手漕ぎ船で襲った。
 船で暮らす人たちには網元がいない。だから大金持ちはいなかった。伊勢だのは網元がおりカツオ漁だの漁船も大きい。みな雇われている。ここはみなそれぞれ自由に漁に出て、グループでは行かない。でもシケのときは漁師だから勘が働くのか何となく集る。正月や祭りにも集る。昔は祭りは盛大だった。エビスさんは8月、そこの神社も8月で、みな一晩で散財したものだ。ペーロンというか伝馬漕ぎもやったが、今は若者がいないからできない。
 戦前、県の政策で朝鮮、中国まで行った、最初は軍艦に船をつないで家族はみな軍艦に乗って行った。朝鮮は釜山、中国は上海に基地を造り、小屋掛けして採った魚を売買した。上海は遠いから小さい船では無理だとすぐに引き揚げた。朝鮮は最初は軍艦で行ったが、これなら自分たちで行けると自由に行くようになった。
 実際船で暮らしていたのは親の代まで、自分は子供だったからついていただけ。そういう話のできる人は90以上だろうが、もうほとんどいない。
 戦争に負けて朝鮮に行かれなくなり、みな陸に上がった。(なぜ豊島だったのか訊ねると)「こことはつながりがあった」という。魚を野菜と物々交換して暮らしていた。
 戦前から五島列島や大分、山口などまで漁に行っていた。今も大体そうしたところで漁を行っている。

別の人に聞いた話:
 大分、長崎、対馬などへ行った。家(豊島)にいるのは短い、半年もいなかった。一本釣りや延べ縄で網はやらない。アマダイ、真鯛、あこうなどを漁り地元で売る。水はタンクに一週間もつ。
 昭和12年に県の指示で韓国の済州島へ船で行った。済州島は周囲50里、二週間に一回回りながらあこうを一本釣りで漁り、大阪の商社が持っていった。西帰浦に基地があった。船は4トンくらいで県が補助して進水、船には父と自分と韓国人二人の4人が乗っていた。済州島での漁は夏の時期だけで夏が終わると戻った。
 韓国行きは昭和10年から始まっていたが自分が行ったのは12年のみ。その後戦争が始まっていかなくなった。

注:尾道吉和など瀬戸内の家船が戦前から20〜50艘の編隊で五島、対馬、宮崎、山口を2,3週間から3、4ヶ月で回遊、延縄と一本釣り漁を行っていた(網は使わない)。(『日本古代漁業経済史』羽原又吉 改造社 1949年)
注2:船上生活の聞き取りは難しい面がある。”東北関東に比べ関西以西は農業、漁業がはっきり分かれ、漁業をいやしむ風がある”(『家船』柳田國男 えとのす第6号 1976年)ためか、地元でも「みなそういう話はしたがらない」と聞いた。「貧しいときのことは話したがらない。話をまとめても書き変えたりする」「船上生活も貧しかったからやむなくだ。十日もやればあきる」「貧しいから朝鮮中国、フィリピンやブラジルまで行った。でもみな外地には居つかずに戻ってきた」
注3:金氏の本によれば、今も夫婦で船上生活を送る漁船は多い。このため豊島の小学校には寮がある。今の漁船はGPSも備え近代的。みな正月に戻る。このため税務署職員も年末に島に来る。
注4:その後聞いた話では、学寮は今でもあるが、今は町外の子供が多いという。今は漁も日帰りになり預ける必要もなくなったとのこと。また金先生の時代はまだ正月に大勢船が戻ってくる風習があったが、今はみな年をとり出なくなった、だいぶ減ったという。



右上:隣の大崎下島と結ぶ大橋。大崎下島の先はまだ愛媛側と通じていない。フェリーの頃は工事の人たちも客も島に泊まったものだが、橋ができてからは車で通うようになり島に泊まらなくなった、アビ漁も今年はよくないし釣り客もいない、ここは中途半端だという。



神社は多い

左上:胡神社   右上:えびす神社
いずれも小野浦海岸沿い

左は名称不明 小野浦海岸沿い

左下:豊島港海岸沿いにある貴布祢神社

右下:高台にある室原神社







左上:島の南西へ伸びる道。この先に人家はないが、自転車を漕いで先を急ぐお婆さん何人かとすれ違う。奥に畑があるとのこと。
右下:菜園(小野浦にて)





船尾に帆を張った小型漁船。関東ではあまり見かけないが、バランスをとるためという
下は上蒲刈島との大橋。この先下蒲刈島を経て、広と川尻の間で本州と結ばれている



 その後郷土史を調べている人と話す機会があった。本が出る前なのであまり書けないが、差し障りなく思われる面白いと思った点についてのみ:
江戸末期までこの島には漁民がほとんどいなかった。明治初年数十人程度。それが明治半ばになると数百人に増えている(理由は不明)。
戸籍をとる必要があって島に来たのかもしれない。それ以前は戸籍は厳しくなかった。ただこの島にはほとんど資料が残っていない。周囲の島には町史があるがこの島のみなし。また漁民はあまり記録を残さない。漁は見て覚えるもの、漁場などは秘密の部類に入る。
当時漁民は定住せず、大阪下関間を行ったり来たりしていた。季節的に移動、瀬戸内は気候もよく風も強くない。この辺はすぐ陸地が見える。水や薪、野菜と魚を交換していた。昭和初年までそうした生活が続く。船にエンジンがつくと移動も早くなり、バラバラになって行くようになる。
朝鮮へ行ったのは広島県の主導によるが移住よりも食糧調達がおもな目的。ただ広島村を作ろうとした話はある。しかし漁民にそのつもりはなかった。漁は季節によって変わる。移動するしかない。定着することはあまりない。網など大きいものだと定住する必要が出てくるが。漁民はあまり地元の人に迷惑をかけない。江戸時代まで(農民と異なり)漁民は税金がない。だから自由だった。




能地

 能地家船も有名で歴史も古く、瀬戸内の家船は能地から分かれた(『日本に於ける家船的聚落の調査』吉田敬市 東亜文学館第一巻一号 1941年)という話もある。
 『能地漁民の展開』河南武春 民間伝承第15巻12号 1951年によれば、能地には中世末に紀州から移住したとの口碑がある。その後牛窓、小豆島、小倉まで分布(寺の過去帳や壬申戸籍による)、末子相続で嫁を迎えると分家(デイエ)して分かれた。漁民は集団で移動し、定着後も親村との関係は残った。墓制については、亡骸を能地へ葬りに戻った。
 河南氏は”紀州はイワシ網漁で資本を蓄え遠隔地へ”、という漁業なのに対し、家船は”穀物と交換できれば足りるとする生活態度、資本はなくその日その日を食ってゆくのが本願”だと対比させている。

瀬戸内海の家船は水軍が祖先だとする本も多い
豊島でもそう聞いた
能地あたりは水軍の本拠地でもある


能地では、
今ではもう家船的生活は残っていない
とされるようだが、
行ってみることにした。





左上:駅そばの町並み  今は沿岸を巨大造船工場が占める
右下、なぜか海岸に唯一残された常夜燈には「文政九年 木崎八幡宮 金毘羅宮 大神宮」とある。





船の造りは豊島と同じだ





ここも神社が多い
左上:常盤神社
右上:老婆神社(稲荷社、名前が可笑しい)
左:幸崎神社




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