宗 谷 本 線 稚内 |
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2017年夏、北海道旅行の記録 稚内市内 防波堤ドーム 日露戦争勝利の結果、1905(明治38)年ポーツマス条約によって南樺太が日本の領土となり、1922(大正11)年函館から稚内まで鉄路が開通。稚内−樺太間の定期船として1923(大正12)年稚泊航路(稚内−大泊)就航、翌年稚斗航路(稚内−本斗)就航、さらに稚内と利尻礼文を結ぶ利礼航路が1934(昭和9)年就航。 稚内公園へ 丘の上にある 右上:鹿がいた 稚内公園からの眺め さらに丘上にゆくと氷雪の門がある 9人の乙女の碑 終戦の5日後、樺太にソ連軍が上陸、真岡の町を攻撃する中電話局に出勤、最後まで交換台の職務を果たし、砲弾炸裂する中もはやこれまでと観念して「皆さんこれが最後です、さようならさようなら」の言葉を残して自決した女性職員らを記念している 樺太師範学校の記念碑 母校はもうないが平成元年に開校50周年を記念して建てられた 北方記念館 一番の高台にあり、ものすごい強風だった。ふだんでも6mあるが、今日は12mで強いという 右上:稚内の旅館(大正11頃から昭和7頃まで) 左下:同じ時期の漁港、原野、放牧地のようす 右上:大正13、15年の稚内市内 左下:急行利尻 利尻島の人が「以前は宗谷本線にも夜行があったのになくなってしまい、不便になった」と言っていたが、急行利尻がそうだろうか 下:樺太の町、豊原、大泊の戦前の写真 このほか、宗谷にも宗谷アイヌがいたとの資料があった。最後の人が19(76?)だかに亡くなり、全容はわかっていない。樺太アイヌと北海道のアイヌの橋渡しをする役割があったはずだが、とある。幕末には400人程度に減っていた、利尻礼文に連れて行かれ戻れなかったこともあったという。
右上:同じく副港市場内にある、稚内港駅舎を復元した一画 中に同時の写真や資料がある 稚内恵山泊漁港公園 納沙布岬 左上:礼文島 右上:利尻島 右上:自衛隊基地の丘 稚内公園から下るとき、海上自衛隊のXXが来て艦内閲覧会をやります、予約は不要なので皆さん来てください、と放送が流れていた 右写真の左奥の神社に、”海道燈神”とある
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