北沢川 と 烏山川


 今では山の手というと中野世田谷あたりも指すようだが、正しくは山の手線の内側が山の手で、その東が下町、西が武蔵野である。

 武蔵野台地には、小河川が何本も流れている。川沿いには縄文時代以降の遺跡が多く残っており、住宅の建替え時に遺跡が出てくることもままある。

 武蔵野台地は畑作地帯で、今は住宅街となっている東京の区部西部も、かつては鬱蒼とした屋敷林に囲まれた古い農家や、なだらかな起伏を描いた畑が広がっていた。

 江戸時代には、玉川上水や六郷用水が引かれ、さらに小河川や上水から引いた農業用水路が網の目のようにめぐらされ、農産物の収量も飛躍的に上がったという。

 今では畑もだいぶ減り、宅地に変わっている。かつては戸建の建売になることが多かったが、最近では畑のような広い区画は、大規模マンションや老人ホーム、ホームセンターや外食チェーン店など、大型施設に変わることが多くなった。

 宅地化に伴い、小河川や農業用水路にも蓋をされ、暗渠となり、目に触れることもなくなった。
 まず「どぶ板」と呼ばれるコンクリートブロックで覆われて、その上を人が歩く通路となった。
 今ではどぶ板もアスファルト舗装されたり、歩道に姿を変えたりしている。このため、XX川緑道と公園名にでもなっていない限り、新住民には一見してわからないだろう。
 しかし、今でも小川や用水路は台地の地下を流れ続けている。


どぶ板は続くよどこまでも

 子供の頃、経堂に小田急OXができた。デパートとも違うショッピングセンターの走りで、当時としては珍しく、夏休み、川沿いに歩いて買い物に行くのが楽しみだった。経堂まで1時間以上かかる道のりだったが、南北に交通網はないし、夏の青空の下、畑の中をひたすらどぶ板沿いにゆけば、やがて遠くにOXのビルが見えてきた。

 当時はあちこちに畑があったので、農業用水路はまだまだ現役だった。春の小川のような景色もあれば、T字路に見えるが近づくと用水路が口をあけていたり、結構深い流れもあり、同級生が溺死しそうになったこともある。(昔の用水路の様子は、このページの一番下の写真に示した)
 1980年代になってもまだ、農作業中の人が手を休めて用水路べりで上半身はだけて涼む姿も見受けられた。

 数年前、自転車通勤をするため久しぶりに川沿いの道を伝った。随分畑がなくなっていた。川も用水路も住宅に埋もれ、緑道として残されたところ以外、どこへ行ったやらわからない。
 それでも注意して見ると、昔どぶ板のあったところに手がかりは残っていた。舗装された細い小道、狭い道に不自然に広い歩道、道路脇に残る橋の跡、独特の白い鉄柵や赤い棒の境界線が、水路の存在を伝えていた。見慣れてくると、下に隠れた水路の流れが見えてくる。

 これらの川は、一体どこまで行っているのか?畑はどのくらい残っているのだろうか。


§§§

 国分寺崖線に沿って流れる野川や仙川のような、露天の中規模河川だけでなく、今では暗渠になった小河川を、路面に残る痕跡を手がかりに、できるだけ遡ってみるのもまた楽しい。ここで終わりかと思っても、目が慣れてくるにつれ、かなり先まで続いていることがわかる。
 線路を越え、国道を渡り、住宅街を抜け、公園や団地脇を通り、西へ北へずんずん続く。さらに上流では、玉川上水などから引いた農業用水路が流れ込んでいるので、正確な終端を見極めがたい。

 北沢川と烏山川もそうした武蔵野を流れる小河川の一つで、池尻大橋で合流し、目黒川となって東京湾に注ぐ。目黒川にはもう一本、中目黒から蛇崩川が流れ込んでいるが、あまりなじみがないので、ここでは割愛する。

 北沢川は、梅が丘駅北付近で下高井戸からの農業用水と合流し、日大裏を通って松沢病院まで続く。松沢病院内には池があり、ここが源流と思われる(未確認)。さらに玉川上水から引いた農業用水路が、京王線や甲州街道を越えて上高井戸まで続いている。
 烏山川は国士舘北から経堂の西を通り、明大グラウンド下から環八沿いのゴミ処理場施設付近で二手に分かれる。本流は甲州街道北の烏山松葉通り団地や中央高速を抜け、源流の高源院の池へと続く。もう一方は芦花公園西から甲州街道を越え、中央高速まで続く。その先は上りから下りに変わって中川と名称が変わり、下本宿通りへ続く。さらに玉川上水から引いていると思われる用水が三鷹台団地を通って続いている。

 当然だが、上流へ行くほど畑が残っている。場所によっては、ここは東京か、と見まごうような広大な畑地がまとまって残っていたり、鬱蒼とした武蔵野の森や竹林の茂る一画もまだまだ存在し、川沿いに遡りながらそうした風景を見つけると、嬉しくなる。

 小河川沿いには、なぜか都営や公団の古い大規模団地があることも多い。都住宅供給公社、東京都都市整備局、都営住宅、区営住宅、公団など供給元はさまざま。川沿いの広い平地が団地用地に選ばれているようだ。川沿いは、広い土地が入手しやすかったのだろうか。しばらく前だが、野川沿いの成城のハケ(国分寺崖線)下の、かつては田圃だった平地も団地に変わっていた。


 この子供の頃から見慣れた北沢川と烏山川について、2008年時点での現状を、記録に残しておくことにした。

撮影年:2008年5、6月

北沢川


烏山川との合流点近く(淡島)



代田付近



代田付近



経堂赤城通り団地



支流の農業用水路 桜上水
 畑の脇に今でも残る昔ながらのどぶ板



桜上水日大裏
 地下に貯水槽がある



上北沢
 蓋の上を舗装して通路になった川


支流 上北沢付近
 昭和60年代までは一面畑が広がり、"春の小川"のような川が流れていた

支流の農業用水路 上北沢
 歩道となった用水路

都営上北沢アパート脇




上北沢



松沢病院手前
 中央奥が松沢病院。以前は鬱蒼とした
 森だったが、現在ビルを建設中

 北沢川の上流には、玉川上水につながる農業用水路が上高井戸まで続く。上水近くには区営上北沢団地があり、畑が残る(北沢川の畑に写真がある)。



烏山川


北沢川と烏山川の合流地点 池尻大橋



三宿



下の谷商店街 太子堂下
 川の東側の谷底にある昔ながらの商店街

茶沢付近




若林付近



烏山川南 国士舘西



国士舘西 − 梅が丘



上町付近 烏山川は柳の右



桜上水 希望が丘東
 水道道路と交差するあたりの窪地
 かつて鬱蒼とした屋敷林の多かったところ


桜上水 希望が丘団地



八幡山かまのくち公園
 池のある狭い一画は保護されており、立ち入り禁止



八幡山へ向かう支流
 ほぼ環八に沿って流れる



同左
 この先、環八の両側に都営八幡山アパートがある


芦花公園 書屋
 徳富蘆花が住んでいたところ。墓地もある


芦花公園
 母屋


芦花公園駅南 都営八幡山アパート先
 環八東で分かれた本流
 このあたりは川沿いに公社烏山南住宅、
 公団芦花公園団地もある


甲州街道南
 歩道と車道を分かつ白いかまぼこ型の柵は
 用水路や小川の上に蓋をした箇所の境界に
 よく使用されるため、目印となる


甲州街道
 灰色の壁の下に橋のあとが見える


烏山松葉通り団地



烏山松葉通り団地
 川に蓋をして舗装している



烏山松葉通り団地
 右上赤いプラスチック棒の境界も、水路の存在を
 示す際によく使用される



都営烏山北住宅
 この付近は、他に都市整備局の烏山アパートもある


中央高速付近



北烏山


高源院
 烏山川の源流の池があるお寺


烏山鴨の池
 烏山川はここに源を発する

烏山寺町
 周囲は寺町になっている


北烏山 支流
 銀色の棒も、水路の存在を示すことが多い








中川


中川



中川 北野



中川 北野


 三鷹市北野から新川にかけては、奇蹟のように広い畑が残っている。北野の畑については、こちら


下元宿通り
 広い歩道下には貯水槽がある感じ


三鷹台団地



三鷹台団地

玉川上水 井ノ頭橋

 三鷹市牟礼には、丘全体が畑や果樹園で覆われた、山あいの農家のような区域がある。牟礼の畑については、こちら
 北沢川と烏山川の流域の畑の写真もある。



昔ながらの農業用水路


  野川流域、宇奈根 北沢川上流もかつてはこんな感じだった


北沢川沿いの畑        国分寺崖線:  野川 東  西    仙川   中仙川   丸子川

東京の里山:  町田    日野    長沼/柚木    鑓水/七国    片倉/東高尾    あきるの
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