島紀行:五島列島編


上五島−中通島/若松島/日島編(2003年4月)

 2003年、五島列島を再訪した。1999年に上五島に就農した人を訪問した際の記録については、こちら

 今回は純粋な観光旅行だったため、あまり独自の視点もなく、観光地を回る旅行だった。五島列島は教会が多い。列島全体で50あるそうで、そのほとんどがカトリック。
maria  隠れキリシタンの名も有名だが、今では観光の目玉になっており、世界遺産登録の話も出ているそうだ。なお、地元の人の話では、いわゆる隠れキリシタンと潜伏キリシタンは違う、潜伏キリシタンは禁制時代ひそかに信仰していたのが、禁教令解除後に普通のカトリック信仰に戻った人たちを指し、隠れキリシタンとはその潜伏期間に一種の宗派のようになり、禁教令が解かれても教会に復帰しなかった人たちのことを指す、ここを混同している人が多い、と言う。このため、現在でも隠れキリシタンの人たちは存在する。ただ、時代の波で近年、解散する集落が多く、あまり残っていない、という。

(写真は、曽根教会にて、夕拝をする人々。終了後、子供たちがマリア様に「さようなら」と言って帰宅していったのが印象的。五島の教会は、このように必ず外にマリア像とルルドの泉がある。)

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 五島のクリスチャンは、十六世紀のキリスト教伝来のときの人たちではなく(秀吉の弾圧でいったん消滅)、十八世紀に開拓移民として藩が受け入れた人たちだという。江戸末期と明治に入ってすぐに大規模な弾圧があったらしいが、その後は禁教令が解かれ、次々に教会が建てられた。
 五島の有名な教会の多くは、上五島出身の鉄川与助氏の手によるもので、青砂ヶ浦、大曽、頭ヶ島(右写真)、堂崎などがそうである。
 地元の人は、五島といえば教会、のイメージで、お寺や神社はないのか、とよく言われるが、いっぱいある、クリスチャンは人口の1割5分くらいで、あとはお寺や神社に行っている、でも七世紀頃の渡来仏である阿弥陀如来のある極楽寺以外はそう有名な寺はない、と言っていた。たしかに、お寺や神社なら日本中どこにでもあるが、教会、特にプロテスタントの地味な教会ではなく、カトリックの壮麗な教会が地域の集落風景にまぎれて建つ光景は、ほかでは見られない。ただ、歩いて教会めぐりをするには島が広すぎるし、自転車で回るには、特に上五島はかなりの高低差がある。

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 70歳前後の人が子供の頃は、キリシタンの人に対しては差別があった、戦争中、学校から神社にお参りするとき、そういう家庭の子供はこっそり列から抜けていった、そうした差別がなくなったのは、昭和30、40年代頃の鯨漁が栄えた頃からだ、という。とにかく人手が足りなくて、奈良尾あたりの大きな会社ではどんどん人を雇った、そうした仕事場ではクリスチャンも何もなく、いつのまにか一緒の感じになっていた、経済の力は大きい、という。
(写真は頭ヶ島教会の内部)

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 鯨漁は、和歌山の人たちが来て五島に伝えたそうだ。右の写真は海童神社だが、本物の鯨のあごの骨をコーティングして立てている。これと同じものを和歌山の勝浦あたりで見た記憶がある。また、下五島の小さい神社にも、この鯨の骨を立てるスタイルの神社があった。
 ところで、五島はかつてに比べ、水揚げがかなり減っている。その原因として、海流の変化や海の汚れ、海岸の工事などとともに、鯨が増えていることがある、と地元の人は言う。正確な数字は忘れたが、人間全体(日本人全体?)が食べる量の数倍を鯨族が食べているそうだ。
 上五島の産業は、漁業以外は土建屋が多く公共事業で食べている、という。人口も減っており、最後のあがきかもしれない、と言っていたが、それは本州でも四国、九州でも、地方を回ると必ず感じる状況だ。ひょっとして日本全体が、いまそういう状況なのかもしれない。「日本は地方でもっていたようなところがある」と大手商社マンが言っていたが、地方が衰退し壊死しはじめると、日本全体の活力にも必ず影響してくると思う。
 なお、青方と有川の間、量販店の集中する平らなところは、かつては海だったところを埋め立てたところ。

 上五島の南東に位置する日島(若松島、漁生浦島、有福島経由ですべて橋でつながっている)には、曲古墳群という変わった風景のところがある。南の恐山、という感じがなくもない。時代は鎌倉後期から室町初期のものらしい、というので非常に古いわけでもないが、近年発見されたため、まだ整備されていない石塔群が照葉樹の林の奥に続いている。文献がないので、誰が立てたものか、よくわかっていないという。この一帯は、現在でも墓地として使用されており、右写真の右手に、現在の集落の墓地が併設されている。

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石塔群

 日島には鹿が多い。島の鹿は小型で、人を怖がらずによってくる。あちこちに出没するようで、畑は網で囲われている。ただ、上五島は基本的に漁業の島のようで、下五島と異なり、広い畑はなく、家の回りにちょこちょこ作っていることが多い。

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日島の鹿若松島極楽寺近くの集落にて

 中通島と若松島の間は、海岸線が入り組み、小さい島も多く、若松瀬戸と呼ばれる景色のよいところ。また南国特有の植物もあり、奈良尾神社には、樹齢650年のあこう樹がある。ガジュマルのように、枝から支根が降りてくるタイプの木で、それこそケンムンだかキジムナーがいそうな雰囲気。
 左下の米山展望台からの写真でもわかるように、上五島の中心となる中通島はかなり山がちの島。集落も、海岸沿いの狭い平地か山腹にある。若松瀬戸ではさかんに魚の養殖を行っていた。赤潮のときも簡単に避難できるよう、丸い輪っかのいけすに入っている。

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若松瀬戸あこうの木

下五島−福江島編(2003年4月)

 山がちの中通島に比べて、福江島は平野が広がる。田畑も多く、たばこをさかんに栽培していた。長崎県でもっとも長い直線道路も福江島の中心あたりにあるという。
 中心部は市になっており、町もかなり大きい。城跡や武家屋敷もあるし、遣唐使の遺跡だの、明の貿易商が根拠地にしていたとかでその廟(明人堂)もある。もちろん、カトリック教会もある。ただ、教会が29ある中通島&若松・有福島に比べ、福江島は広いが13しかない。全体としてどちらかといえば、上五島のほうが鄙びておりカトリック信仰の島で、下五島は早くから開けており、普通の地方の風景に近い気がした。

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鬼岳山上より、福江町方向を望む鐙瀬海岸から見た鬼岳

 鬼岳は火山。芝に覆われた感じは、阿蘇の草千里のよう。鐙瀬には、鬼岳から流れた溶岩の海岸がある。

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 上の写真は昼食に寄った店だが、民家づくりだったので撮った。中には囲炉裏があった。左は裏にあった倉で、奄美の倉に似ている感じも。

imochidousaki  福江島にはカトリック教会が13ある。
 左は堂崎天主堂で、建築は鉄川与助の手による。ここには、殉教したヨハネ五島の像がある。
 右は井持浦教会。

 五島には椿の木が多い。大島ほど有名ではないが、自生しており椿油製品も多い。五島の椿をもっとPRしたい、と地元の人は言っていた。

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高浜海岸大瀬崎。映画「喜びも悲しみも幾歳月」はこの灯台がモデルになっているとか。

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