沖  縄  2010  南大東島

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南北大東島の歴史
1885(M18) 無人島だった大東諸島が日本の領土とされる
      玉置半右衛門が島の独占権を得る
1900(M33) 開拓民23人が上陸、甘蔗(サトウキビ)を植える
1902(M35) 沖縄から人夫60人余が手動圧搾機の労働者として移住、黒糖生産をはじめる
      島は会社(玉置商会)が直営、所有し、会社の現地事務所(玉置開拓事務所)が頂点に立つ
      売店・病院・警察・学校も会社直営で市町村制度はなし
      (注:島の老人に聞いた話では、警察と軍の事務所のみ日本政府から来ていたと言っていた)
      法定通貨もなく、島内のみの金券が通貨として流通していた
      島の人は二種類に分かれ:
       島民:八丈出身者を含む日本人 島の正式な構成員
       仲間:沖縄出身者 キビ刈りや工場の人夫で、さらに会社直属仲間と島民使役仲間とあった
         仲間は戸籍、住民登録なし、選挙権被選挙権なし
         島からの転出も雇用主の許可がいる。無断で島を離れたら罰金だった
      差別に憤った沖縄人のストライキ、八丈出身者への集団抗争があった
      八丈・沖縄出身者の比率は当初7対3
      (注:島の古老によれば:学校は小学校と高等科2年。その上は行かれなかった。会社側が島を出る
      ことを許可しなかったし、昔は労働力が必要だったので親も望まなかった。
      先生は本土から来ており、沖縄方言を使ってはいけなかった
      農業していた人の畑も精糖会社の畑で所有権はなかった。野菜などサトウキビ以外の作物を許可なく
      作っていないか、精糖会社の人がときどき確認に来ており、厳しかった)
1903.6.20(M36) それまで無人島だった北大東島に玉置商会が甘蔗を植える
      玉置商会以降、以下に続く東洋精糖、大日本精糖と、北大東島では北大東島所長が島の長となる
      さらに北大東島所長は南大東島からの出張所長で、南大東島所長が両島の長だった
1910(M43) 北大東島で燐鉱石採掘開始
      玉置半右衛門病没 この後玉置商会の事業は不振に陥る
1911(M44) 北大東島での燐鉱石採掘廃止(アルミナが多く精錬できなかった)
1916.3.11(T5) 東洋精糖に経営委譲仮契約 4.22本契約
1918.4(T7) 東洋精糖により、北大東島での燐鉱石試掘を開始、翌年5月採掘再開
1921(T10) この年から5年ほどの間が人口のピークだった(約4000人)
      人口の9割は八丈と沖縄出身者が占め、その他東京など二府一道27県の出身者がいた
1927.7(S2)  東洋精糖 大恐慌で打撃を受け、大日本精糖と合併
1946(S21) 会社の全財産が米軍の管理下に入る
      村制が敷かれる
1951(S26) 「土地所有権獲得期成会」結成、村長を団長とする、土地所有権を認めてほしいする陳情団をはじめて那覇へ送る
      さらに村民大会、署名集め、東京へ陳情団を送るなど活発に活動
      (注:戦前を知る島民の老人(沖縄出身)から聞いた話では:玉置商会のとき30年耕したら自分のものになると言われ、みな小作をやっていた。口約束で証拠はない。その後玉置が傾き、東洋精糖へ売る(土地の権利は売っていないとも言われる)。さらに大日本精糖と合併、戦後沖縄の大東精糖が借りて営業を続けた。運動の相手は大日本精糖(藤山愛一郎が社長)だった。)
1962(S37) 琉球政府裁判所は住民の訴えを退け、土地所有権は日糖興業にあるとする
1964.6(S39) 高等弁務官ポール・W・キャラウェイ陸軍中将により「琉球政府は両島耕作者から土地登記手続きがなされたら直ちに登記せよ」
      キャラウェイ中将は軍事優先の強権政治を行い、沖縄の人が最もダーティーなイメージを抱いている弁務官だが、島では恩人。
      下記本の聞き取りによれば、久米島から南大東島へ来た人は、広い土地を見て「もう絶対ここを離れない」と思ったという
      (注:島の老人の話では、宮古の人は戦時中出て行って戻らなかった人の分を借りたりして、戦後入ってきた。儲けて帰った人もいるし、そのまま土地を取得して残った人もいるという)
2000(H12) 開拓100周年  八丈・沖縄出身者の比率は7対3から3対7へ
      (この項 『北大東島村史』昭和61年刊 『だれも沖縄を知らない』森口豁 筑摩書房を参考)

在所
 南で「北は今人少ないでしょ」と言われる。北大東島では、夏休みに入ると島民は那覇の子供のところへ行って過ごすため、人口が減る。南大東島もそういうところがあるが、北ほどではない。人口は北が500数十人、南は1500人くらいだがだいぶ減ったという(北と南では、南大東島のほうが大きく2倍ほど)。
 在所も島で一番にぎやかなところだが、店も閉めたところが多い、出稼ぎが減ったから、という。かつては空港、港湾その他土木工事が多かったようだ。

 島の若い女性は「ここに住むとのんびりしてしまい、沖縄に行っても疲れる」と言っていた。また、夏休みに子供たちを那覇へつれてゆくのが流行っており、皆行くので連れて行かないと夏休みの日記でも困る、ジャスコに行ったのがいい思い出、とか、と笑っていた。

 南も北と同じく、環状のサンゴ礁の崖が海岸線の内側をぐるりと囲み、中に盆地のある地形。ただ大きな天然池があちこちある。上のほうは真水、下は海水で水道や農業用水には使えないため、やはり溜池がある。飲用水は海水を真水にする技術で作っている。大池には、島は隆起したときに取り残された、陸生のマングローブ「オヒルギ」がある

左下:在所の集落    右下:瓢箪池       (写真の日付は誤りです)

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左上:北港近くで出る石(パワーストーンだとか)   右上:ビロウの木(南大東にはまだビロウやガジュマルが残る)
下:上陸記念碑とその解説(昭和5年にこの3本スタイルになったとある)

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崖上もけっこう広い台地になっていて、サトウキビ畑が広がる
左下:ゴルフ場   右下:崖周辺と海岸沿いに森が残る

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バリバリ岩
左上下:フィリピンプレートの移動により、南大東島が年7cmずつ
北東方向へ移動している
 証拠という岩の裂け目 右上はバリバリ岩の続きの洞窟

shasin下:防風柵と防風林によく使用されているフクギ
この二段式防風柵は特許構造のため無断使用禁止とある

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左上:点在する農家の典型的な造り  右上:空港脇の通り
左下:盆地全景
右下:大東精糖の工場 煙突に「さとうきびは島を守り島は国土を守る」とある

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   南大東犬
   島には大東犬という独自の犬がいる。
   何かとのミックスが定着したのだと思うが、
   短い耳と立ち耳が特長。
   しかし、今減っているという。

                 右:よくみかけたマイマイ



shasin 在所近くの文化センターでは、大東島関連のビデオを集めて
随時放映しており、興味深い。
また担当職員も昔の話をいろいろ聞かせてくれる。

南大東島の戦前の様子についてはこちら


南大東島に興味を持つきっかけになったのは、
とあるBBSの「南大東島紀行」でした。

その話をここに続けて掲載しようかとも思いましたが
けっこう遠慮のない内容なので、いちおう、分けることにしました。
興味のある人は  こちら(余談)  へどうぞ



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