沖  縄  2010  渡名喜島

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 渡名喜島へは、泊港から出る久米島行きフェリーが寄港する。夏休みということもあってか、客は多い。途中慶良間諸島脇を通過。


慶良間諸島      (写真の日付は誤りです)

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渡名喜島

左:島の港

下:島の家並み
渡名喜島は戦災を受けなかったため、古い家が残っている
集落全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に
指定されているという

防風対策のため、家の敷地は周囲よりも一段低く
掘り下げられている



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ちなみに渡名喜島では、家は小さくても昔から瓦葺。本島から買ってきたという。粟国島は瓦葺はところどころだと(渡名喜島の人が)言っていた。大東島編の「余談」で書いたように、大東島では住宅にお金をかけない。瓦葺は皆無。このへん、歴史の古さや何にお金をかけるかなど人生観の違いかもしれない。

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上:フクギが多い 大東島ではフクギが防風林として植えられていたが、おそらくここも同様と思われる。左上はテーブルサンゴの石垣。今では珍しいという

 渡名喜島は港のある中央に低地があり、その左右に標高150m前後の山がある地形
左下:低地の畑地 奥の山は義中山   右下:山ふもとにある墓地

 島の老人から”ユレー墓”というのがある、と聞いた。寄り集まって作った墓で、門中ではなく親戚でもない。心のあった人同士10人くらいで作る墓だという。

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左上:東海岸の砂浜  右上:パパイヤ
凪のときは昼間でも、この海岸から本島が見える。

沖縄戦のとき、アメリカの軍艦が沖縄本島を取り囲んだ。夜、ヤンバルから糸満の先まで照明弾で昼のように真っ白だったという。軍艦が行くのが見え、空中戦が見えた。空中戦の音はいつもの音と違う、ブォウブォウ、パラパラと回る音がしたと古老の話。

左下:井戸 XXガーの名で住宅地のあちこちにある
右下:ニシバラドゥン  ドゥン(殿)が4箇所あり、石造小屋の屋根には神社と同じ千木があるが、誰を祀っているわけでもなく、神社ではないという。

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左:北の山、西の森

 渡名喜島には神女(カンニョ)が6〜7人いる。
血筋によるもので、行事のあるときに貢物を作って神に供える。
 1月3日の神祭りでは、みなサトドゥンへ行く。
サトドゥンは西の森にある、トナキの鎮守の神様のようなところ。

 一年おきにシマノーシ(島直し)の行事がある。
各ドゥンでは門中で集まって寄り合いをする。
日にちは決まっており酒や肴を持ち寄る。
寄り合いの前に、神主(ヌンドゥンチ)(各ドゥンにおりやはり代々特定の家が継ぐ)へ神女が集まって話あう。
旧暦4月26日からクビリドゥンで始まり、27日サトドゥン、28日ニシバラドゥン、29日ウェーグニドゥンの順に回り、5月1日神を見送る。
各ドゥンの祭りでは神女が杯を持ってみなを回る。



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 島の南の山は自転車や車で一周することができる(北は徒歩のみ)。

 左上の写真のあたりは磯になっている。子供の頃は海にウニが沢山おり、2,3時間で袋いっぱいになった、貝もハマグリも藻草も沢山拾えた、という。今はいない、タコもいなくなり”海が豊富でない”。島の人はもちキビの人工肥料がよくないのでは、と言っていたが、こうしたウニなどが減った、海の幸が取れなくなったという話は日本中で聞く(与論篠島など)。村おこしで作ったもちキビの人工肥料程度が問題なのではなく、海岸の護岸工事、河川改修などが渚や近海を貧しくしているのでは、と考える。

右上:ヌーチュヌーガ御獄への入り口。旱魃になると神女が雨乞いをするところだという。渡名喜にはハブがいるので、茂みに入るのは避けた。

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島尻のようす   右上:朝焼け
山からは慶良間諸島が見える。戦時中、頭にカズラ被って山の壕へ逃げるときに、米軍が慶良間に上陸する様子が見えた。軍艦と飛行機がグワーグワーとけたたましく、島の上は雨が降っているようだったという。

以前、渡名喜島には木があったが燃えた(山火事)という
明治時代には食糧難から山の頂上まで段々畑が作られ、いまでもその跡がわかる。 今はまた森に返りつつある

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島尻から東海岸へ出たところ

年寄りの話では、飢饉の年には粟国へソテツを買いに行ったという。5〜6年に一回そういうことがあった。サツマイモのバイラス病が流行るとそうなる。葉が縮れるのでパーマと呼んだ。
戦前戦後について村史抜粋と古老から聞いた話はこちらに掲載

村史によれば、台風がくれば飢饉と直結、鰹節業も昭和4年には破産状態、養豚もさかんだったがだめになり、ソテツ地獄になったとある。
左下:ソテツ  右下:アダン

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 ちなみに同じく村史によれば、昭和20年1月19日と3月23日に本島と行き来する船が撃沈され、半年間弧絶状態となり、8月15日の終戦を知らなかった。9月9日、慶良間地区隊長が兵隊を連れて上陸し、初めて敗戦を知ったとある。  こうした、交通が途絶し敗戦を知らなかった話は鹿児島の十島村など他の離島でもある。
 沖縄戦のとき、沖縄本島西側の島々では米軍がいつどの島に上陸するかという不安にさらされた。離島は逃げ場がないだけに不安も大きい。慶良間諸島での集団自決も、こうした心理的要因も大きかったのではと思う。慶良間諸島には軍隊が駐屯したが、渡名喜島と粟国島には駐屯しなかった。見捨てられたわけだが、そのおかげか米軍は来なかった。ただ、軍隊がいない不安から、粟国では村人が模型の高射砲台を作ったため砲撃を受けた。裏目に出てやられたらしい。

 さらに村史によれば、島には御真影が下賜されていなかった、交通の便や村の財政などによる下賜基準があったのかどうか不明、ともある。
 ところで、明治23年や33年の小学校令改正により、あまりに僻地性が高い場合は県告示を以って義務教育免除地となることが認められていた。つまり学校そのものがない状態の村が戦前まで存在したようで(渡名喜にはあった)、離島や豪雪地帯の山村に多いのだが、納税、兵役の義務は課せられたのに教育の義務を受けられないので問題だったとの指摘がある。



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