与  論  島


 与論は新規就農でこの島へ来た知人がいるので訪問した。就農情報については、就農者訪問記与論編に記しているが、そのときに聞いた島情報アラカルトを掲載。知人いわく、与論は沖縄と本州の混じったハイブリッドな感じ、という。

サトウキビ

 与論の産業はメインがサトウキビ、収穫は1月から3ヶ月くらいで、刈って道端においておくと製糖工場の人がトラックで取りに来て砂糖にする。これで食べて行くには大規模にやらないとだめで、小規模では年数十万程度の小遣い稼ぎになるくらい。ほかに花を少々、また牛をやっている。牛は二段階あって子牛取りと子牛を買って来て肉にする農家をある。与那国、与論、沖永良部は子牛取り農家で、こういう暖かいところで子牛を育てて鹿児島あたりに黒い肉牛の子牛として売る。このあたりでは牛は食べない。鷄か山羊をよく食べる。
魚も昔は沢山とれ、ウニなどがゴロゴロしていて子供のおやつ代わりだったらしい。しかし今はあまり取れなくなったと言っていた。米は自家用のみ。(左の写真はサトウキビ、風による倒伏防止用に結わえてある)


与論城あと

与論城あと 与論島も台地のような島だが、ここだけ高くなっている。北山王の三男が築いた。ここから天気がよければ沖縄はもう間近に見える。ここにも新しい巨大な鳥居がある。なんとなく回りと不釣合いで、昔はなかったのではないかと思う。与論にはお寺なない、と言っていた(と在住の人からきいたが、天台宗の寺があるそうです)。沖永良部も地図で見る限りお寺はない。
この城あとの隣にサザンクロスセンターがあり、生物から民俗までコンパクトに展示されている。その中に釣りバカ日誌のマンガ家、北見けんいち氏の撮影した昭和36〜7年代の写真が展示されており、これがなかなかいい。この頃はまだ電気も通っておらず道も舗装されていなかったが、島外からきた人が道を歩いていると「何か食べて行くか」「泊まるところが決まっていないなら泊まって行くか」という感じだったらしい。それで当時この島が好きになった文化人も多く、また現在この島に惹かれて来る人達も「その当時の与論島を体験したかった」という。一方で、神戸等への労働移民の記録も展示されており、聞いた話では「与論の人は慣れていないから、大阪に行ってだまされたりとかいろいろあったみたい」という。


与論城主の墓

60年代終わりに、与論の観光ブームがあり、ヒッピー系の若者が大勢与論に来た。民宿も大繁盛で、一晩で数十万稼いだ、銀行に預けるひまもないくらいだった、そんな時代があったという。ちょうど沖縄の本土復帰前のことで、ここが日本の最南端だった。そのあと、ブームは去り、廃業した民宿も多い。

 ところでこの城あとの周囲に住む人々は、この城の子孫として強い誇りを持っているそうだ。この小さな島にも7、8箇所集落があり、なぜか東区の人は下に見られる等、いろいろあるという。
(左の写真は与論城主の墓)


隆起珊瑚の島 与論も隆起珊瑚の島である。与論、沖永良部、喜界ヶ島にはハブがいない。奄美、徳之島、沖縄にはいる。沖縄の回りもいたりいなかったりするが、いろいろ説があるらしい。地元の人は隆起珊瑚の島にはいない、土の島は大陸と昔つながっていたからいる、と言っていた。さらに与論島は沖を珊瑚礁が囲っている。沖は荒れても珊瑚礁に白く波頭がたち、その内側は静かでエメラルド色。そのおかげで百合ヶ浜など白い砂浜がある。沖永良部や奄美は沖に珊瑚礁がないため、砂浜はほとんどない。本州の山砂が積もってできた黄色い海岸とは違い、本当にきれいだ、と与論ファンの人は言う。
ところでこの百合ヶ浜には捨て犬が多い。観光客に一時的に相手をしてもらった子犬が、結局連れていってもらえず置いてきぼりにされていた。もうそちらを見ようともせず、お座りの姿勢で海のほうをぼんやり眺めていた。主人探しに失敗した悲哀がその後ろ姿ににじんでいた。

野犬 与論には野犬が多い。捨て犬が多く、仔を産んで野犬化する。あちこちにわながあり、かかると集めて注射し燃やしている。常時焼却場に5〜6匹つながれている。みな犬をつないで飼わない、というのもあるという。メスを避妊手術したほうがよいが、その医者がいない(畜産の獣医はいる)。沖縄に船で送って手術すると3万くらいかかり、そこまでかかるとやはり考えてしまう。
この話を聞いたときに、なぜ離島では犬禁止のところが多いのか、わかった気がした。(shimadasを読むと、ときどきそういう記述がある。また、与論に対する誤解のないよう、断っておくが、野犬を焼却処理している自治体はここに限らない。大都市を含め、ほとんどの自治体で行っている。ただ、離れ犬が多いのも事実で、島めぐりをしていた若いカップルが、与論で拾った犬を連れて定住したよ、という話も奄美で聞いた。)

記念堂

記念堂 ミナタ離のそばには、作家森瑶子の分骨をまつった祠がある。彼女は与論を愛し、ここに別荘を建てた。


お酢

名産 与論の名産の一つにもずくそばがある。これを発案したのは栃木からこの島に移住してきた人。やはり最近有名になった与論の陶芸も、鹿児島だかの出身の人が始めた。島の起業家は島外者が多いという。このほか、サトウキビから作ったお酢も有名(左の写真はお酢の甕)。


島言葉 与論の言葉は、"はひふへほ"が"ぱぴぷぺぽ"になる。花がパナ、離れがパナリ、など。古い平安時代の言葉が残っている、とときどき調査に来るという。
ただ一時期、鹿児島から来た先生が子供同士のしゃべっている言葉がわからない、ということから現地言葉での会話を禁じた時代があった。40代以上は聞いてしゃべれるが、30代は聞けるけどしゃべれない、20代以下はもうよくわからない、子供はおじいちゃんおばちゃんの言っていることを全く聞き取れないのでは、と子供相手の仕事をしている人が言っていた。島言葉の問題は早くなんとかしないと、とその人は言う。

季節 教科書に書いてある季節感と、ここの季節感とは違う。本州ではトンボは秋だが、ここではいつでもいるし、渡り鳥も中継地点なので春ではなく秋につばめがいる。それで与論の子供用の教材を作ったりする。
季節は夏が長く、春秋がほとんどない感じだという。冬は10度以下になり、あらかたの草は枯れる。北風が強く体感気温はかなり寒く感じるらしい。
確かにこの旅行中、全国ニュースで「今日は全国的に秋晴れのよい天気で」と言っているのを見たが、奄美地方は雨で暑かった。

お墓 葬式は土葬で、3〜5年で掘り出して洗骨して甕におさめる。

お墓 甕
お墓(ぞうりが備えられている)



洗骨をおさめた甕



ポンプ

 地下水はアルカリ性でまずく、わかすとやかんが真っ白になるほどだったが、最近海水を浄化させて真水を作る装置ができておいしくなった。
畑ではよく散水している。個人で井戸から散水する人もいるが、コイン式の散水装置が道端にあるので、パイプで自分の畑まで引いて散水したりする。水圧の高低によって散水したか止めたかをセンサーで感知している。


 島では月十数万あれば暮らして行ける。三十万もとればかなりの高給とりだという。都会に出てもなじめず戻ってくる子もいるが、仕事はない。それでも親戚を頼ったり(バイト仕事をもらったり)でそれなりに生きてゆける。このあたりの話に、台湾の家族や親戚関係に近いものを感じた。またおそらく本州でも、ちょっと前まではそうだったのではないか。

 島には高校まであるが、大学ヘ進むのは数人、行くだけですごいことだそうだ。都会にいる人間は情報も機会も多いから、下駄をはかせてもらっているのと同じだと思う。ところで、徳之島出身の阪大医学部を出た代議士が、離島にも病院を、と病院のなかったこのあたりの島に病院を建てていった。沖永良部にもその会のバスが走っていたし、与論でも目立つ。毀誉褒貶はあるようだが、島から阪大というだけで地元を背負った気になるだろうし、やはり病院は必要だろう。

 与論や沖永良部の人は、沖縄は国から補助がいっぱい出ているから、いっそ沖縄県の一部になった方がいいんじゃないかと言っているそうだ。鹿児島にいると鹿児島のお荷物のように見られるから、と。ところで今年(2002年)は沖縄の本土復帰30周年で新聞等でも大きく報道されているが、奄美諸島の本土復帰の際にはどうだったのだろう。実は私自身、奄美も一時期アメリカ領であり戦後しばらくたってから(昭和28年)本土復帰を果たした地であることを、今回の旅行ではじめて知った。奄美諸島については情報があまりない気がする。

民俗村

民俗村 茶花から赤崎まで歩く。途中神社がないか地元の人に尋ねると、「アジェミチェーの神社がある」という。アジェミチェーとは何かよくわからず、聞いても「昔の偉い人でどうこう」とよくわからなかった(按司根津栄のことか?)。ここも祠は古そうだが鳥居は新しい。
赤崎にも鍾乳洞があるか、現在入れないという(2001年)。
民俗村では係の老人が解説してくれる。昭和32年に電気がとおり、40年に水道ができた。それまではランプ生活、水は井戸から汲み上げていた。屋根から吊るした円形のハンモックがあり、赤ちゃんの揺りかごだそうで、「このおかげで海に出ても酔わない」というので皆笑った。芭蕉布織りの小屋もあり、本州から来た女性が研修しているという。魚拓の並ぶ小屋もあったが、ここでも昔に比べとれなくなったと言っていた。こうした話は訪問した(数は少ないが)本州の漁村でもよく聞いた。奄美地方独特の萱葺きの倉には、芋、麦のほかに昔は粟もたくわえたという。今は作っていないらしいが、数年前に復活させようとしたところ、種がなかった。それで長崎からとりよせたという。倉の足は6本8本10本、多いほどいい。木材は島ではとれないので、奄美や沖縄から運んだ。


抜港体験 与論にも港は2つあり、通常は与論港につくが、荒れているときは茶花港につく。たいていの島に左右両側に港があり、風向きによって変える。抜港はよくある。船長判断だという。
この日は朝から風が強く、ときおり横殴りの雨も降っていたので気になっていた。朝電話したところでは、与論港に11時40分入航だが、条件つきだという。条件つきとはどういうことか聞くと、そのときの判断で来ても接岸せずに行ってしまう可能性があるということらしい。
赤崎から歩いて港に向かう。次第に風が強くなり、立長の集落を抜けたあたりからはひたすら風の中を歩く。港が見えてくるが船影はない。ますますいやな予感。
港に着いて切符売り場へ行くと、「条件つき」とスタンプを押して切符を売ってくれる。抜港になったら払い戻すとのこと。
待つことしばらく、女性職員の「抜港でーす」という声が待合所に響き渡った。「今から払い戻しますのでお名前おっしゃってください」、と同時に人々が殺到する。「今から鹿児島行きの飛行機に間に合うかね」とお婆さん。皆次々に飛行場を目指して行くので、徒歩のこちらも間に合わなくてもだめ元で飛行場へ向かう(与論港のすぐ裏ではある)。
到着するとちょうど搭乗手続き中。奄美行きは結構並んでいるので焦るが「20数席あきがあるらしいから大丈夫みたいよ」という声が聞こえる。搭乗してみると例の36人乗りがほぼ満席だった。お婆さんも孫らしい若者や女性と笑っており、取れたようだ。ところで風で船が接岸せず飛行機は出る、というのは不思議な気もするが、知人の話では飛行機は風には強いという。逆に雨に弱いらしい。

山羊 牛
山羊



あちこちで飼われている牛




このページは2001年の奄美諸島旅行に関するページです

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