奄美大島


 新規就農した知人を訪問したついでに、奄美諸島のいくつかの島を回った。佐渡についで大きい島という割には有名でないが、今回偶然訪問して初めて、奄美は沖縄ともまた異なる歴史と文化を持っていることを知った。また沖縄ほど知られていないが、戦後しばらくアメリカの軍制下にあり、昭和28年に本土復帰を果たした地でもある。このあたりは、琉球、薩摩、大和が二重三重に重なり合っている感じだ。さらに知人の話によれば、沖永良部は古事記などを学ぶと必ず、日本の古い物語が残っている島として登場するというし、また与論島には平安時代の古い言葉が残っているという。沖縄ほど中国の影響を受けず、統一勢力を作らなかった分、ヤマト以前の古い文化の色彩を色濃く残しているようで、この南の諸島がけっこう興味深い歴史の地であることを実感した。

群倉

 アヤマル岬のそばに、笠利町の資料館がある。古い写真も展示されており、例のきのこのような萱葺き小屋が並ぶ当時の集落のようすは、マレーシアあたりの光景にも見える。かつての奄美の村の風景はこういう感じだったのではないだろうか。非常に気になる写真だった。
(右の写真は大和浜の群倉) 


鍬

 空港へ行く途中、サツマイモの収穫をしていた。そこで使用していた鍬の形が面白かったので撮らせてもらった。なお、奄美諸島から本土へサツマイモを持ちこむことはできない(虫がいるため)。

森

トフル墓そばの森のようす 

 下の写真は、空港そばの古墳群の一つ。アヤマル岬から空港までの道沿いには、けっこう遺跡があった。写真は横穴式の墓で、森のようすは、そう背の高い木がなくまた細い木が多く、茂ってはいるが明るい感じでミャンマーの村に似ていた。

トフル墓 喜子連遺跡
トフル墓(笠利町)



喜子連遺跡(笠利町)



風景

 名瀬の飲み屋その他で地元の人から聞いた話。

○ 奄美には昔族長のような人達がいた。そこへ琉球が来て、そのあと薩摩が来て支配した。統一勢力だの王朝だのはなかった。役所の人いわく「サトウキビ1本かじると、とがめられた」
  昭和28年の本土復帰前には、ドルでも円でもないお金が使用され、米兵がいっぱいいたよ、という。
○ 有名な鷄飯屋がお休みだった話をしたところ、「今人少ないから休んでいるんだよ」という。「県庁の人が帰っているからね。連休でしょ」「連休だと観光客が多いんじゃないですか?」「観光客はあまりいない。何もないところだからね」
  「奄美は山しかない。だから雲の研究する人が来るよ」「奄美の海、特に加計呂麻との間の海峡は一番きれいな海だ、沖縄よりもはるかにいい」あるプログラマーの友人は、何もないところがいい、と毎年遊びに来るようになった、それが4年ほど続いているという。また沖縄の島々をめぐって最終的にここに住みついた新潟出身の若い男女もいるそうだ。
○ 奄美によくある諸鈍、屋鈍といったドンのつく地名について、「わからないけどよくある。みんな宛て字なんですよ」
  このほか奄美に阿室釜、加計呂麻に西阿室、与論に請阿室、という地名があるのだが、「沖縄のアムロナミエとかとも関係あるのかな」と言うと「沖縄?沖縄とは全然違う」とおばさんたちからむきになって言われた。「アムロ、というのは平家の落人が行ったところなんだよね」
  また奄美や与論で見かける「グスク」という地名についても、「ああ、沖縄でもそう言うね」という感じで、あちらが本家で奄美がその影響を受けたという見方はしないようだった。「沖縄は中国とかの影響も強いでしょ」と言っていた。
  アンキャバ、という地名を加計呂麻、奄美で目にするが、地元の人いわく「行ってみるとわかるが、なんかこう、わさわさした感じ、波も荒く荒れた感じのところを言うんだな」またあちこちにあるアギナ、アキナという地名も何か共通するものがある、出身はアキナです、と言うと、(あちこちにあるので)どこのアキナですか、と聞く、という。
  ところで奄美諸島から沖縄を見ると、やはり王朝があるだけ、また貿易がさかんだった分、華やかに見える。そして奄美諸島には現在の沖縄よりも、古い文化がそのまま保たれている感じがする。
○ 奄美でもニライカナイという名称を目にするが、きくと「これは最近こういうようになった。沖縄の影響だと思う。ただそういう考え方は昔からあった。遣唐船とかみんな海から来るでしょ。海から神様が来るという思想はあった」


土俵

○ (右の写真は奄美でよく見かける土俵−小学校校庭のもの)
  「奄美にも寺はある。でも最近だねあれは。西本願寺だの何だの入ってきて。昔はなかった。神社はあるよ。でも教会がね、集落ごとにあるんだ」戦争中宗教弾圧があった、と言っていた。
  奄美の神社は有盛神社、他に何とか盛神社(忘れた)が2つあり皆平家の落人だとも聞いた。
  古仁屋で聞いた話では、寺はないが人が亡くなると坊さんを呼ぶ、でも集落によってまったくやり方が違う。葬式も家でやったり、他所でやったりいろいろ、洗骨はするがそれを家も持ち帰るところ、絶対に持ちかえらないところ、お盆の迎え火のように家まで火をたくところ、それぞれ集落によって異なり、一概に言えない。
  ところで奄美は集落ごとの結束が強いらしい。よくXX県人会があるように、東京や関西には集落ごとにそういう会があると言っていた。
○ 「ケンムンとかガラッパとか、あれは子供に対するいましめだね。こういうことをしちゃいけない、という」ガラッパは河童のような格好をしているという。ケンムンはガジュマルにいる。「子供の頃、ガラッパに石投げて、一時期頭がおかしくなったのがいた」と写真家氏。
  奄美では湯湾岳が一番高く694m、この山と神屋の二つを並べ称し、ここに神が降臨したという言い伝えがある。笠利のほうにももう一箇所、奄美の祖となった神が降臨したと言い伝えられているところがある。
○ 「粟は昔作ったよ。麦とか。田んぼのいいところは薩摩に強制的にサトウキビに変えられた。お金になるでしょ。だから自分たちのものは山に作った。樸はその頃のこと知ってるけどね」と年配の人。「昔の写真とか見ると、山の上のほうまで畑なんですよ」と写真家。「湯湾岳とか奥のほうは昔のままだけれど、名瀬の近辺の山はみんなそんな感じだったらしい」「ソテツなんてまずかったね。郷土料理にうまいもんなし、ていうでしょ。救荒作物だからね」
  別の人の話では、「昔は田んぼはいっぱいあった。でもサトウキビのが金になるからな、それでみんなキビに変えたんだ」。
○ バナナと芭蕉はよく似ているが、芭蕉のほうが茎が細い。そしてバナナはバナナが成るが、芭蕉は実がつく。パパイヤとソテツは雌雄異体、でも苗では見分けられない。実がなってはじめてわかる。
○ バスの運転手さんの話では、仕事のあと夜ハブをとって小遣い稼ぎをしている、という。行政は一匹5000円で買い上げてくれるらしい。ハブや夜行性なので夜出歩く、車を流して道に出てきたところを捕まえる、年間100匹ほどとれるが一晩で5匹もとれたりまったくとれなかったり。
○ ある名瀬の人の意見。「西郷隆盛はそりゃ日本の歴史にとっては偉大だろうが、その陰では泣いている人がいる。あの金はどっから来た?奄美のサトウキビの金だ。こっち来たとき妾こさえて、虎次郎というのちの台湾総督になった子が産まれた」


名瀬の銭湯記 についてはこちら

なみのうえ

台風と船旅体験 台風が近づいている中、船で鹿児島から奄美大島へ向かう。出航するか気になったが、いちおう出るらしい。フェリーなみのうえ(写真)は、予想していたよりもはるかに大きい船で、これだけ大きければ多少の荒れにもびくともしないのではないかと思ったが、それは甘かった。
乗客は南方系の顔立ちの人が多く、あとはタイビング系の人たち。船着場には見送りの家族や親戚が結構大勢いて、いかにも船旅の感じ。犬も二匹乗船して、毛布の上につながれて乗っている。
台風が近づいているため、名瀬経由那覇行きだが、徳之島、沖永良部島、与論島には寄らない、安全第一に考えて名瀬止まりもありうる、また途中鹿児島に引き返すこともありうる、と艦内放送が流れる。
二等で申し込んだが、ぎりぎりの乗船だったせいか大部屋の雑魚寝ではなく女性用8人部屋の上段になった。お盆の帰省客が多いせいか、大部屋も満員に見える。それぞれ枕と毛布で場所が確保され、八丈島行きのめちゃくちゃな場所取りとは大違い。皆部屋のテレビやラウンジのテレビでニュースの気象情報を見ている。東京の有明発、大阪発、志布志湾発の船は軒並み欠航になっている。この船は出航するが大丈夫だろうか?ニュースでは台風は大型、進度が遅く、明日よりもあさってしあさってあたりが荒れると言っていた。動くなら、と乗ってしまったが、奄美まで到達できても帰りの便が出るか、それもかなり不安だ。下手すると火曜まで足止めになる可能性がある、
大隈半島を抜ける時点でいったん放送あり、これから外海に出るので荒れる可能性がある、とのことだった。このときはまだそれほどの揺れではなかった。同室の女性らはカーテンを閉め、すでに寝る体制。あとでわかったが揺れているときは横になっているのが一番のようだ。
屋久島海峡を抜けるときにまた放送があり、このあと揺れる可能性があるとのこと。名瀬出身の知人にあらかじめ聞いて情報を得ていたのだが、島のあるところは不思議と揺れない、このあと奄美大島まで大きい島がなくなるので揺れるのだという。ただ与論と沖永良部の間は揺れるそうで、何か海流があるのかね、という。
11時半頃から2時頃までかなり揺れた。波が船体にどーんとぶつかるのがわかり、戦争体験で読んだ南洋へ向かう軍艦の船底での記録を思い出す。30分が長く、やっと12時半あと4時間半、と数えていた。いったん起きあがって様子を見に行くが、大部屋の人達も静かに寝ているし、ということはこの程度の揺れはあり、なことらしい。また外を見ても甲板に水飛沫がかかっている様子もない。つまりはその程度の波で船はかなり揺れるものらしい。けっこう自然はすごいのだと実感。
2時から揺れがおさまり、4時45分に艦内放送が流れて名瀬到着。台風は停滞している。とりあえず船は那覇へ向けて出航するが、安全第一に考えて戻ることもありうると放送が流れる。
港で帰りの便について聞くと、「早まるみたいですよ。午前中に出るらしい」、そして夜9時出発が午前10時入航、荷物の搬出入が終わり次第出航、と張り紙がある。約5時間で名瀬周辺を回り、帰りの便に乗ることにした。

帰りの便はすいていた。台風は昼のニュースでは超大型、しかしまだ暴風域には入っていない。揺れは同程度、明るいので外を見ると海はうねっているだけで特に波しぶきがあがっているわけでもない。しかしかなりまとまって高くなったり低くなったりしており、たしかに海底に何かいるようにも感じる(海坊主とか龍とか)。
皆揺れの激しいときには横になっている。そのほうが楽で、揺れに身をまかせている。このあたりではこの程度の揺れは普通なのだろう。やはり南西航路は台風下での航行に慣れているようだ。洞爺丸の遭難は、台風の状況判断に慣れていなかったこともあるのではないかと感じた。戦前から南西諸島の往来は船だけだったはずだし、その割に大規模な海難事故の話を聞かない(戦争中、疎開児童を乗せた船が撃沈される悲劇はあったが)。抜航する、出航を早める、途中で打ちきる、引き返す、欠航する、などさまざまな状況に対応したノウハウがあるため、確実な運行を行い無理はしないようだ。



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