礼  文  島  2

 2017年夏、利尻礼文島を訪ねたときの写真

礼文島 2日目続き  鉄府から浜中へ    1日目はこちら
鉄府



 ロングウォークだとここから南のスカイ岬へ向うが、今回は船泊湾の浜中へ向かう。丘陵を横切るので登り道
 右下:鱈釣遭難の慰霊碑があった





 丘陵地を越える 礼文固有種レブンアツモリソウ群生地があり(右下)、周囲は落葉樹針葉樹がまばらに生える一帯だった(花はよくわからず)





 右上:神崎小学校 二宮金次郎の像がある   左下:パッチワークは苗木を育てているところ
 礼文はスコットランドのような草の丘の光景だが、森林化をはかっていることが、このあとわかった(後述)
 右下:船泊へのメイン車道





 道路脇の菜園に、「ここは国有地です 菜園使用は禁止」云々の立て看があった

浜中



 浜中集落(船泊) 漁協のスーパーがあり、結構車が停まっている 若い女性、子連れ若夫婦、老人3人連れなど次々入って行く 今まで全然店がなかったし、島の北部はここしか店がない感じだ
 左下:村社 禮大神社(禮の字の示す編が異なるが、PCのIMEで出ない)



 右上:船泊湾 北の金田岬方向を望む   下:船泊湾 西の江戸屋、ゴロタ岬スコトン岬方向





 金田岬へ歩く  このあたりから東海岸の上泊にかけて新築の家が多いと感じた。この周辺では聞けていないが、港に戻ってから地元の人に聞くと、以前このあたりで土砂崩れがあった、そのためではないかという



金田岬



 スコトンほど有名でないようだが、いちおう観光地らしくトイレがあり、漁協の土産物屋もあったが閉まっていた。車で来た人数名が写真を撮っている。なお、この岬の上が礼文空港





 ここからひたすら歩いて南下  時間的に岬の西側は日があたって暑かったが、東側に来ると風が強くて寒い
 そういえば宿のミーティング時もストーブをたいていた。利尻でも数日前までたいていたと聞いた。真夏にこれでは、一年中ほとんど必要なわけで、利尻や礼文に住むと燃料代がかかりそうだ。



 幌泊あたり  右上:空港下バス停



 こうした海岸脇の小屋は、昆布を入れる小屋だという



 ところで、こうして歩いて気になるのが防潮堤。四国遍路歩きをしたときは、海岸線は防潮堤で囲われ、海が見えなかった。堤がないと景色はいいのだが、どうなっているのだろう。
 地元の人何人かに聞いてみると、みな「防潮堤はない」と言う。「何かあってからでは遅いんだけどね、何年か前に台風が来て大波があった。直撃しなかったが利尻と礼文の間を通り2000トン級の船がひっくりかえった。だから来る」と言う人、「高潮はめったに来ない。台風は来るが浸水したことは今までない。チリ地震のときも来なかった」と言う人、「70年いるが高潮は来ない。台風は来るが」と言う人、さまざまだった。



 左上:利尻が見える  右上:魚網干場 草の生えているところは持ち主がいなくなった様子(向いの家も空き家だったりする)   左下:利尻拡大






上泊あたりから赤岩へと歩いているとき、不思議な雲に出会った
よくオーストラリアなんかに出て、グライダーで上昇気流に乗ってみせるモーニング・グローリーに似ている
時系列に左上15:45 、右上16:06、左16:26、と西から東へ島の上を通過していった
別に雨は降らない
北の礼文にも出るんだと思った

このあと、赤岩のバス停から港に戻る



 地元の人の話:
 礼文島には、昭和40年頃は8500人いた。今は2500人。町は1万人以上いないとだめ、2500人で町はありえない。合併話もあり賛否あるが、稚内と一緒になるとごみ処理場押し付けられる云々でやめになった。
 青森の人が多く、津軽町の地名がある。秋田の人も多い。
 小樽航路も20年近く前やめになった、ハートランドフェリーも夏は客がいるから走らせるが冬は波が7mだとださない、7mなら出せるが燃料費もかかる。
 礼文にもかつては病院があったが、今は診療所が2つあるだけ。
 礼文は稚内より10度暖かい。利尻より5度暖かい。日本海だから、利尻は半分日本海半分オホーツク。暖流の対馬海流が来るので暖かい。流氷はめったに来ないが来ることはある、来ると昆布がこそげてだめになる。

 確かに、フェリーが1日4便あるのを見て、ずいぶんあるな、採算とれるのだろうかと思った。稚内か利尻礼文どのフェリー乗り場だったか忘れたが、満席だと乗れないことがあると放送していたので心配したが、案内所の人は「定員があるからね。でも満席になったことはない」と言っていた。


礼文島 3日目
 ユース前の湾でウニ漁をしていた
 元地で地元の人と話したとき、5時半から7時半までと時間が決まっているという。確かに7時半になると放送が流れ、「ウニ漁をしている人はすみやかに上がってください」と言っていた。
 ユースのスタッフらが「行ってらっしゃい」と送り出してくれる



 丘陵へ向かって歩く途中、元地を通った。
 お爺さんがのんびり立っていたので、少し話す。桃岩荘がニシンの番屋なので、礼文の西側のほうが獲れたのか聞くと、「ニシンは両側で獲れた、自宅もニシン場だった」と言う。雪はどのくらい積るのか聞くと「昔は雪かきしないから2階から出入りしていた」「そうですよね、昔は雪かきしないで皆で踏み固めていた、とよく聞きます」「今は10センチですぐ雪かきする。車だから。昔はみんなで歩いた。香深の映画見に行くのもみんなで行った」「香深に映画館があったんですか」「あったよ。ここにもあった。うちでやっていた。この家結構大きいんだ。元ニシン場だから。ここの人百人くらい集めてやった」トンネルが新しくなりバスの順路も変わったようだから、エンカマ、浜中は通らなくなったでしょ、と言うと、「そうそう、あっちは行かなくなった。トンネルはこれで3つ目だ」トンネルあるあるだな、と思い「最初のトンネルは山の上のほうでしょ」「そうそう、雪のひどいときは風で雪が入っちゃってみんなで掘り出しに行ったよ」そして「もうあっちはほとんどいない。エンカマは誰もいない。浜中も一人か二人」
 東京近郊の山村でも、峠に最初XXトンネルができたときは皆泣いた、と聞く。旧国道のトンネルはどこもくねくね曲がった山の上、ほんのちょんぼり。やがて新道ができ、山の下を長いトンネルでぶち抜いて、ほぼまっすぐな道をスピード出して走れるようになると、泣いて喜んだ旧道のトンネルは廃道化する。残しているところもあるが、ふさいで通れなくしているところも多い。
 当時のニシン漁の様子は、中西礼の自伝小説を読むと、感じがよくわかる。



 歩いてトンネルを越え、香深との間の丘陵を上る  右下:香深が見える



 このへんの沢の奥に、香深の水源がある。桃岩への車道の曲がっているところから沢を上った先にある、という。水源は船泊、円路など集落ごとにあり、高いところへポンプアップしたりしている。かつては貯水池もあったし自分で持っている人もいた。奥多摩あたりと同じやり方(簡易上水道)なのだろう。



レブンウスユキソウ群生地
 左上:礼文林道入口 この先にレブンウスユキソウがある





 左上:レブンウスユキソウ  いつも思うのだが、高山植物は、華やかな栽培種の花に比べ、なんてことのない白い花だ  レンジャーの車が停まり監視している(おそらく花の盗掘防止)



 右上:苗木を育てている
 林道脇に、「保安林改良事業」という林野庁のパネルがあり:
「礼文島香深地区は過去の大きな山火事の発生により、多くの森林を消失しました。この地域一帯は礼文の大切な水源林であることから、失われた森林の回復を図るためにアカエゾマツ、ナナカマドなどを植林しています」とある
 森については、「狐の駆除で山焼きしたから森がない」と、今回別のところで聞いた。エキノコックスがはやったので、そのための駆除だった、あれは潜伏期間が長く一度発症すると死ぬのを待つしかないので、残酷だという。
 ちょうど作業中の人たちがいたので、聞いてみた。狐駆除の話は知らないようで「このあたりは昔ニシン獲ってたでしょ。ニシン油取るのに煮るから薪がいる。それで森林伐採したんじゃないか」「確かに山火事も多かった」という。
 また、ここは雪や寒さよりも雨と風がひどい。そこのトイレも、強風で倒れるからフックで固定している、屋根も固定しているという。



 早めに行ったせいか、ほとんど誰もいなかったが、このあと引き返していると、続々人が登ってきた





 林道先から香深井に出られるが、時間がないので引き返し、桃岩展望台へ



桃岩展望台
 右上:桃岩展望台下の駐車場  ハイキングコースにはツアー客が大勢登り降りしている





 桃岩はかつて、アイヌの古戦場だったなどの伝説がある。40年前までは登ることができ、50歳以上の島の人は遠足で桃岩を登ったという人が多いそうだ。礼文島は古くに隆起した島で風雨にさらされもろくなっており、あちこち崩れやすいという。  右下:桃岩  右から登れたらしい







 花の名はよくわからないが、エンドウのような紫の花が、植物学的に唯一のレブン固有種のレブン草と聞いた。左上がそうだろうか。あとはレブンXXと名のつく亜種らしい









 フェリーに乗ると、宿からお客さんを車で送ってきた桃岩荘のスタッフが、歌って踊って見送ってくれる。
 ツアー客など他の乗船客も、若い頃ユースホステル文化を体験しているのか、おじさんおばさんたちが一緒になって手拍子したり、知っている曲は歌っている。子供もやってきて手拍子、手真似で踊る。暑くて大変そうだが、おばさんらが「がんばって!」と若者スタッフらに声をかけ、最後は皆で手を振り続けて、他の人もみな「いいわねー」としゃべっていた。
 小笠原の、さいご海に飛び込んで船を見送る光景を思い出した。でもあれは週1回。ここは毎日4回あるので、お客さん送るときだけとはいえ、大変だ。いっそ礼文文化として小笠原のように島民持ち回りでやってはどうだろう(ただなんとなく、青森など東北の人が多いせいか、礼文一般は、小笠原沖縄のようなノリの良さが乏しい気がする)。

 考えてみれば、昔の社会は皆でやることが多い。草刈道普請水路管理水源(井戸)管理屋根葺き、田植えなどの農作業。元地の老人ではないが、みなで映画を見にゆく、というのもそうだ。
 誰だから行くとか呼ばないとか、そういう恣意的な選別は、基本的にその集落の成員である限りない。もちろん、絶対なかったわけではないが、基本的にはコミュ能力不足の人だろうが、空気読めない人だろうが、とにかく”みなで参加”のイベントが四季折々定期的にあった。祭り、冠婚葬祭もそうだ。
 これは結構大きいと思う。今はスクールカーストなどコミュ能力高い人でないと誰ともつきあえなくなったりする。近代社会で自我が確立したせいだかなんだか、今は”ヤマアラシ症候群”で孤独な人が多い。日本だけでなくイギリスでもそうした調査発表がある。世界的傾向だろう。
 別に皆とすごく仲が良いわけではない、でも皆と一緒に行うイベントがあって大勢の中の一員という状況、「本当の友達」なんていないしいらない、でもこうして皆で活動するときが日々の生活の中にあれば楽しめるし寂しくない、というタイプの人は、意外に多いのではないかと思う。
 それが変な方向に向かうとオウムだのになってしまうが、個人の生活が”理想”や”思想”にとりこまれず自立して営まれる一方、社会との関わりが定期的にある、という状況は、”あり”だっだのでは、と思う。近代化の波で、次第に破壊されつつあるが。


宗谷本線  稚内市内  利尻島  礼文島(スコトン岬ゴロタ浜)  礼文島(金田岬桃岩)




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