この長野原、嬬恋村の錯綜する一帯は、浅間山麓の北斜面に位置する。標高が高く、夏も気温はあがるがさわやか。畑は道路や集落からさらに上に登ったところに台地状に広がるケースが多く、集落をつなぐ道は台地のへりを進むか、谷にくだって川を越えまた次の山を登り、とアップダウンしながら続く。足下に深く落ち込んだ谷の向こうに山脈が連なる景観が続き、南西には雄大な浅間山が見える。今まで畑を借りた中で、もっとも景色がよく、またもっとも「都会を離れ別天地へ来た」という印象のある、リフレッシュできるところだった。だいたい高崎から吾妻線に乗り換え、渋川を過ぎたあたりから随分田舎へ来たもんだ、という気分になる。場所の遠さと交通費の高さ、冬の早さと寒さを除けば、脱サラ就農者人気の中山間地のイメージどおりでもあり、本当に良いところと思う。
今は忘れ去られた集落のような芦生田、小宿にも、かつて草津から万座鹿沢口を抜けて北軽井沢へ通じていた軽便鉄道の駅のあとがあった。この鉄道は日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」の舞台にもなっている。昭和四十年代の集中豪雨で吾妻渓谷の橋が流されて以来、ついに復旧できなかったという。地方へ行くと、こうした軽便鉄道のあとを目にすることが多い。農業に触れるきっかけとなった栃木県西那須野町にあるアジア学院のそばにも、大田原から黒羽だかへ抜けていた軽便鉄道のあとが遊歩道になって残っていた。また一昨年に畑をお借りした水戸の農家の裏にもかつて軽便鉄道が通っていた、という話をご両親から聞いた。こうしたことも、地方のバス路線の廃止に通じる時代の流れなのだろうか。昔は徒歩、今は自動車というように、結局地方は公共交通網で結ばれるよりも個人で移動するほうがあっている、というか採算が合わずそれしかない、ことなのかと考えさせられる。
7月、8月始めは間引きと除草。多めに種をまくと後で大変だ、ということがよくわかる。間引きや除草が遅れると成長も悪いが、終えた後は一気に胸のあたりまで丈が伸びた。マルチをすると、雑草が生えず基本的に間引きの必要もないので、ほっておいてもある程度勝手に育ってくれ、手抜きができる。しかし芦生田のほうはそうはいかない。
8月半ば、農協の栽培方法に倒伏を防ぐため土寄せすると書かれていたが、畑へ行くと1列の半分くらいを土寄せしてあった。土寄せの方法を、貸し主の老人が示しておいてくれたらしい。この頃はまだ鯉淵学園に通っておらず基本を一切知らなかったため(この年の10月から翌年3月まで新規就農コースに通った)、ありがたかった。防鳥対策について岩手の農協に聞いたところ、岩手では鳥の害はあまりない、せいぜい鳥追テープを張るくらいだと言っていたので、鳥追いテープを設置した。粟、黍、稗は穂が出て結実しているものもあり、高黍は1.7メートルほどでまだ花は咲かない。
鎌原へ行くと、高黍の周囲に杭を打ちビニールテープでがっちり囲ってある。粟黍稗は背丈くらい、穂が出て結実しはじめており、高黍は1.8メートルくらいになっていた。鳥追いテープを設置して、除草の残りをしていると、貸し主がお孫さんと一緒に来た。粟の土寄せをしたいがマルチの上に土寄せしてもいいかと質問すると、普通マルチには土寄せしない、わざわざ土寄せしなくても、杭とテープでこうしておけば倒れず大丈夫だ、と言う。そしてその場で稗の回りに杭を打ちテープを張り始めた。私も手伝おうとしたが、農家はこのくらい簡単にやるんだ、そのまま除草していいという。杭は廃材、杭を打つ槌は手製だった。この後も毎年、各農家で干し場を作る素早さや手製の用具に器用だな、よくできていると感心することが多い。こうした自力で必要品を作る能力は、農業に必ず必要だ。
ちょうど8月のこの時期は、嬬恋村のキャベツの収穫期だった。小宿周辺でも鎌原でも、まだ真っ暗な早朝2時か3時頃からライトを煌々と照らしてキャベツを収穫していた。そして8時頃には道路端に段ボール箱がうず高く積み上げられ、搬送トラックを待っていた。
萱の家には囲炉裏が切ってある。当時2軒を住めるようにしていたが、1軒はすでに囲炉裏が板間に変わっていたので、再び囲炉裏に戻すのに苦労した、一番大変だったのは灰で今なかなか手に入らない、川原湯のほうで取り壊される民家があると聞いて駆けつけ、灰や自在鍵を手に入れた、と修復に関わった古い会員から聞いた。基本的に煮炊きは囲炉裏で行う。薪での煮炊きは意外に簡単で早く炊きあがる。冬に行くと、囲炉裏の暖かさに”暖をとる”という言葉が実感としてしみじみ感じられる。古い大きな萱の家のほうは、天井に太い梁がむき出しで、かつては養蚕地帯だったため二階は全面蚕棚になっていた。二階は昼なお暗く、夜ふけになるとミシミシ何かが動く音がした。
大きい家の大家はこの小宿地区の区長さんで、隣に今風の家を建てて住んでいた。小宿には今は10軒くらいが残っており、畑のある応桑に家を建てたり、吾妻線の駅近くや高崎のほうに出ていった家も多く空き屋も目立つ。萱葺きの家は大抵そうして出ていった家か隣に新築した家の空き屋で、当時10軒近く残っていたが、もう修復しても住めないだろう、という家も多かった。この萱葺きの家が立ち並ぶ光景も(このあたりでは”クズ屋”と呼ぶんだが、と会長さん)あと10年くらいで終わりだろう、という。
大きい家に泊まると区長さん老夫婦がお新香と薪を持って顔をのぞかせてくれ、安心だった。帰りがけに新宅へ寄って茶飲み話をして帰ることも多かった。
ふもとの農協で買い物をしたり(ここは土曜日も開いていた。栃木、茨城では土曜に営業している農協を見ない)自転車屋に修理を頼んだりしていると、よくどこに泊まっている、何を作っていると聞かれた。そして俺の弟がその奥の家に養子に言った云々言うので、この辺、てほんと狭いなあと感心した。
9月始め、芦生田の黍と稗をかなり鳥にやられる。老夫婦も気にしていたそうだが、こちらの防鳥対策不足なので仕方ない。とりあえず残りを刈り取り、鳥避けに寒冷紗を
かぶせて干した。鳥に腹を立てて荒っぽくざくざく刈っていたため、手を鎌で切ってしまい、病院で6、7針ほど縫うはめになった。このとき、誰もいない山上の畑で一人作業をして怪我をした場合の恐怖を味わった。手だから良かったものの、足を切って動けない場合は連絡の取りようがない。また田舎は病院も遠い。ちょうどこの日は友達が遊
びに来る日だったので、車で病院に迎えに来てもらうことができたが、そうでなかったら交通手段がなかった。やはり農業は本来一人でやるべきではないようだ。パソコン通
信の農業フォーラムでも、新規就農して農機具(特にカッター)で指を何本かなくした、それで一時夢を中断している、こうした事故による中断や断念は意外と多いのではないか、という本人からの書き込みを見た。九州に女性一人で就農した友人は、刃物を使うときは、嫌なことがあっても考えごとなどしないで注意して使うようにしている、と言う。悪いときには悪いことが重なる、というのは、心配事を気にしたり疲労がたまったりで注意が散漫になった結果、さらに悪い結果を招くのだろう。
翌日地元の農協に防鳥対策を尋ねると、細い糸を張るといいというので張る。鎌原の黍を刈っていると、貸し主が孫の運動会の帰りに見に来て、黍に鳥がつき始めたから全部刈ったほうがいいが、その手じゃ無理だから刈っておく、2時間もありゃできる、と言った。鎌原も芦生田も雑穀の房は大きく、実つきは良かった。
9月半ば、芦生田で粟を刈る。老夫婦も見に来て、おばあさんは「あと一週間かねえ」と言ったが、鳥に食べられるのが恐くて刈ることにした。二人は島立ての方法と藁で束ねる方法を教えてくれた。農協の作り方にも島立てにして天日干し、とあったが、島立ては藁で縛った束を4本、穂の下でまとめて縛り、四脚にして立てて干すやり方。昔はどうやって鳥を防いだのか尋ねると、昔はこんなに鳥は来なかったな、あちこちで作っていたから、という。会長さんも、ここしか作っていないから集中してやられる、田圃でもどういうわけか雀に見つかるとそこだけ集中してやられる、と言っていた。ちなみに東京の烏山農協に防鳥対策を聞いたところ、防鳥ネットで固める以外「どれもだめですよ」と言われた。鳥追テープ、目玉風船、細い糸、どれも効果ないという(音は都会では無理)。鳥も都会に近づくにつれ、すれてくるらしい。
鎌原へ行くと、黍も稗も刈ってあり、干し場に立てかけて白い不織布がかけてある。ちょうど貸し主のお兄さんがトウモロコシ畑を見に来ており、この布はキャベツ畑にかけるもので、これをかけておくと蝶が卵生めず有機キャベツとして出荷できる、キャベツも終わり使った余りだからいいんだ、と言った。そして粟は「梅雨明け(秋の長雨のこと、通常9月25日以降らしい)に刈るのがいいな」と言う。やはりおばあさんの言うとおりだったようだ。「昔は稗は干し場へ石をぶつけると種が落ちて、それで脱穀していたんだ、一番楽で、子供の仕事だった」
この日は刈り取りがなくなったので北軽井沢まで歩いたが、途中自家用に粟と黍を作っている畑を見た。黍は地面まで防鳥ネットで覆われていたが、粟は覆っていなかった。ということは、粟には鳥はつかないらしい。その後確かに毎年、粟に鳥はつかない。
9月末から10月初め、芦生田の高黍、鎌原の粟を刈り取り島立てにし、稗を棒で叩いて脱穀した。
ちょうどこの時期、このあたりは稲刈りの時期だった。山田が多いので、バインダーで刈り干し場で天日干しにしているところが多い。吾妻線沿線でも渋川の先から天日干しの風景が続くようになる。会津の山村出身の友人の実家でも今は機械干しだというのに、このあたりは東京に近いにも関わらず随分古風だ。芦生田でも道路沿いの田圃で一家総出で刈ったり干したりしている光景が見られ、お昼にござを広げて大勢でおにぎりを食べている様子は、懐かしい光景だった。この天日干しは、1999年秋に訪ねたときにも相変わらず続いていた。
8月以降は忙しく、6時ぎりぎりまで作業したあと、そのまま山を全速力で駆け下り、6時32分万座鹿沢口発高崎行きに飛び込む日が続いた。これがホリデーパスや青春18を使ってその日のうちに自宅に帰れるぎりぎりの電車だった。おかげで、会社で月火に土日の疲れをとる生活だった。それでも群馬行が楽しかったのは、月曜から金曜までの世界と土日の世界があまりに異なり、いろいろな意味で精神的なバランスに良かったためだ。
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