奥 の 細 道 15  滋賀岐阜編

 2003年に日本ウォーキング協会主催の平成奥の細道ウォークに参加して始まり、東日本大震災前後数年の休止を経て、個人歩きで再開した奥の細道も、いよいよゴールが見えてきました。

 琵琶湖北で賤ヶ岳峠を越え、湖東に広がる平野を進みます。寝物語の里でついに岐阜県に入り、関ヶ原を越え垂井宿を過ぎれば結びの地大垣です。


飯浦−木之本−二俣  (滋賀県)

 近江塩津から木之本へ行くには、国道の藤ケ崎トンネルを歩く必要がある。もし歩道がなかった場合危ないし、できれば国道の長いトンネル歩きはやりたくない。5万分の1を見てもいい山越え道が見当たらず(実際はあるかもしれないが)、近江塩津駅でバスを見つけたのでバスでカットすることにした。



朝7時台のバスはスクールバス状態。ところどころでお婆さんや女性も乗り降りしている。
左上:飯浦でバスを降りる。漁村的なたたずまいの集落。
右上:集落端から旧国道が分岐している。国道の長い賤ケ岳トンネル歩きはこれで避けられるが、峠頂上の短いトンネルが塞がれている可能性もある(旧道でたまにある)。ちょうど作業中の人たちがいたのでたずねると、「トンネルか、こっちのがいいよ」と言うので安心して進む。

 柴田勝家が秀吉との決戦に敗れお市の方とともに自害した話はマンガ日本史で読んだり授業で知っていたが、その決戦場が賤ヶ岳だった。史実を暗記しても具体的なイメージはなかったので、へえ、ここかあ、と急に歴史が立体化してくる感じだ。

左下:琵琶湖を望む   右下:飯浦を振り返る





 旧道を登っていると、右手琵琶湖のほとり林の中に小集落が見え隠れする(左上)。山梨子集落で、地図を見ながらルート考えているときから気になっていた集落だ。どの幹線道路からも離れ、便の悪そうなところにぽつんとある。以前関西出身の会社の同僚が、琵琶湖にはどこからも見えない隠れ里のような集落がいくつかあってその一つに毎年行く、穴場なので人に知られたくない、と話していたことを思い出した。陸路は不便でも水路ならむしろ便利そうだ。車社会の現代はともかく、水路海路がメインの交通手段だった明治大正以前の社会なら、むしろ山村より便利だったろう。

右上:旧賤ケ岳トンネル ヘアピンカーブで山道を登る古い国道峠道が、トラックも爆走できる坂無し長トンネル新道に付け替わると、旧道は廃道となり頂上近くの短トンネルが塞がれてしまうことがある。ここは大丈夫。

トンネルを抜けると琵琶湖東岸に平野が広がる
左下:山ぎわに延びる大音集落   右下:木之本方向を望む。道の両脇に、2014年の大河ドラマの主人公軍師黒田官兵衛の幟が立ち並ぶ。





木之本の駅前ロータリーには「北国街道木之本宿 木之本地蔵」と大きく書かれていた
左上:木之本駅前から延びる、お店の並ぶ石畳の旧道    右上:脇道に入る。古そうな家並みが続く。このあたり、けっこう軒の低い家が並んでいた

左下:「左江戸なごやみち 右京いせみち」と書かれた石標の建つ四辻。「北国街道 北国脇往還の交差点。北国街道は鳥居本で中山道から分れここを通り金沢に至る。北国脇往還はここから関ヶ原大垣に連絡する」と立て札にある。
右下:田圃の中を渡岸寺へと向かう





上:井口集落 水路が通りこぎれいで感じのいいところ。左上の水路を中心にした風景を撮っていると、自転車に乗ったおばさんが通りすがりに「きれいいなところある?」水路をのぞき「ほんまや、きれいやわー」、こちらが答える前に自分で受け答え、いかにも関西人だ。
左下:母待ち石(井口集落) 解説に、この井戸は昭和30年ころまで生活用水だった。母に連れられた幼児たちが、母の仕事や井戸端会議を待つ間、この石の上でままごと遊びをしていたとある。
右下:集落内の道から脇往還に戻る





左上:ケヤキのご神木 渡岸寺集落にて。槻の木十選とある。解説板によれば、湖北には「野神さん」という祭事があり、土地(農地)を守る神を宿す所として村の出入口などに立つ大木に注連縄を張り野の神を祀る、渡岸寺の野神祭は8月16日でシャギリ祭を盛大に行う、とある。渡岸寺には向源寺という立派な寺がある。ここもいい感じの村で、琵琶湖東岸は総じて明るい雰囲気だ。
右上:高時川を越える



左上:馬上集落を望む   右上:馬上集落
 庭を手入れしていたおばさんがいたので、雪が降るのか聞いてみた。「降る降る、4、50センチ」冬は年にもよるが雪が積るので、畑は無理、雪おろしの必要な年もある、雪が降るから頑丈な造りの家が多い、という。ここは融雪がないがこの近くの集落にはある、ここは遅れた(確かに1つ南の二俣にはあった)、木之本のほうはもっと降る。長浜まで行くとあまり降らない。ここも過疎で人が減った、空き家も多い、子供らはみな長浜のほうに出て家を建てている、と言うので「長浜はここから近いですよね」「近い近い」「それでも出て行くんだ」「そりゃあっちのが便利だから」。「みな庭を立派に手入れしていますよね」と言うと「ありがとう」と言った。





左上:二俣へ行く途中見かけた社
右上、左:二俣集落にて

立派な造りの家も多く、ここでも庭先をきれいに手入れしており、余裕、風流を感じる

 本当はもうちょっと先まで歩く予定だったが、地図を見ていたらちょうどコミュニティーバスがやってきて「乗りますか」と聞く。バス停そばだったためらしい。せっかくだし、地図でもこのあと似たような田畑と里山の道が続くようなので、ここは河毛までバスに乗り、あとはのんびりすることにした。



長浜−柏原−不破の関−関ヶ原  (滋賀県−岐阜県)

 ここで、平成奥の細道大会になんとか追いついたので(無理やり追いつかせた)、久方ぶりに日本ウォーキング協会主催の奥の細道ウォークに参加した。

 奥の細道では、芭蕉は伊吹山山麓の北国脇往還を通って関ヶ原へ向かった。大会でも前回、姉川までは歩いている(ゴール長浜)。今回のコースは芭蕉が奥の細道で歩いたコースと異なり、おもに中山道をゆく道。ただ芭蕉は「野ざらし紀行」などで中山道も何度か歩いている。今は国道となっている北国脇往還には歩道のない交通量の多い山道箇所があるため、こちらの道になったようだ。

大会コースタイム:長濱八幡宮9:20−松の岩公園・山村広場10:30(休)−新横山トンネル11:]15−11:55市民交流プラザ(昼)12:40−近江長駅13:30−柏原駅14:30(休)−寝物語の里(県境)15:10−妙応寺15:30(休)−不破の関16:15(休)−歴史民族資料館16:50
歩行距離:26km

 ほぼ5年ぶりの大会参加、話には聞いていたが確かに人数が減っていた。知った顔で今回見ない人が何人もいる。滋賀の協会の人も、最初は1200人程度いたらしいが600人に減った、今日は500人か?、10年たってもう歩けない人も出てくる、亡くなった人もいる、と言っていた。



左上:長濱八幡宮の山車  右下:伊吹山がきれいに見える。常に伊吹山を見ながら歩く





右上:秋明菊や白式部がきれいに咲いていた 柏原にて 花の名前は詳しくないが周囲の人が教えてくれる。人と一緒に歩く楽しさがここにある。

左下:柏原の八幡宮 説明によれば芭蕉は柏原を3回通っている
右下:寝物語の里 石碑によれば、近江と美濃の国境はこの東10mにある細い溝で、溝を挟んだ両側に旅籠があり壁越に寝ながら他国の人と話ができたことからこの名がついたとある。





左上:寝物語の里にある奥の細道と野ざらし芭蕉道の石碑や句碑
右上:藤古川へ下る 松尾付近
 藤古(ふじこ)川は壬申の乱(672年)で大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が戦ったところ。地元の参加者らの話では、「ここが関西と東海の文化の違い目」「言葉だの、もちの形だの」という。

 対岸の小高い丘の上にかつて不破の関があった。美濃関ともいい、東海道伊勢の鈴鹿関、北陸道越前の愛発関と共に古代三関の一つ。673年頃東山道の守りとして美濃と近江の国境におかれた。789年他の二関とともに廃止されたがまもなく復活、天皇死去その他大事のたび固関使が派遣された。中世以降は衰えて歌枕となった。
左下:藤古川。こんな細い川が歴史の舞台だった  右下:丘に建つ不破関守址





左上:関ヶ原古戦場跡    右上:関ヶ原駅への道

 今回、姉川、春照、藤川と続く北国脇往還は歩いていない。埋め合わせようかとも考えたが、国道の山道で歩道がなくトラックが危ない(トラックから見てもこっちが危ないはず)部分があるとの話で、長浜関ヶ原間を歩いたのでよしとすることにした。

 協会の人が歩きながら、ルート決めの苦労話をしていた。地元に詳しい各県の協会が決めるそうで、一定人数以上の歩行は国交省など行政の許可が必要、歩道の狭い国道などは厳しい、大人数だと歩けない区間もある、集合場所やゴール地点、トイレ休憩や昼食会場など大人数が入れる場所の選択と交渉、芭蕉の歩いたルートからあまりはずれるわけにもいかない、など。一般参加者は何も気にすることなく無事歩くことができるので、ありがたい。



関ヶ原−垂井−大垣  (岐阜県)

 本当は大垣結びの地までのコースを大会で歩きたかったのだが、実はこの時点で石川福井県内にまだ歩き残し部分があった(それが前回、”無理やり追いつせた”と書いた理由)。できれば自分なりにすべて歩き終えた後、結びの地を歩きたかったので、後日改めて歩き残し部分を歩いてから、このコースに向かった。なお、出産で大会参加を休止していた知人は大垣コースも一人で参加し、「最後を見守った」という。



左上:関ヶ原市内の神社 関ヶ原から最初は国道歩きだが、途中から旧道の中山道をゆく
右上:関ヶ原でも二階の両端に出っ張りの出ある家を多く見かけた。今庄で見かけたものと同じで、積雪が多いのだろう。ただ、空き家と思われる家も多い。町全体に衰退感が漂う。
左下:桃配山の関ヶ原での徳川家康最初陣地を過ぎたあたりから、松並木の続く旧道
右下:野上付近 あちこちに旧道を示す標識があるので歩きやすい





左上:野上の七つ井戸 野上は関ヶ原宿と垂井宿の合いの宿で、井戸水が生活用水で旅人ののども潤していたとある。このへん、史跡が多い。
右上:垂井の手前に広がる茶畑 不帰茶と名のつくお茶だ
左下:垂井 やはり旧道を示す道標が整備され、歩道もあって歩きやすい道  右下:垂井宿 西の見附  





左上:いかにも旧道 垂井にて  右上:垂井宿の商家 1817頃建てられた油屋、明治以降旅人宿
垂井は宿場町でこうした街並みはかつてなら豪勢だったろうと思う。今は全体に衰退した感じがある

左下:古そうないい感じの旅館だがやっているのだろうか。完歩をめざすより、こうした宿に泊まったり地元を楽しむ旅をしたいと思うようになった
右下:垂井追分道標 中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたるとこのこと。垂井宿からは美濃路に入り大垣へ向かう。





 綾戸口手前で「味は心 食事処かっぱ」の看板を見つけ、行ってみる。住宅街の中にあるが、ランチがトンカツ、白身魚揚げ、刺身、ポテトサラダ、野菜煮物、吸い物、お新香、ヨーグルトデザートがついて990円、安くておいしかった。座敷では地元女性らが宴会を開いていた。歩く人はときどき来るという。奥の細道というより、JRでハイキングのスタンプラリーをやっているらしい。

 綾戸からは大型店や工場の並ぶ交通量の多い県道歩道歩き、よくある郊外のつまらない道だ。本当はバスでカットしたいが、最後なので我慢して歩く。
右上:石灰採掘でばっさり切り取られた山(おそらく南宮山)



左下:銀杏の紅葉が見事
右下:綾戸から川を3本越え、踏切を越え、次の川でついに船町港のあった水門川だ





左上:奥の細道むすびの地記念館。結構お薦め。映像資料も充実しており、シアターの3D映像が美しい。時間があったのでグーグルアースの画像とともに江戸から福島岩手、山形、と順次これまでの道筋を示す映像を流してみていると、今まで歩いてきた道や地方を思い出して結構しみじみする。当時の旅に関する展示もあり、紙に柿渋を塗った雨具兼寝巻のような服は面白い。それにしても荷物少なっ!で、ここまで減らせばすっきりするなー、歩きも早いよなーと思う。今は快適さのため荷物を持ちすぎかもしれない。奥に大垣出身の著名人を紹介するコーナーがある。

右上:結びの地 芭蕉と曾良の銅像

左下:水門川    右下:住吉燈台 水門川は大垣城下と伊勢を結ぶ運河で船町港は交通の要衝、明治18年には大垣と桑名を結ぶ蒸気船が就航したが鉄道の発展に伴い衰退したとある。





左上:夕日に輝く大垣城

 2003年に始まった奥の細道歩きもついに(自分なりに)完了した。
 日本ウォーキング協会の大会というきっかけがなければ、奥の細道を歩こうとは思わなかったので、こうした企画があり、参加できたことに感謝している。コースの選定、コース上の標識や要員の配置、団体歩行を可能にするためのさまざまな準備など、手もかかるので大変だと思う。本当にご苦労様だ。

 東海道ウォークは参加仲間と最後まで歩き通せたのだが、奥の細道では途中でみな次々と辞めてしまった。出産は仕方がないが、隊の人とトラブルになり怒ってやめた人もいた。トレランのような全身スポーツタイツで固めダブルストック使いの(ほかはみな普通の恰好なので)目立つ中年女性がいた。いろいろ煩い人でごちゃごちゃ話しかけるのを無視して歩いていた友人が、”ちょっと話聞いてよ”と腕をつかまれ振り払ったところ、「こっわーい、あの人こうやってあたしのこと振り払うのよ」と隊のほかの人に吹聴して回られ、友人は怒って辞めてしまったのだ。こういうことがあると、団体歩行の難しさを感じる(話はそれるが、これを見て、痴漢だのDVだの騒ぐ女性の中には、この手のタイプもいるのではないかと感じた。もちろん深刻なケースもあるので一概にはできないが−むしろ深刻な人は回りに助けを言えない)。
 また、JRや幹線国道が平行して走る東海道に比べ、東北、特に盛岡以北から秋田にかけては交通事情も悪く遠かった。松尾芭蕉と関係ない区間でもあり、まあ、もういいか、となんとなくフェードアウトしていった感じもある。

 一方、個人で歩き始め自分でコースを調べて歩くようになると、記憶に鮮明に残るようになった。友達と一緒だとしゃべってばかりで景色をあまり見ないことも多い。コースも下調べしないと、せっかく寄っても理解できない。また団体歩行では歩けない峠道や親不知子不知も、個人なら歩くことができた。もちろん、人と一緒の歩きには別の楽しさがある。一方、個人で準備し実行する旅は深みが出てくる。



 大垣結びの地までの大会最終コースに参加した知人は、デイリー隊(当日参加者のための隊)の人から聞いた話として、途中から奥の細道ウォークに参加した人を各隊に振り分けると、元からの参加者の結束が固すぎて中に入れない、隊を変わりたい、と言うようになり、そういう人達はデイリー隊で歩くことになったそうだ、という。
 そうなった理由の一つとして、今回”平成”奥の細道ということで北東北も回ったがこの間参加者数を大幅に減らした、当初一関あたりまでは1200〜1600人ほどの参加者があったのが、北東北で600〜800人までに減りその後もそのまま推移、その分残った人たちの結束もますます強まった、ということがあったようだ、と言っていた。交通の便の問題や、北東北は芭蕉の歩いた道ではないということで興味を維持できなかった人も多かったのだろう。

 一方、なぜ北東北も回ったのかというと、地元の誘致があったのではと推測する。千人以上が数日訪れるとなると宿泊や食事など、地元に落ちるお金も大きい。東海道ウォークでも今回も、朝の出発式の際、地元の市長や町長が来て挨拶することがよくあった。観光地でないあまり知られていない市町村を都会の人たちにもっと知ってもらい、周りに宣伝したり訪れてほしい、と考えてのことだろう。北東北には東海道や奥の細道のような関東から歩き続ける理由となる”道”がなく、奥の細道にくっつけて来てほしい、ということになったのではないか?
 確かに自分も、北東北はほとんど訪れたことがなかったので、このチャンスに回ることができてよかったと思っている。
 一方、大会としては、それだけ大会期間も長くなるわけで、リスクも大きかったかもしれない。



 奥の細道は全体的に、東海道と異なり厳しい峠越えや砂浜歩きもある、江戸時代なら過酷な旅だったろうと思わせる道のりだった。北国街道も江戸時代は幹線道と思うが、今は太平洋側より鄙びている感が否めない。東海道歩きとは全然雰囲気が違う。
 東海道はふだんもそれなりに歩く人がいるので、地元にそう特別感はなかったが(東海道どまんなかの袋井市は別)、東北では市町村長だけでなく、地元集落が総出で出迎えたり、手作り感満載でお茶やりんごなどを接待してくれたりで、やはり古くから開けた東海道沿いとは全然違う。歴史も西とはまったく別、視点も逆で、違うよさがある(東北新幹線が青森まで開通し、北陸新幹線も開通すればまた変わるかもしれないが)。

 北東北は岩手北部は奥州街道がよく残っているので奥州街道歩き、秋田青森はイザベラ・バードや菅江真澄の歩いた道をたどる歩き方もできると思った。北陸は旧北陸本線跡歩きも面白そうだ。
 今回、関東から宮城までがあまり熱心でなかったので、いずれ機会があればやり直したいと思っている。




歩行年:2013秋

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