奥 の 細 道 13  福井編1

 いよいよ吉崎から福井県。現存する日本最古の天守閣丸岡城を見て福井の町へ、菊人形展で有名な武生を過ぎると、湯尾峠などのある山道に入ります。


吉崎−丸岡−松岡−福井  (福井県)



 吉崎は浄土真宗蓮如上人の御坊で有名なところらしい。北潟湖に面する一帯が公園になっている(上)。
 旧北国街道は北潟湖北西の丘陵地帯を通り、芭蕉はこの道を歩いたとのことなので、そちらへ向かう。



 浜坂のあたりはあわらゴルフ場脇をゆく(左上)。結構賑わっている。最初こんなところガラガラだろ、と思っていたが八王子あたりのゴルフ場よりはやっている感じ、みな福井ナンバーだ。松林があったり、気持ちのよい尾根道をゆく。

 ゴルフ場を離れると風力発電の風車が数多く建っていた。近くで見ると、結構圧迫感がある。

 丘の上に畑が広がり、やがて富津集落へ(左)。5万分の1地図では数戸に見えるが、実際には結構戸数が多く大きな集落だ。

左下:道は北潟湖へ向かって下ってゆく
右下:北潟湖 このあたりで有名な観光地らしい。平日にもかかわらず、湖畔荘にそこそこ車が停まっていた






 湖を渡ると再び登りとなり、丘上にそば畑が広がる(左上)。坂口あたりで県道と合流、車の交通量が多い。しかも歩道なし、ビュンビュン飛ばすが避けてくれる。それに期待してたんたんと歩く(車さん、申し訳ない)。   右上:山十楽にある照巌寺
 左下:金津にある千束一里塚 解説板によれば一里塚の目的は各地への里程と人馬賃の目安とするためで、北陸街道の道幅は3間(約5.5m)、一里塚は道の両側に5間(約9.1m)四方の塚を作り、塚が崩れない目的で榎などの樹木を植えたとのこと。
 右下:金津の町を望む



 金津で馬面昭栄堂という和菓子屋を見つけた。富山あたりから、和菓子屋を見つけると少量購入して食べてみるようになった。北陸は和菓子がおいしい。ここでも、なんと先ほど通過した富津産サツマイモを使ったスイートポテトがある。富津はサツマイモが名産なのかと知る。ほかソバまんじゅう、なめらかプリン、抹茶まんじゅうを購入、歩きながら、あるいは宿で食べたがどれもおいしかった。



 左上:丸岡駅前 丸岡の市街地は駅から結構離れている。北陸道は市街地を通らず南東方向の松岡へ向かうが、芭蕉は丸岡に寄ったという話もある。町とその町名のついた駅とがかなり離れている状況にも興味があって、丸岡の市街地をめざす。
 右上:田圃の中をひたすら歩く。
 明治時代、鉄道が引かれた当初、鉄道が街中を通るのを嫌がる町も多く、町はずれを通すことも多かったと聞いたことがある(岡蒸気で藁葺屋根に火がつきやすかったというのもあったろう)。栃木の城下町大田原もそうで、何もなかった西那須野に東北本線の駅ができた。今や西那須野から東京に通う人もいる。大田原までは軽便鉄道があった(今は廃止され遊歩道になっている)。丸岡はどうだったのだろう。バスのない明治大正期、駅から馬車や人力車で行き来していたのだろうか。



 左上:丸岡の中心街 落ち着いた瀟洒な町だと思ったら、元城下町だった。ただシャッターの下りた店も多い。
 右上:丸岡城 丸岡城の天守閣は現存する日本最古のものだと説明板にある。全然知らなかった。なるほどきれいな城。

 左下:田圃の中、東に山並を見ながら南へ下る。あの里山の奥が白山へと続く。
 右下:山の切れ目の奥が永平寺へ向かう道。巨大な谷戸の奥にあるイメージだ。手前の白い大きな建物は穀物乾燥貯蔵施設。





左上:九頭竜川
橋を渡り立派な建物の福井医大病院脇を通れば、松岡の町に入る

右上:松岡の町 雪の重みに耐えられるよう、頑丈な作りの家が多い

左:松岡駅
手持ちの5万分の1では京福電鉄越前本線とあるが、現在はえちぜん鉄道となっている。地方鉄道に乗ってみたかったし、雨が降っていることもあり、松岡から福井までは電車に乗った。切符を買うと切符を立てて出してくれる(説明しにくいので、実際に買ってみてください)。さらに電車に乗ると、制服姿の若い女性アテンダントが乗っており、足元の弱い老人のサポートやアナウンスをしていた。旅客数をあげる営業努力をひしひしと感じる。
えちぜん鉄道の写真は鉄道ページにもあります

 その後新聞記事で、えちぜん鉄道は関東や関西の私鉄の車両を安く払下げてもらって使っており、鉄道ファンが古い車両目当てで来ることも多い、という話を見た。



福井−鯖江−武生−今庄  (福井県)

 福井からは、福井鉄道福武線の西側を旧道の北国街道が並行して通っている。



福井市街にて 左上:北の庄城址(柴田勝家が築城、賤ヶ岳で敗北した勝家はお市の方と共にここで自害した)と柴田神社  右上:市電の通る大通り(幸橋付近)
左下:浅水付近にて 東と西両側に山が見える
右下:旧北国街道は日野川に沿ってさかのぼる、川沿いの平野を南へ向かう道





 上:北国街道沿い、いかにも旧街道沿いの町並
 左下:茅葺屋があったので撮ったが「歴史の道」との標識も見える(神明町あたりだったと思う)。このあたり、旧道は国道や田畑よりも一段高い里山際の集落内をゆくトラバース道だ。
 右下:水落の北陸道宿場跡 代々清水家が本陣を務め宿駅として馬十頭がいたとある





 福井鉄道に乗ってみたかったので鯖江武生間は歩かず、電車で武生に到着(福井鉄道について鉄道ページに写真があります)。武生は毎年秋になると菊人形展を開催しており、会場内でOSKの公演も行われるので来たことがある。
 左上:シャッター通りの中心街   右上:かつての市役所前になんと「閉市記念碑」があった。衰退する地方を思う
 左下:福井鉄道は武生までだが、このあともJRの西に沿って北国街道は続く  右下:日野川





上:いかにも旧道 ひたすら北国街道をゆく。左上は「題目講中 家内安全五穀豊穣」と書かれた石碑で、この旧道沿いあちこちで見かけた。お地蔵さんや明治天皇御小休所の碑も多い。
左下:今宿の先あたり 北国街道はあの山を越えて敦賀へ向かう
右下:一本杉避難場所とあるが、別にここに避難しなくても、どこでもよさそう・・・





東大通西大通と歩いていると、あちこちで融雪栓から水を流していた。たまにものすごく噴水している箇所がある(左上:東大通付近にて)。さらに進むと、作業着姿の人たちが栓をいじって水量を調節している。積雪の季節に備え、試しに水を流して融雪栓の調整を行っているようだ。
右上:南条の町並み  下:雪の備えさまざま 編んだ竹垣や板、綱で庭木を守っている 湯尾にて





左上:初音の小坂 鶯の関で鶯の声を聞けずに失望していた芭蕉が、この地で初めて鶯の声を耳にし、一句を詠んだ場所とのこと
左上:湯尾峠へ集落の坂を登ってゆく
左下:湯尾峠への入口 峠は北陸道の要地で頂上には疱瘡神を祭る神社があり、その札を売る茶屋が4軒建ち大いに栄えたと説明板にある   右下:石垣のある古道を登る





左上:湯尾峠頂上標高200m 今では川沿いに車道が整備されているが、土木技術がなく川沿いに道をつけられなかった昔は、尾根道や峠越えが交通網だったと聞く。ここから鍋倉山だのに縦走できるようで、南西にハイキング道が続いていた。
右上:今庄の町を見下ろす   左下:秋のいい感じの森を下る   右下:一里塚跡





左上:峠を下りるとJRの脇に出た。国鉄慰霊碑があり、明治29年7月北陸線敦賀福井間開通(写真不鮮明で数文字読めず)奉職した今庄出身の物故者の冥福を祈るとある。
隣に地蔵だかお堂が並び、弘法寺八十八ヶ所参道の階段があった。トレラン姿の若者がおり、時計を確認するとダブルストックで駆け上っていった
右上:左の家が雪囲いをしている 今庄にて



左上:独特の形の二階屋 壁は垂直で両端だけ出っ張っているのだが、風雪を避けるためと思われる。岐阜県の大垣でも見かけた
右上:今庄の本陣跡 今庄は大宿場町で越前で最も繁盛したところだという。説明書によれば、越前各藩は参勤交代の際必ずといってよいほど今庄宿を利用した。当時男は十里、女は八里が1日の平均旅程で、福井から今庄まで約八里だったことから福井を早朝に出た旅人は今庄に泊ることが多かった。




歩行年:2013秋

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