奥 の 細 道 14  福井編2

 福井県後半は山道が続きます。木ノ芽峠を越えていったん敦賀に入り、ふたたび深坂峠を登ると滋賀県との県境、ここを下れば琵琶湖北岸に出ます。


南今庄−木ノ芽峠−敦賀  (福井県)

 今日は前から歩きたかった木ノ芽峠越え。南今庄駅で下りたのは一人だけ、ほとんど乗降客などいない感じの簡素な駅で、写真を撮っていると車掌さんが窓越しに手を振ってくれた(左下、写真には写らなかったですが)。
 北陸本線はこのあと長いトンネル(北陸トンネル)に入る。昔の徒歩旅は当然トンネルなどなく山越えだ。北陸本線もかつては今庄で機関車をつけて山中峠を越えて越前海岸の杉津へ出るルートだったという。車窓が風光明媚な路線で、大正天皇の行幸時には敦賀湾の景色を眺めるためにわざわざ杉津駅で停車したという。その後、勾配緩和、輸送力増強で複線化、雪害を避けるなどの目的でトンネルに付け替えられていった。富山の親不知あたりでも同様の話を聞いたので、北陸本線全体にそうした雪や急傾斜との戦いの歴史があるのだろう。
 ちなみに松尾芭蕉も木ノ芽峠ではなく山中峠を越えたとする説があると、さいご大垣の「結びの地記念館」で知った。記録係の曾良が脱落した後、どこを歩いたのか行程がはっきりしなくなったため、あちこちで旅程に複数の説がある。  右下:新道集落 



 南今庄(新道)は日野川から分れた鹿蒜川沿いの山里で、木ノ芽峠への道はさらに南へ分岐する。直進すれば山中峠、南へ折れれば木ノ芽峠の箇所に「万葉・北陸道 追分の里 北陸道の追分−上新道集落」と書かれた解説板が立っていた。それによれば、奈良時代都から越の国に入る旅人は松原駅(敦賀)から陸路か海路で五幡や杉津を通り、山中峠(389m)を越え上新道集落を通り鹿蒜駅(南今庄付近)に出た、平安時代に木ノ芽峠越えの道が開かれその後はそちらが北陸道の主道になった、新道の名はこれに由来しこの地は2つの峠越えの追分口、前の道は北陸本線の跡地を県道として整備したもので古代道は集落内を通る、とある(左下)。   右下:追分から南へ向かう





左上:二ツ屋集落 宿場とつるし柿の里、とある。案内板によれば山中峠越えは楽だが時間的ロスが多く木の芽峠がさかんに利用されるようになり、ここ二ツ屋も宿場町として大いに栄え、当時全46戸(問屋1戸、旅籠5戸、長百姓15戸、雑家24戸、一時住居5戸)あったとある。この北陸道を通った著名人には紀貫之、藤原為時、紫式部、道元、源義経、蓮如上人、新田義貞、足利尊氏、豊臣秀吉、松尾芭蕉、水戸天狗党一行、明治天皇、岩倉具視らがいる。今は典型的な鄙びた山村で、戸数も減っている。

 柿栽培がさかん(右上)。たくさん道に落ちているので、よさそうなのを拾って食べると、甘くておいしい!これはおいしい柿だ。たくさん落ちている。勿体ない。



 柿の幹が波板で覆われているのを多く見かけた。鹿による食害避けだろうか(左上)

 峠への坂道を登ってゆく。明治天皇行在所の石碑や関所、馬捨て場、血取り場、問屋など、真新しい説明が立っている。山中には首切り谷(右上)も。奥の細道を歩いていると、明治天皇御小休所や行在所などの碑を数多く各地で目にする。本当によく日本中回っていると感心する。



 この先林道が土砂崩れのため通行止とあった。が、徒歩は大丈夫だろうとそのまま進む。杉桧の人工林の森を行くと、確かに斜面が崩壊していた(左上)。足跡があり、歩いている先人がいる。
 右上:山中の祠  新保側にある説明板によればこの山中は人家が峠の茶屋しかなく沿道に野仏が多いとある(その説明板、表現にちょっと問題あり?の部分も・・・史実だろうか)
 崩壊林道と板取からの車道の合流点に木の芽峠登山口の道標あり、その先も土砂崩れで林道が塞がれていた。が、ここのほうが踏み跡が多い(みな登山口まで車で来るらしい)。
 スキー場に出た(左下)。道なりに進むと、右手に旧北陸道への分岐を発見(右下、右奥の立て札)





 笠取峠で林道と交差、横切って登る(左上)。案内板によれば鉢伏山からの笠が飛ぶほどの強風に悩まされた難所とのこと(入山禁止の札は一般車両に対するもの)。
 登りきると平たい肩に出た(右上)。このあたり少々道がわかりにくいが、向かいの谷リフト沿いにトラバース道がある(左下)
 右下:言奈地蔵 このお地蔵さんのおかげで旅人を殺した人は改心し、旅人(父親)を殺された息子は仇を討てたというお話。ここでKIOSKで買った福井の老舗有名店製の駅弁を広げる。地元のおいしいものを食べるのは楽しい。





左上:東方向が見晴らしのよいトラバース道をゆく
右上:木ノ芽峠628m 峠上に日本昔話のような古民家が建つ。たまたま車道から親戚か知人夫妻と思われる人たちが登ってきて、民家の老人が出迎えていた。説明板によれば1466年より峠の警備職を代々務める家柄で、観光用の建物ではなく生活の場だとある。確かに、結構ハイカーの多そうな道で、古民家にひかれて話かけたりのぞいたりする人もいそうだが、毎回相手をしていたらハイカーにとっては1人でも受け手にとっては100人1000人となるわけで大変だと思う(都会人が頻繁に自宅について話しかけられたらうざいと思い、怒りたくなるだろう?)。以前は二軒あったらしい。

峠を少し下ったところに木ノ芽川源流場がある。明治天皇行幸の際は毒を入れられぬよう6か月前から警備をしたとある
左:峠の先は踏み跡よりちょっとましな感じの山道


右上:新保に下りてきた  左下:新保集落 畑はイノシシ除け電気柵で囲われている
国道歩きだが、右側が大きくとられ安全に歩ける(歩道ではないが)。  右下:葉原集落





左上:越坂経由のほうがショートカットなので、国道を離れ越坂へ向かう(峠道から国道を見下ろしたところ)
右上:ここも峠道が土砂崩れした跡あり
左下:越坂集落 典型的な山村。上のほうの田は耕作放棄地が多い   右下:山中の田圃





左上:樫曲集落 だいぶ山を下りてきた  右上:井川付近 もう敦賀だ



 せっかくなので気比の松原と気比神宮に寄りました。
 上:気比の松原  左下:気比神宮  右下:敦賀市内のアーケード街



 敦賀駅前は北陸新幹線用の駅舎を作っているため現在工事中だが、昔ながらの土産物屋や定食屋など、昭和の町っぽい。コミュニティバスに乗った時も運転手さんが、原発が動かないとねえ・・・と言っていた。
 奥の細道歩きで、敦賀には何度か泊まった。時期を分けて2回福井県を歩いたことや、滋賀に宿をとれなかったときなどで、意外に長浜関ヶ原や草津方面からも近く、敦賀は便利な町だった。大阪方面への快速も出ており、名古屋は大阪よりさらに10キロほど近い。東海道なら沼津あたり、東北本線なら宇都宮の少し先(氏家あたり)の感じだ。ただ、ビジネスホテルでTVが2局しか入らなかった。大阪京都に近そうなのに、不思議だ。



新疋田−深坂峠−近江塩津(野坂)  (福井県−滋賀県)

 芭蕉は疋田、曽々木を通って新道野から峠を越えたとする説と、刀根峠から木之本へ行ったとする説がある。ただどちらも国道歩き。芭蕉道とは少し外れるが、疋田から追分へ向かい、山道で深坂峠を越える道がある。新道野のすぐ南で国道に合流し、多少国道歩きになるがその後は集落が続くので中の道を歩くことができる。ということで、深坂峠越えの道を歩くことにした。(ちなみ平成奥の細道でも、この区間は深坂峠を歩いている)

 敦賀から隣駅の新疋田まで北陸本線に乗る。するとすぐにトンネルに入り、ぐるぐる回りはじめた。一瞬外に出ると敦賀方向に戻っていたりで、最初乗り間違えたかと焦った。敦賀からは小浜線も出ているので。地図を見ると、北陸本線の敦賀の南に衣掛山下をループ状にぐるっと回るトンネルがある。
 後で調べると、このループトンネルは鉄道ファンの間で有名らしい。おそらく川沿いの平地が足りないか雪崩頻発地帯だかでこうなったと思われるが、ちょっと面白い。たまたま1駅カットしようと乗ったのだが、ラッキーだ。ちなみにこれは敦賀から近江塩津方向のみで、近江塩津から敦賀方向へ乗ったときは川沿いを直進するルートでループトンネルではなかった。
 また北陸本線は、もともと刀根峠を通っていたという。土砂崩落、雪害、トンネル内の窒息事故などにより、近江塩津から深坂トンネルを通るルートに付け替えられた。かつての線路跡は北陸自動車道になっている。
 富山でも北陸本線は海沿いから内陸のトンネルに付け替わっていたので、奥の細道歩きならぬ、旧北陸本線歩きもできそうだ。



左上:新疋田駅   右上:数分国道を行くとすぐに追分の分岐がある。「愛発 追分区」と書かれた案内板によれば、深坂古道は敦賀から近江塩津に至る最も古い道で敦賀から塩を運んだ「塩の道」、紫式部もこの道を通ったという。ちなみに愛発は”あらち”と読むそうだ。関西の古い地名は難しい。疋田に愛発の関があったと聞き、最初行ってみたかったのだが、奈良時代のもので平安時代には廃止されていたとの話で芭蕉にも関係ないし、疋田まで引き返す時間的余裕もなさそうなのであきらめた。

左下:追分の集落    右下:奥に見えるのがこれから越える山の方向 峠の標高は400mないはず





左上:深坂古道のはじまり。熊注意の掲示あり。入口に詳しい解説板があり、鉄道と新道の開通で明治に廃道となったが、最近ハイキング道として復活させたとある。
歩きやすい道が続く。ところどころ万葉集の詩歌を解説した板が立っていたり、よく整備されている。





左上:かまどの跡   右上:深坂峠370m ここから滋賀県に入る。解説板には、周辺にはいくつもの山城があったこと、滋賀側にある地蔵堂の下には問屋の跡地があり、この問屋は桃山時代に栄え新道野ができたことにより廃絶したなどとある。
峠を下り、林道に出る(左下)。右手に地蔵堂だのへの道あり   右下:国道との合流点





 国道8号、歩道なし、トラックビュンビュン、山道より危ない(左上)。トラックも避けてくれるが曲がりくねった山道でミラーもなく事故が心配。すると、木之本行のバスが追い越してゆく。バス通っていたんだ、バスでカットすりゃよかったと激しく後悔。車のいない間に走って沓掛集落に到着(右上)
集落内の道を行く(左下)。このあとは国道も歩道があり、のんびりゆく。
右下:野坂付近から琵琶湖方向を望む(奥の山の切れ目が琵琶湖だ)



 この日はいったん敦賀に戻って宿泊するので近江塩津駅に戻ると、ハイカー姿の夫婦が駅に入ってゆく。駅舎内には食堂があり、ハイカー姿の中高年で賑わっている。しばらくするとまたハイカー姿の中年男性3人連れ。この辺りにハイキングコースがあるらしい。こういう感じは、地図を見た町の規模からはわからない。今庄のほうが町の規模としては大きいのに、駅に食堂はなかった。中高年ハイカーらはみな、米原大阪方向へ乗っていった。翌朝また近江塩津駅に来たときも、やはりハイカー姿の人たちが何人か下りて行った。



歩行年:2013秋

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