2017編1と2では、開発の進む稲城丘陵と堀之内、百草・七生の尾根部分に細々と残る武蔵野の森歩き、既に団地化された多摩ニュータウン尾根歩きだったが、”よこやまの道”の南斜面には、2017-18現在も、まだ、かつての里山の風景が残っている。
2010,11年
以来の再訪だが、ほとんど変わっていない。
2011年の様子は小山田/黒川/布田道:こちら、小野路城址
多摩丘陵開発考その2
以下、『ニュータウンの社会史』より抜粋
1958 府中カントリークラブができる
1960 京王電鉄による桜ケ丘団地ができる
1960-61 住宅難緩和、周辺の乱開発(スプロール化)防止のため、東京都首都整備局が大規模住宅地の適地選択作業開始 多摩村の乞田・落合・貝取・唐木田、町田市の小野路が候補
1961頃より、南大沢先行買収始まる
1962 多摩村・稲城村が候補 1963 多摩村・稲城町・由木村が候補 1964 米軍弾薬庫除外要請あり
1963 新住宅市街地開発法(新住法)制定 強制権をもって開発用地取得可能になる(=土地所有者の意志とは無関係に計画区域の土地を全面的に買収する強制的開発が可能)
南多摩地域の農業は残農業と位置づけられる−元々90%は山林 畑は麦とさつま芋中心 山は薪炭林と田畑の肥料用堆肥供給、建材供給の総合的資源採取の森だった→1960年代の燃料革命と安価な化肥増加で需要激減、林の経済価値低下
開発の噂を聞き山を手放す者相次ぐ ex落合では1970までに山林の98%売却される
一方、若者を中心に6ヶの農業団体があり、畜産・園芸作物・椎茸・クリスマス用ドイツトウヒ・暖地リンゴ・ユーカリ栽培を試験し、畜産、野菜は堅調だった
1963 乞田・貝取・馬引沢などの地主会が多摩村村長宛に永山地区への公団誘致を陳情。農業多角経営のためで、移転や農業をやめるつもりはなかった
1965 多摩村住民説明会 諏訪・永山が団地開発され全面買取となるので集団移転してもらう、という話に皆驚き怒る
鑓水 当初国や都のやることだから悪いことではない、大いに協力しようとする雰囲気
地価安く現金化するのが難しい山林買収話に、田舎の貧しい暮らしから脱け出したい、大金つかんで安心したい等賛成の人、反対の人が混じり、先行きわからない不安で一杯の状態
「当初は奥地から虫食いのように買占め、買収が既存集落に及んだとたん、秘密にしていた新住法を出して区域内は全面買収する、反対しても強制収用だから早く売ったほうが得になる、とおどして買収する」峰岸松三氏
堀之内 優良農家が多く営農意欲もさかんだったため、反対運動起こる(後述)
柚木 レタス栽培さかん 90%が30代で農業生産力強く、耕地を増やしている最中にニュータウン予定地となったため反対運動起こる
(2017−18編4に続く その1はこちら)