里山2017,8年編1にも書いたように、多摩丘陵は大きく2つの長尾根、稲城から多摩ニュータウン-小山内裏公園あたりと、百草七尾丘陵、高幡不動多摩動物公園の2支尾根が平山城址で合流、鑓水御殿峠七国峠から高尾南に至る連なりに分かれると思う。
編1では稲城、百草七尾を書いたので、編2では2017、18年に、多摩センターとして開発されたよこやまの道の北側と堀之内地区を歩いたときの記録を掲載。多摩センターは団地群なので、2010,11年当時は歩いていない。
堀之内の一部が農業地区として残ることになった有名な十九住区だと思うが、2011年に歩いた時、開発が始まっていた。そして2018年現在、かなり団地化が進んでいる。2011年に訪ねたときの様子が、若干 こちらの「向山−東中野」あたりにある。
多摩丘陵開発考その1
多摩丘陵開発の歴史、経緯については『ニュータウンの社会史』金子淳著 青弓社に詳しい。これを読むと、養蚕畑作炭焼きで生活していた村に、突然降ってわいたように開発の話が下りてきて立ち退いてくれ、という話になり、大騒ぎになった経緯がよくわかる。
広大な山林を持つ大山主と、自分の田畑だけでは食べてゆけない零細農家から山を売りに出してゆき、当時営農意欲の強かった中間層の農家が追い込まれてゆく。紆余曲折の末、のちに、特に酪農がさかんだった十九住区は特区として残されることになった。しかし遅きに失した感は強い。
多摩丘陵開発は、(1956の堺市金岡団地が団地第一号だが)大阪の千里ニュータウンとともに最初の大規模団地開発だったので、試行錯誤の連続になった。後の団地開発は、ここで起きた問題を参考に進められたわけで、実験台になった感じも強い。
既存集落をどうするかという問題がある。地元の人は、当然元のまま住み続けたい。一方、開発側は、残しながら工事するのは大変だからすべて取り壊したい。すると村で生活していた人たちは、強制的に職業も変えざるを得なくなる(ダム建設時も同じ問題が起こる)。
一気に開発すると、急に子供が増え学校問題が起こる。上下水道電気ガスなども、当時は地元行政が負担する認識だった。しかし零細な多摩村には大変な負担になった。
あるいは、汲み取り式便所、井戸沢水利用の農家が大半の村に、最新式の団地ができることになる。既存集落と生活インフラ格差があるのはおかしいのでは、という話が出てくる。
はじめは国や都が求めていることだから協力しよう、と前向きだった市町村も、生活インフラの開発側負担、交通病院などの問題が解決するまで許可しない、とし、既存集落との格差解消も求めた。
(2017−18編3に続く)