七国峠の北、ばっさり削られた宇津貫の様子は、2010年にも峠上から見ていた。ただ、当時はこのみなみ野あたりを、あまり歩いていない。
今回、片倉台団地、北野台団地、旭が丘団地、みなみ野、小比企の台地を歩いてみた。ここまで来ると、いわゆる多摩丘陵からははずれてくる。多摩ニュータウンではなく、南八王子ニュータウンになる。
2010,11頃若干歩いている → 片倉−高尾
多摩丘陵開発考その5
多摩丘陵の話は、小河内ダム建設時の話を連想させた。
小河内ダム建設も紆余曲折があった。ざっくり書くと、昭和6年、東京市民の水が足りない、ということで小河内村に白羽の矢がたった。小河内村は千年続く村、温泉も有名で文人墨客も訪れる観光地でもあった。突然わいたダム建設の話に村民は猛反対、当時の村長が国や東京市のためなら協力しようと村民を説得、同意にこぎつけた。昭和7年、来年には工事が始まるから、山も畑も家の手入れもすべてあと1年と考えてほしい、と言われ、1年後に補償移転費交付すると言明される。村民は移転準備開始、移住予定の人は土地を売ったり八ヶ岳満州まで行ったりした(村の森林も11万で売った)。
ところが昭和8年神奈川県から水利権絡みで横やりが入り、ダム建設は中断。みな借金して移転準備しており、また作付けや畑山の手入れをしておらず、借金がかさんだ。昭和9年、麦山で大火、村役場が焼失。悪質ブローカーが暗躍、先祖伝来の財産がみるみるなくなる。昭和10年、小河内丹波山小菅の村民千人がむしろ旗立てて陳情、氷川塩山御岳五日市で警官に阻止される。村長も奔走、村民の苦悩を訴え建設再開と村民への補償を国や市に陳情、市が救済費を払う。しかし神奈川県問題が解決した後も、建設は戦争等で中断を繰り返し、建設が再開したのは昭和23年、完成したのは昭和32年だった。
このへんのいきさつは『奥多摩町異聞』瓜生卓造著や『奥多摩風土記』大館勇吉著あたりに詳しいが、インタビューに答えた村民は、ダムを建設するのかしないのか、宙ぶらりんの状況なのが一番辛かった、という。生活をどうするか、見通しをたてられないからだ。
小河内ダムはほぼ日本最初の例だったので(完成がもっと早いダムはあるが、計画発表は最も早い)、このときのトラブルが後のダム建設に生かされたわけだが、小河内村の人たちには災難だった。
自分が住む区では最近、例の空家問題が大きく取り上げられているためか、区が主導しているようで、古い家がどんどん取り壊され新しい建売に生まれ変わっている。古い家は敷地が広いので、2軒が9軒になったりする。区としては若い人口も増え、よいのだろう。
このことから考えるに、たとえば広い敷地にまばらに住む地域(いわゆる高級住宅街)は土地の有効活用にならない、東京に人口が集中しその人たちに宅地を提供する必要があるので、出て行って下さい、そこに大規模団地を建てますから、となったらどうだろう。
さらに農山村は職住一致なので、転業もセットでついてくる。住宅街から出て行って下さい、勤務先もなくなるので新たに仕事探して下さい、というのと同じだ(一部、慣れない商店経営の斡旋はあった)。
これと同じことは、都市部でも起きている。面積は狭くなるが、いわゆる地上げや再開発で、虫食い状に古い住宅街や商店街が売られてゆき、残りたい人も残れなくなる(日本だけでなく、中国でもビル建設で周囲が掘り込まれた中、ポツンと頑張る家がニュースになっていた)。
時代が進めば、結果的には同じ選択になるのかもしれない。小山田小野路でも、農業する人勤めに出る人様々だろう。突如発生し強制的なのか、時代の流れから自分の判断で選んだものかで、心情は大きく異なる。
(2017−18編7に続く その4はこちら)
目次: 北野台 片倉台 比企
片倉台 2018年冬
北野駅から八王子バイパスの西の打越にゆく。めざすはこの里山(左下)。昇り口を探す
左上:探す途中、入った横道で見かけた古井戸。
親子連れに道を訪ねると、梅洞寺の脇から入れると教えてくれた。右上:梅洞寺
左下:しっかりした普通の道 右下:東に谷戸 西は旭ケ丘団地
右上:集会所的な施設脇に下りた
下:集会所脇の尾根頂上は少し歩けるが、これ以上どこかに通じているわけではない
左上:旭ケ丘団地からバイパス(写真のトンネル)を望む
南に進むと畑がある。ちょうど老人がいたので、南の東急片倉台団地まで尾根歩きできるか聞いてみた。「昔はあったが、今は歩く人おらん。その山の持ち主も、もう30年来ていない。昔はずっと尾根歩けたもんだが」代々地元の人っぽいので、「昔はこのあたりはずっと、こんな感じだったんでしょうね」と山を指して言うと、「ずっと雑木だった、全部雑木だった」と言った。そして、「そうだな、ここに昔は道があったが」と駐車スペースをのぞきこみ、「この道ももう歩けないようだから、そっち行って家一軒分下ってすぐ左に入ると、あの車の停まっているところの下の道に出る。そこから畑に入って、畑の奥に行くと、藪だが道があるかもわからん」と教えてくれた。
そのとおりに行くと、なるほど畑に出た。ちょうど作業車が入っていたので、声かけたほうがいいと思い、畑から尾根に出られるか聞くと、「前はあった。今は歩けない」「どこに出たんですか?」「今は東急の片倉なんとかだ」「ちょっと行かれるか歩いてみてもいいですかね。人の山だから持ち主いるだろうし、ダメならいいけど」「ああいいよ、藪かきわけになるぞ。ダメなら戻ってくればいい」
というわけで、行ってみた。畑脇からとりつき、まず南下。道はないが、このあたりはまだよい。尾根はいったん西に曲がる。このあたりから、冬だからまだよかったものの、激藪。今までの山行バリエーションの中でも一番の藪だった(上の写真は取っ付き部分でまだまし)。つると丈の高いあずまネザサが酷く、引き返すか考えるが、ちょうど大雪で倒伏しているところもあり、その上を歩いた。尾根は再び南に曲がる。鞍部があるので、とりあえずそこまで行ってみることにする。
左下:西に片倉台団地が広がる
鞍部に出たら、急に刈られていた。下に何か会社があり、その上の斜面がきれいに整備されている(右下)
このあたりだけ、尾根に道もついている(左上)
でもその先は再び藪。行く手奥に常緑樹の森が見えた。神社だったらラッキー、道がある、と行ってみる。神社はなかったが、細丸太で木を支え、メンテしてあった。ということは管理道があるのでは。すぐにフェンス脇に出た。東は八王子バイパスの崖、南へ下っている(この尾根はここで終わり)。急だが、フェンス沿いにピンクテープがあり、歩けるスペースがある。
ちょっと人の家の上を歩く感じのところがあり、ごめんなさいして通る。
さいご、公園内の金網で囲われた何かの施設に出た。でも一か所穴があき、そこにピンクテープもあったので出られる。藪歩きする人がいるのかもしれない。
右下:東急片倉台団地の団地内商店街
上:団地と里山 左下:片倉台団地西端から日本文化大学を望む
北野駅方向に戻る。お寺のある丘陵の西端をめぐって北へ向かう(右下)
この丘の上は墓地で、尾根歩きできない。若干トラバース気味に小高いところを歩く。尾根の北端は公園化されていて、登ることができた(右下)
東半分は保全地区で
フェンスで囲われ入れない
湯殿川沿いの畑
片倉−小比企−みなみ野 2018年冬
片倉駅西、片倉城址の丘に北東から登る。左下:登り口
丘上は広い台地で、まず公園があり、南西に進むと畑が広がる。右上:西方向 右下:東方向
さらに進むと広々とした公園広場で、家族づれが凧揚げしたりテント張ったりしていた
台地は、南西から北東に流れる湯殿川の河岸段丘 右下:台地縁から北西方向を望む
右上:南の工科大学方向
左下:みなみ野の団地を南北に抜ける大通りと交差 奥は高尾奥多摩丹沢の山々、後ろに富士山が見える。大通りを渡り、再び台地の続きを歩く。平坦でいい畑地が広がる
右上:麦が植わる 左下:台地上を南西へ続く道
右下:台地の西側は雑木林、下を湯殿川が流れる。東は一段高くなっており、その上にみなみ野の団地が広がる
右上:川の対岸も丘陵だ 犬づれや散歩する人が、けっこう歩いている
左上:来た道、北東を振り返る 右上:西方向
下:そろそろ台地の南端
大通りを南東に下り、T字路に出たら(左上)、東のみなみ野団地方向へ向う。丘上に水道局施設(おそらく団地の上水)があり、その南端が「みなみの大船の尾根緑地公園」になっていた 右上:登り口
右下写真奥の尾根が七国峠の尾根
右上:七国峠の尾根 あの上からこちら側を見ると、ばっさり削られた台地に造成地と団地が広がる例の光景になる
左上:みなみ野団地 右上:団地台地の西端から西の奥多摩丹沢を望む
地図を見ていると、犬散歩の女性が声をかけてきた。いろいろ話すうち、自分の住む区の職員だとわかる。えー、ここから通ってるんですか、という感じだ(なんとなく区職員は区内在住のような気がしていた)。「十年前はここも何もなかったんですよねー、造成地で」と言う。はじめどんづまりだったこの道路も、環をかいてぐるっと回れるようになった、とのこと。