東 京 里 山  2017−18編 6
(北野  片倉  みなみ野)

 七国峠の北、ばっさり削られた宇津貫の様子は、2010年にも峠上から見ていた。ただ、当時はこのみなみ野あたりを、あまり歩いていない。
 今回、片倉台団地、北野台団地、旭が丘団地、みなみ野、小比企の台地を歩いてみた。ここまで来ると、いわゆる多摩丘陵からははずれてくる。多摩ニュータウンではなく、南八王子ニュータウンになる。
 2010,11頃若干歩いている → 片倉−高尾


多摩丘陵開発考その5
 多摩丘陵の話は、小河内ダム建設時の話を連想させた。

 小河内ダム建設も紆余曲折があった。ざっくり書くと、昭和6年、東京市民の水が足りない、ということで小河内村に白羽の矢がたった。小河内村は千年続く村、温泉も有名で文人墨客も訪れる観光地でもあった。突然わいたダム建設の話に村民は猛反対、当時の村長が国や東京市のためなら協力しようと村民を説得、同意にこぎつけた。昭和7年、来年には工事が始まるから、山も畑も家の手入れもすべてあと1年と考えてほしい、と言われ、1年後に補償移転費交付すると言明される。村民は移転準備開始、移住予定の人は土地を売ったり八ヶ岳満州まで行ったりした(村の森林も11万で売った)。
 ところが昭和8年神奈川県から水利権絡みで横やりが入り、ダム建設は中断。みな借金して移転準備しており、また作付けや畑山の手入れをしておらず、借金がかさんだ。昭和9年、麦山で大火、村役場が焼失。悪質ブローカーが暗躍、先祖伝来の財産がみるみるなくなる。昭和10年、小河内丹波山小菅の村民千人がむしろ旗立てて陳情、氷川塩山御岳五日市で警官に阻止される。村長も奔走、村民の苦悩を訴え建設再開と村民への補償を国や市に陳情、市が救済費を払う。しかし神奈川県問題が解決した後も、建設は戦争等で中断を繰り返し、建設が再開したのは昭和23年、完成したのは昭和32年だった。
 このへんのいきさつは『奥多摩町異聞』瓜生卓造著や『奥多摩風土記』大館勇吉著あたりに詳しいが、インタビューに答えた村民は、ダムを建設するのかしないのか、宙ぶらりんの状況なのが一番辛かった、という。生活をどうするか、見通しをたてられないからだ。
 小河内ダムはほぼ日本最初の例だったので(完成がもっと早いダムはあるが、計画発表は最も早い)、このときのトラブルが後のダム建設に生かされたわけだが、小河内村の人たちには災難だった。

 自分が住む区では最近、例の空家問題が大きく取り上げられているためか、区が主導しているようで、古い家がどんどん取り壊され新しい建売に生まれ変わっている。古い家は敷地が広いので、2軒が9軒になったりする。区としては若い人口も増え、よいのだろう。
 このことから考えるに、たとえば広い敷地にまばらに住む地域(いわゆる高級住宅街)は土地の有効活用にならない、東京に人口が集中しその人たちに宅地を提供する必要があるので、出て行って下さい、そこに大規模団地を建てますから、となったらどうだろう。
 さらに農山村は職住一致なので、転業もセットでついてくる。住宅街から出て行って下さい、勤務先もなくなるので新たに仕事探して下さい、というのと同じだ(一部、慣れない商店経営の斡旋はあった)。

 これと同じことは、都市部でも起きている。面積は狭くなるが、いわゆる地上げや再開発で、虫食い状に古い住宅街や商店街が売られてゆき、残りたい人も残れなくなる(日本だけでなく、中国でもビル建設で周囲が掘り込まれた中、ポツンと頑張る家がニュースになっていた)。
 時代が進めば、結果的には同じ選択になるのかもしれない。小山田小野路でも、農業する人勤めに出る人様々だろう。突如発生し強制的なのか、時代の流れから自分の判断で選んだものかで、心情は大きく異なる。
 (2017−18編7に続く その4はこちら



目次: 北野台  片倉台  比企



北野台  2018年冬

 北野駅南東にほそぼそと残る里山に行ってみた(左下)。登り口はある





 尾根には道があり、北はロープで通行止めしてあったが南は歩ける。
 道なりに行くと住宅街に下りた





 左上:まあ、こんな感じのところに下りる 右上写真の山が歩いた里山
 左下は道沿いにあった子育地蔵尊
 少し北方向に戻り、北野駅南、八王子バイパスすぐ東にある大きな里山に向かう
 右下:里山北端の登り口 尾根上は戸建団地





 左上:北端にあった祠 右上:尾根は青年の家によって分断されていた
 左下:東側を望む 団地内の道もどんづまりだった





 下りて川沿いの道(右上)を南へ向かいがてら、地元の人何人かに聞いてみた。「昔は歩けた。今はダメ」「歩けない。団地からも行けない。青年の家と資材置き場みたいになっている」という。
 ところで左上写真の緑のビニールシートの家、目立つし気になったので聞いてみたが、みな口ごもる。「あれでもきれいになった」という。元ホテルか何かかと聞くと、ホテルじゃないという。
 左下:谷戸最奥に畑があり、作業している人がいた。この先、抜けられるか訊ねると「道なりに行くとヤブ道がある。最後少しだけ藪をこげば、あそこに見える家のあたりに出られる」と教えてくれた。





 道はときどき分岐している。夏は藪が酷そうなところを、まあこんな感じで進む。
右下:いったん丘に出たら、残土置き場のようなところだった





 戻って南へ向かう。どうやら家方向よりも西の藪道を進んだようだ。最後少し藪こぎすると、畑に出た。すみません、通して下さいと心の中で謝りつつ、端を歩いてロープの張られた出口へ。
 舗道を西に進むと住宅が数軒、本当はこのあたりに出られるらしい(右下)





 北野台団地(左上)を南へ抜けて、白山神社へ。
 高台に建ち、神社前は広々とした公園、このあたりではかなり大きな神社だ。





 左上:本殿  右上:南斜面を下る   左下:南に柚木中山の丘陵が見える。




上:中山に下り、
集落縁を廻る土道を歩く

左下:北野台団地

右下:八王子バイパスはさんだ北野台の西にある東急片倉台団地





片倉台  2018年冬

 北野駅から八王子バイパスの西の打越にゆく。めざすはこの里山(左下)。昇り口を探す





 左上:探す途中、入った横道で見かけた古井戸。
 親子連れに道を訪ねると、梅洞寺の脇から入れると教えてくれた。右上:梅洞寺
 左下:しっかりした普通の道   右下:東に谷戸  西は旭ケ丘団地





 右上:集会所的な施設脇に下りた
 下:集会所脇の尾根頂上は少し歩けるが、これ以上どこかに通じているわけではない





 左上:旭ケ丘団地からバイパス(写真のトンネル)を望む
 南に進むと畑がある。ちょうど老人がいたので、南の東急片倉台団地まで尾根歩きできるか聞いてみた。「昔はあったが、今は歩く人おらん。その山の持ち主も、もう30年来ていない。昔はずっと尾根歩けたもんだが」代々地元の人っぽいので、「昔はこのあたりはずっと、こんな感じだったんでしょうね」と山を指して言うと、「ずっと雑木だった、全部雑木だった」と言った。そして、「そうだな、ここに昔は道があったが」と駐車スペースをのぞきこみ、「この道ももう歩けないようだから、そっち行って家一軒分下ってすぐ左に入ると、あの車の停まっているところの下の道に出る。そこから畑に入って、畑の奥に行くと、藪だが道があるかもわからん」と教えてくれた。
 そのとおりに行くと、なるほど畑に出た。ちょうど作業車が入っていたので、声かけたほうがいいと思い、畑から尾根に出られるか聞くと、「前はあった。今は歩けない」「どこに出たんですか?」「今は東急の片倉なんとかだ」「ちょっと行かれるか歩いてみてもいいですかね。人の山だから持ち主いるだろうし、ダメならいいけど」「ああいいよ、藪かきわけになるぞ。ダメなら戻ってくればいい」





 というわけで、行ってみた。畑脇からとりつき、まず南下。道はないが、このあたりはまだよい。尾根はいったん西に曲がる。このあたりから、冬だからまだよかったものの、激藪。今までの山行バリエーションの中でも一番の藪だった(上の写真は取っ付き部分でまだまし)。つると丈の高いあずまネザサが酷く、引き返すか考えるが、ちょうど大雪で倒伏しているところもあり、その上を歩いた。尾根は再び南に曲がる。鞍部があるので、とりあえずそこまで行ってみることにする。
 左下:西に片倉台団地が広がる
 鞍部に出たら、急に刈られていた。下に何か会社があり、その上の斜面がきれいに整備されている(右下)





 このあたりだけ、尾根に道もついている(左上)
 でもその先は再び藪。行く手奥に常緑樹の森が見えた。神社だったらラッキー、道がある、と行ってみる。神社はなかったが、細丸太で木を支え、メンテしてあった。ということは管理道があるのでは。すぐにフェンス脇に出た。東は八王子バイパスの崖、南へ下っている(この尾根はここで終わり)。急だが、フェンス沿いにピンクテープがあり、歩けるスペースがある。





 ちょっと人の家の上を歩く感じのところがあり、ごめんなさいして通る。
 さいご、公園内の金網で囲われた何かの施設に出た。でも一か所穴があき、そこにピンクテープもあったので出られる。藪歩きする人がいるのかもしれない。
 右下:東急片倉台団地の団地内商店街





 上:団地と里山     左下:片倉台団地西端から日本文化大学を望む
 北野駅方向に戻る。お寺のある丘陵の西端をめぐって北へ向かう(右下)





 この丘の上は墓地で、尾根歩きできない。若干トラバース気味に小高いところを歩く。尾根の北端は公園化されていて、登ることができた(右下)








東半分は保全地区で
フェンスで囲われ入れない

湯殿川沿いの畑



片倉−小比企−みなみ野  2018年冬

 片倉駅西、片倉城址の丘に北東から登る。左下:登り口







 丘上は広い台地で、まず公園があり、南西に進むと畑が広がる。右上:西方向   右下:東方向





 左上:北の八王子方向



 さらに進むと広々とした公園広場で、家族づれが凧揚げしたりテント張ったりしていた
 台地は、南西から北東に流れる湯殿川の河岸段丘   右下:台地縁から北西方向を望む





 右上:南の工科大学方向
 左下:みなみ野の団地を南北に抜ける大通りと交差 奥は高尾奥多摩丹沢の山々、後ろに富士山が見える。大通りを渡り、再び台地の続きを歩く。平坦でいい畑地が広がる





 右上:麦が植わる  左下:台地上を南西へ続く道  
 右下:台地の西側は雑木林、下を湯殿川が流れる。東は一段高くなっており、その上にみなみ野の団地が広がる





 右上:川の対岸も丘陵だ   犬づれや散歩する人が、けっこう歩いている



 左上:来た道、北東を振り返る  右上:西方向
 下:そろそろ台地の南端





 大通りを南東に下り、T字路に出たら(左上)、東のみなみ野団地方向へ向う。丘上に水道局施設(おそらく団地の上水)があり、その南端が「みなみの大船の尾根緑地公園」になっていた  右上:登り口
 右下写真奥の尾根が七国峠の尾根





 右上:七国峠の尾根 あの上からこちら側を見ると、ばっさり削られた台地に造成地と団地が広がる例の光景になる



 左上:みなみ野団地   右上:団地台地の西端から西の奥多摩丹沢を望む
 地図を見ていると、犬散歩の女性が声をかけてきた。いろいろ話すうち、自分の住む区の職員だとわかる。えー、ここから通ってるんですか、という感じだ(なんとなく区職員は区内在住のような気がしていた)。「十年前はここも何もなかったんですよねー、造成地で」と言う。はじめどんづまりだったこの道路も、環をかいてぐるっと回れるようになった、とのこと。



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