かつての里山の風景がまだ残る横山南斜面その2。特に押越の景観は、気に入っている。 2011年の様子はこちら: 鶴見川源流/野津田、布田道/小野路
多摩丘陵開発考その3 『ニュータウンの社会史』より抜粋
1965頃 柚木清浄野菜出荷組合が最初に反対運動 集落だけでなく田畑山林も計画区域からはずすよう陳情
1966 堀之内 旧由木村全域外すよう陳情 この頃南大沢、稲城の坂浜でも反対運動
都その他の関係者:そもそも既存集落の全面買収は不可能とする意見有力になる。ただ新住区域から外すと、集落部分の河川改修、街路築造、下水道整備が困難になる
公団側:集落の上記工事を先行しないと、丘陵部の本格造成ができないため、早期解決を都に迫る
1966 都は既存集落を計画から除外、区画整理事業として行うことにする
しかし地権者は、既存集落の除外と共に、農耕地の除外も望んでいた。一方、都や開発側にニュータウン内に農地を残す発想はなかった
また新住法で丘陵地を買収され、区画整理事業で街道河川整備用地のため宅地公共用地を減歩される、休農等への損害処置がないことへの不満から、区画整理事業に対しても反対運動起こる
1968 進行状況から、開発事業は全面見直しは困難とされる
・山林から買収したため、一度土地を売った経験は抵抗感を薄めた。また、桜ケ丘団地や府中カントリークラブで、農家が現金を取得するのを見聞きし、開発に期待する農民も出てきた。
この結果、山林をもてあまし気味の有力地主層と、耕作規模が小さく兼業化が進んだ零細農家が売却、陳情中も陰で買収が進み、後戻りできないと認識されるほどになっていた。
・多摩村自体、丘陵で工場誘致ができず、京王の桜ケ丘団地開発を見て団地開発に活路を求めていた。
ニュータウンの問題点:
・多摩ニュータウンの根拠となる新住法は、大量の宅地供給を目的としていたため、宅地以外の立地には制約と困難があった。このため、住宅とその関連施設のみの居住機能に特化した町となり、(農業だけでなく)商業工業など他の産業を完全に欠く「無産業地帯」となった。
・団地を建設すれば人口増加、商業活性化、地元自治体も豊かになると予想しがちだが、実態は逆だった。一時的に大量人口流入、道路下水道学校などインフラ整備に多額の支出が求められる。当初、団地建設は地元自治体に公共投資の財政負担を押し付ける形で進められ、財政破綻の危機に陥る自治体も出てきた。
1966,67 八王子市と町田市で、事業主による公共施設用地の無償提供と水道敷設費負担、農業用水と一般排水の分離を決定
「いたずらに国、公団、公社の住宅政策、民間企業の乱開発の犠牲になり、市民生活を擁護する自治体本来の機能を喪失」(町田市の通称「団地白書」より)
1968頃 地元自治体にとって法人税収も必要なため、業務施設立地を陳情
1971 多摩市 地元自治体の財政負担問題、鉄道問題(小田急と京王の延伸工事が遅れていた)、総合病院開設(夜は無医村状態だった)、行政区画変更の4問題が解決しないと、市は住宅建設に一切応じないと決定、3年間建設がストップする
1974 多摩市は財政難から、高所得者ターゲットの要望を提出。住宅数20%減、緑地大幅増、3DK4DK以上増、都営30%→15%へ減、分譲:賃貸2:8→4:6、都はほぼ認める
1988 新住法改正 区域内に「特定業務施設」立地可能になる
(2017−18編5に続く その2はこちら)