2015年5月上旬
コース記録: 1日目:三叉路バス停8:35−塩水橋10:00−本谷橋11:00−12:45三角沢ノ頭(昼)13:00−オバケ沢上13:40−15:30三角沢ノ頭15:40−日高16:10−尊仏山荘17:00
2日目:山荘5:45−6:45丹沢山6:50−西峰7:15−早戸川9:00−9:30伝道10:00−11:20本間橋10:30−無名の頭12:35−12:45東峰(昼)13:05−早戸川林道出会14:50−宮ヶ瀬16:40
当初、オバケ沢からいったん三角沢ノ頭に登り、再び沢に下りて木ノ又大日へ抜けるコースを歩く予定で出発。もう5月、林道歩きは暑い。そろそろ蛭が出てこないか、それも心配だ。
左上:日高付近から三角沢の頭への尾根を振り返る 右上:日高 主稜線に出たところ
なんだか疲れて、塔ノ岳への道でいちいち登り返すところがきつい。休み休み行き、尊仏山荘にようよう到着。
かつて林業がさかんだった頃、山には木馬道がめぐらされていた。昭和40年代頃までは、丹沢や奥多摩、秩父をハイキングすると木馬道を歩くことも多かったという。木馬道とは材出し用の木桁で組んだ木道のことで、小さい沢を木で橋桁を組んで渡してある感じの道が、延々山腹にトラバース道のように続いているのを想像すればいい。この道を、材を乗せた木の橇(木馬)が、男性一人が人力で操作しながら通る(場合によっては奥さん子供も木馬の後ろについて制御した)。重労働で下敷きになり亡くなった人、片腕無くした人もいたという。
シュトルテ氏の『丹沢夜話』シリーズによれば、札掛周辺の本谷やタライゴヤ沢、塩水あたりにも木馬道が縦横に通っていた。本には、木馬道の上を大勢学校の生徒たちが歩いているようす、背丈ほどの高さに積んだ橇の前に立つ男性の写真が乗っている。歩いているときにこの橇が来ると、周囲の山々に音が反響するため巨人の歯軋りのような不気味で恐ろしい音がしたという。当時山には樵夫が大勢おり、木馬道を組む専門の樵夫もいた、札掛金林沢上流には三段に組んだ木馬道もあったというから、なかなかの土木技術だ。丹沢で伐採していたのは、主に原生林の大木だった。当時丹沢は鬱蒼とした原生林の森、その後植林された人工林が多くなり、随分と景観が変わった。
平成の今は木馬道も朽ち、頻繁に木馬が通ったという面影なく森閑としており、当時の山の賑わいが想像だにできない。
1979年頃の『丹沢だより』に、面白い話が載っている。かつて塔ノ岳では毎年5/15に野天賭博が開かれていた。1979年当時もまだ開かれており、当日大勢年寄りが登ってくる。当時は頂上ではなく裾野のほうでやっていた。シュトルテ氏の『丹沢夜話』によれば、山頂から見渡せるから見張りをたて、役人(明治以降はお巡り)が来ると皆四散。1983年頃の記録では近年まで茶屋を貸し切り夜通しやっていたという。
こうした山の上で野天賭博が開かれていた話は、大菩薩峠でも聞いたことがある。みな楽しみにしていたという。山の上だったのは、四方八方の集落からアクセスしやすいことと、役人の取り締まりを上から見張りやすかったことがあるだろう。
下:翌朝、丹沢山へ向かいます いい天気だ